つり革につかまったまま焦げて亡くなった人も…学徒動員先の長崎で被爆した男性語る

この記事をシェア

  • LINE
熊本 2025.07.10 20:40

学徒動員先の長崎で被爆した熊本市の男性が、今も鮮明に頭に残っているあの日の記憶を語りました。



■清田博さん
「これは熊商3年生の時なんだけど6月に長崎に学徒動員で行くその年の春。3月の頃だった。君たちの生存をお願いしておこうと私のクラスだけ先生が連れて行ってくれた」

熊本市南区に住む清田博さん(97)。清田さんは1942年熊本県立商業学校、今の熊本商業高校に入学。飛行機が好きだったことから、グライダー部に所属していました。

■清田博さん
「家では盛んに飛行機をつくってたんだ。それで飛ばすわけ。男というのは、どうしたって戦争となれば飛行機の時代だから、当時飛行機で敵をやっつけに行くという気持ちがかきたてられる」

そして、3年生のとき軍需工場などで労働する「学徒動員」で長崎市の三菱重工業長崎造船所へ。清田さんが従事したのは爆撃機「飛龍」の油タンクをつくる仕事でした。油タンクは熊本市健軍の軍需工場に運ばれ、「飛龍」がつくられました。

■清田博さん
「私たちが長崎にいるのに、熊本の飛行場で飛び出す重爆撃機にそのタンクが組み込まれて、それに油が入れられて、そしてプロペラを回しながら飛んでいくのか、うれしいなぁとみんなが一生懸命作ってたくさん送り合ってやったわけだ。それは原爆が落ちるまでずっと続けて作っていた」

そして、動員から約1年2か月経った1945年8月9日。爆心地から4キロ以上離れた工場の近くで友人と休憩していた清田さんは、飛行機のようなものが何かを落としたのを目撃しました。原爆です。



■清田博さん
「なんだろうと見ているうちに。 こっちまで赤い玉に包まれてしもうた。その間に体がブワーっとぬくもってきた。 何だろうと思っているうちに、体から水分がびゅーっと吸い上がっていった。これまでに汗かきよったのがすっーと持っていかれてしまって、何かわからんけど。体から水らしいものがなくなっちゃった。私は体がぶーんと浮き上がって。スポーン。落とされた。友達もスパーンと落とされて地べたに這いつくばった。そのままえんじ色のその玉はもっともっと広がっていた」

清田さんは、友人と一緒に工場に避難しようとしましたが、爆風で転倒。何とか工場に入り無事でしたが、その後清田さんが見たのは変わり果てた長崎の街でした。清田さんは戦後、原爆投下から数日後の長崎の様子を絵にしました。

■清田博さん
「長崎の街自体そのものがね、もう鍋の底」



電車の中でつり革につかまったまま焦げて亡くなった人。水を求め防火用水に顔を突っ込んで亡くなった若い女性。

■清田博さん
「原爆というものは1発でこういうふうになるんだから大変なものなんだよと」

7万人以上の命を奪った原爆の恐ろしさを知ってほしいと、清田さんは長崎の原爆資料館にこの絵を寄贈しました。



■清田博さん
「原爆っていうのは人間をただの物扱いにしてしまうようなもの。だから使っちゃいけないよと言いたい。もちろんその前に戦争しちゃいけないということを言われなあかんよな。何かを奪い取ってしまおうという気持ちがなくならなければ戦争は終わらない」

清田さんは平和を願っています。