長嶋さんが地方局アナに異例の…監督時代に取材した際の秘蔵エピソード

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熊本 2025.06.03 20:16

「ミスター」の愛称で親しまれた長嶋茂雄さんが亡くなりました。89歳でした。長嶋さんの訃報に県内でも号外が配布されるなど、惜しむ声が聞かれました。KKTは何度も長嶋さんを取材していました。取材したKKTの元アナウンサー本橋馨さんが秘蔵エピソードを明かしてくれました。

■中野美月記者
「国民的スター長嶋さんの訃報に、街の人は悲しみを寄せています」


3日午前11時ごろ、熊本市で長嶋さんの訃報を伝える新聞の号外が配られました。

■街の人(40代)
「スーパースター。時代をつくった方だと思う」
■街の人(80代)
「残念やね。しっかり人間味があってとてもいい人だった」


■街の人(40代)
「巨人ファンで大学も一緒で偉大な先輩だった。現役時代を知らない自分としてもスーパースターだったとよくわかります」
■街の人(50代)
「ゆっくりされてください、天国でもまた面白いこといっぱいやってくださいと伝えたい」

訃報を受け取材に応じてくれたのは、元KKTアナウンサー、本橋馨さんです。本橋さんといえば…


(1998年2月)
■本橋馨さん
「監督どうもこんにちは!はじめまして!」
■巨人・長嶋茂雄監督(当時)
「いらっしゃい!」

巨人の宮崎キャンプを何度も取材し、3回にわたり、長嶋さんへの単独インタビューを行いました。

■本橋馨さん
「『さよならミスタージャイアンツ』。 長嶋さんが引退した1974年のあの有名なスピーチ『栄光の巨人軍に入団以来…』この時の音声が全部入ったドーナツ盤のレコードなんです。アナウンサーで実況すればプロ野球選手の近くに行けるかもしれないと思って、夢を与えてくださったのが長嶋さんだったんです」

そんな憧れの長嶋さんに情報番組「テレビタミン」の司会として、単独インタビューが実現しました。


■本橋馨さん
「ローカル局のアナウンサーが単独で1対1でインタビューというのはそれまでなかった。びっくりさせようと思って、熊本の特産品のバンペイユを持って行ったんですよ」

(1998年2月)
■巨人・長嶋茂雄監督(当時)
(バンペイユ持って)
「うわ~またいい色合いしていますね。イエローで!」

■本橋馨さん
「僕は大きさでびっくりさせようと思ったのに、色で来るか監督みたいなね。それが放送されて大ウケで『さすが長嶋さんだね』みたいな。あのインタビューは本当に一生忘れられませんね」

そして翌年(1999年)もインタビューが実現した本橋さん。この年は熊本で巨人対阪神のオープン戦が開催され、試合前に異例の待遇を受けたと言います。


■本橋馨さん
「マスコミは練習中にグラウンドには入れるんですが(選手・監督に)近寄ってはいけない。そしたら私の方を見て手招きをしたんですよ。おそるおそる監督がいる方に歩いて行ったんですよね。そしたらやっぱり私のことで『インタビューお世話になりました。あのインタビューはウケましたか?』とおっしゃるわけですよ。地方局のインタビューのことまでそんなことまで気遣う方っていらっしゃいます?そのぐらい細やかで気遣いのある方なんです」


■本橋馨さん
「これほど記録と記憶に残る方はいないんじゃないでしょうか。長嶋さんの時代に生きることができて本当に良かったと思っています。心からお悔やみと感謝の言葉を申し上げたいと思います」

【スタジオ】
(緒方太郎キャスター)
天草市に長嶋茂雄球場と呼ばれる野球場があるのをご存じでしょうか。1989年の完成当時を知る方にお話をうかがいました。


【VTR】
天草市本渡町の「広瀬公園野球場」は「長嶋茂雄球場」の愛称で親しまれています。今から約40年前、天草にトライアスロン大会を誘致した際、長嶋さんが日本トライアスロン連盟の会長を務めていたことから、市内の球場の愛称を「長嶋茂雄球場」とすることを打診した所、快く了承してくれたという事です。


■元本渡市教委 体育保健課・楠本千秋さん
「トライアスロン第一回大会から天草に来て、びっくりするような人が集まって。長嶋さん効果というか(人が)引き寄せられる。本当に天草にとってはすごく貢献いただいた。関係のあった人間としてさみしいというか、言葉では言えないような感覚でいます。本当にお悔やみ申し上げたいと思います」