「海の特攻」人間魚雷・回天 100歳迎えた元搭乗員の男性が語る

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熊本 2025.08.14 19:43

戦後80年「いまを戦前にさせない」今回は爆弾を積んで潜水艦から発進し敵に体当たりする人間魚雷・回天です。「海の特攻」と呼ばれた兵器の搭乗員だった100歳の男性が当時を振り返りました。

玉名市岱明町で暮らす浦田勝さん。6月に100歳の誕生日を迎えました。浦田さんは今から80年前「海の特攻」と呼ばれた人間魚雷「回天」の搭乗員でした。



全長14.75メートル。約1.5トンの爆薬を積み、時速56キロの最高速度で敵艦に体当たりする特攻兵器、回天。戦況が悪化した太平洋戦争の末期、通常の魚雷より爆薬を多く搭載でき潜水艦から密かに出撃できると大きな効果が期待されていました。



1943年、18歳で海軍航空隊に入隊し鹿児島で飛行予科練習生として訓練していた浦田さん。「新兵器ができた」という発表を聞き自ら志願しました。



■浦田勝さん
「戦争に参加したかった。危機感を持った。日本はどうなるんだろうかと。そんな思い」



1945年4月、浦田さんは大分県日出町の大神訓練基地に配属されます。集められたのは自分と年が近い二十歳前後の若者ばかり。「一人息子と長男はやめたほうがいい」と言われていたといいます。

■浦田勝さん
「自分の体と鉄砲と弾で一緒に戦う。国土を守る素晴らしい新兵器なんて嘘っぱちでした」

「天を回らし、戦局を逆転させる」という意味が込められた回天。一度出撃すれば止まることができない、死を前提とした兵器でした。「やるからには体当たりする」と恐怖心はなかったという浦田さん。

Qどんな気持ちで訓練していた?
■浦田勝さん
「深く考えんだった。深く考えるとくたびれてしまう」

それでも、「いつかは自分も出撃する」と一心に操縦訓練を続けました。ただ、その日々は突然終わりを告げます。



■浦田勝さん
「あなん(当時の陸軍大臣・阿南惟幾)が死んだと。負けた負けた、あなんが自決したと。がっくりだった」

1945年8月15日。「陸軍大臣が命を絶った」という上長の叫び声で浦田さんは戦争が終わったと知りました。約9か月間の出撃で回天は少なくとも7つの敵艦を撃沈・損傷させました。



一方、この作戦では約1000人が命を落としました。浦田さんもまた、共に訓練に励んだ仲間を失いました。敵艦に向かったものの攻撃に失敗し自爆装置で命を絶った人や訓練中の操縦の失敗で亡くなる人も少なくありませんでした。戦後、浦田さんは自宅の敷地にお堂を作り、亡くなった戦友の死をいたんでいます。

■浦田勝さん
「戦争はやめなさいと。やめさせるには大変な力がいる。もう二度と戦争が起こらないようにするためにはどうすればいいか本当に考えるべき」

80年前、浦田さんが訓練に明け暮れていた大神基地。



■ひじまち歩きガイドの会・正田益資さん
「実は回天に乗って死にたくないとトイレの中で泣いている人もいたということ」

この日基地に集まったのは映像制作を学ぶ大分の日本文理大学の学生です。当時を知る人に取材をして短編映画を制作しました。

■訪れた親子
「うちの祖父は陸軍。家内の祖父は海軍。子供たちに家からも戦死者が出ていますので、知ってほしいなと思って連れてきた」
■子ども
「(当時戦った人たちは)日本を守りたい、命懸けで守りたいということがわかった。命が大切なことだとわかりました」


■制作に携わった学生(日本文理大学)
「日本全体がそういう流れだと思うので従うしかないのかなというのと、でもやっぱり行きたくない気持ちは昔の人も当然あったと思うので、かなり厳しい決断だと感じた」
「体験した方から話を聞くと本当に怖いととても強く実感したので、もっと若い世代が知っていかないといけない」

戦争を知らない世代も回天を語り継ごうとしています。



80年前、回天で出撃し国を守ると信じていた浦田さん。戦後は県議会議員を6期、参議院議員を2期務めるなど国や地元の戦後復興に力を尽くしました。今は子や孫に囲まれ穏やかな日々を過ごしています。この日は100歳の誕生日会、にぎやかな時間が流れる中…

♪ブナを思えば悔し泣きガダルを思えば血の涙
 あすは必ずガダルへ飛んで玉と砕けん心意気。
 とうさまかあさま白木の箱が届いても泣かずにほめてくださいねバイバイ

かつて戦友とうたっていた歌。出撃を心待ちにする思いと家族への思いが入り混じる当時の記憶…。


■浦田勝さん
「80年経つけれど忘れられない」

大正から令和を生き抜き戦前も戦後も知る浦田さん。「戦争は決していいものではない」子どもや孫の世代も穏やかな平和が続くようにと心から願っています。