漱石と熊本

あちこちに残る若き漱石の足跡

NENPUss.jpg15.jpg熊本で濃密な4年3か月

夏目漱石は1896年(明治29年)、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師として愛媛県松山市から熊本に赴任しました。漱石ゆかりの地というと松山が浮かびますが、漱石は松山には1年足らずしか住んでいません。一方、右の年譜(クリックすると拡大表示します)の通り、熊本での暮らしは1896年(明治29年)4月から1900年(明治33年)7月まで、4年3か月に及びます。

熊本で漱石は新婚時代を過ごし、長女が生まれ、何人もの友人と同居し、登山して遭難しかけ、週20時間以上英語を教え、ボートレースに出場し・・・と、非常に濃密な経験を積んでいます。熊本にいる間本格的な小説は書いていませんが、後に発表する「草枕」や「二百十日」は熊本での経験をベースに書かれています。生涯詠んだ約2400句の約4割は熊本で詠まれたものです。

にもかかわらず「漱石といえば熊本」という人が少ない理由について、原田信志・熊本大学長は「五高と漱石」の序文で、松山時代をモデルにした「坊っちゃん」と、熊本時代の旅行体験を下敷きにした「草枕」の「通俗性の差」をあげています。誰でも読みやすい「坊っちゃん」に対し、芸術論が散りばめられた「草枕」は、「玄人受けはするものの、いまひとつ大衆には近寄りがたく、それだけに熊本臭さがなくなっている」というわけです。

漱石は松山が嫌いで、熊本についても英国留学を終える際に「戻りたくない」と心情SOUSEKINEN_R.jpgを吐露しています。熊本での生活も五高の人々や旧来の友人が中心で、熊本を愛し、生活に溶け込んだとは言えなかったかもしれません。しかし、漱石が教育者から作家へと踏み出す上で、熊本の4年3か月が大きく影響したことは間違いありません。

2016~2017年には漱石生誕150年、没後100年、来熊120年という節目が続き、熊本でもさまざまな催しが計画されています。文豪・漱石を振り返り、その俳句や小説を知るには、熊本は絶好の場所なのです。

15.jpg上熊本に降り立つ

SOUSEKIKAMIKUMA_R.jpg漱石が上熊本(当時は池田停車場)に降り立ったのは1896年(明治29年)4月13日。漱石の手紙と当時の時刻表からみて、午後2時過ぎに到着したようです。門司に向かう船中で知り合った俳人の水落露石、武富瓦全と久留米まで出迎えた親友の菅虎雄の3人が一緒でした。

駅から4人で人力車に乗って京町の坂を上り、新坂を下る時に熊本の豊かな樹木に感嘆し、「熊本は森の都だなぁ」とつぶやいたというのは有名な話ですが、本当にそう述べたという記録はありません。ただ、後に新聞のインタビューで、このとき高台から見た白川や山々の春景色を「絶景だった」と振り返っており、熊本の第一印象は良かったようです。

現在、上熊本駅前には漱石の銅像が立ち、通りも「我が輩通り」と名付けられています。

15.jpg頻繁な引っ越しのワケ

菅虎雄の家に転がり込んだ漱石は、新居を探しますが、なかなかいい家が見つかりません。漱石は松山時代より20円も高い月俸100円で第五高等学校に迎えられ、当時、鏡子と婚約していましたから、少々家賃は高くても新妻を迎える立派な新居を見つけたかったのでしょう。

しかし、当時の熊本は1877年(明治10年)の西南戦争で焼け野原となった後に建てられた安普請の家も多かったようで、気に入る家はなかなか見つかりませんでした。

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ようやく家が見つかって菅の家を出たのは5月9日ごろでしたが、5月16日付の手紙では「一週間程前、敗屋(荒れ果てた家)を借り受けたが住みきれない」と書き送っています。漱石が最初に住み、鏡子夫人と結婚式を挙げた「第1旧居」(下図②❶、通称光琳寺の家、下通町103)は、現在のホテルサンルート熊本付近にあり、ホテル1階入口には句碑(写真左)があります。ただ、光琳寺町の「敗屋」が最初の家だったとすれば、第1旧居は2番目の家となります。

その後も漱石は引っ越しを繰り返し、熊本の旧居は漱石が住んだ順(最初の菅虎雄宅は漱石の家とは考えず)に番号で呼ばれていますが、番号は1つずつ増やした方がいいのかも知れません。そこで下図は地図には「敗屋」から順に住んだ家に番号をつけ、一般的に呼ばれている番号は黒丸数字で併記しています。

sousekinoie_R.jpgやっとみつけた下通町の家でしたが、すぐ前が墓場であることを鏡子夫人が嫌がり、漱石夫妻は早くも9月には「第2旧居」(③❷、合羽町の家)に引っ越します。しかし、この家は西南戦争後の安普請の典型で造作が悪く、鏡子夫人が気に入りません。漱石も「名月や 十三円の家に住む」という句を詠んでおり、家賃が高いと感じていたようです。

sousekidai3-kansi_R.jpg1年住んだ後に引っ越した「第3旧居」(④❸、大江村の家)は、漢詩人で大正天皇の侍従も務めた落合東郭が熊本を離れていた間、留守宅を借りました。閑静で家賃も安く夫妻は気に入っていましたが、東郭が帰熊したため出ざるを得なくなりました。

漱石はこの家から同僚の山川信次郎とともに「草枕」の旅へ出かけました。この家はジェーンズ邸とともに移築されて水前寺公園の隣に現存しており、庭には漱石の漢詩の碑があります(写真)。そばには漱石がボートレースをした江津湖や、漱石の書簡などを所蔵するくまもと文学・歴史館もあります。

くまもと文学・歴史館の案内は yubiyubi.png こちら

次に住んだのが白川に近い「第4旧居」(⑤❹、井川淵町の家)でしたが、ここでは鏡子夫人が白川に入水自殺を図る事件が起きます。幸い夫人は投網で漁をしていた人に助けられ大事には至りませんでしたが、漱石はしばらく鏡子夫人の腕と自分の腕を紐で結んで寝たといいます。慣れない熊本の暮らしで鏡子夫人の精神状態は不安定になり、漱石は川の近くは危ないと、この家も短期間で引き払います。

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「第5旧居」(⑥❺、内坪井町の家)は、漱石夫妻が一番気に入り、熊本で最も長い1年8か月暮らした家です。長女・筆子が誕生した家でもあり、筆子の産湯を使った井戸や、五高の教え子だった寺田寅彦が泊まった馬小屋などが現在も残っています。記念館として公開されている内部には、漱石直筆の原稿やレプリカ原稿のほか、和室には漱石のからくり人形もあります。

最後に住んだ「第6旧居」(⑦❻、北千反畑町の家)では熊本最後の3か月を暮らしました。漱石の書斎は2階にあり、夜遅くまで電気がついていたそうです。この家は現存しますが、一般には公開されていません。

漱石は東京やロンドンでも引っ越していて、「引っ越し魔」とも言われますが、熊本での頻繁な転居にはそれぞれ理由があったようです。

15.jpg授業はスパルタ、優秀な教育官僚

漱石は旧制第五高等学校(現在の熊本大学)で、週20時間以上英語を教えました。外国人教師の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として特別待遇の高給で迎えられ、教職員の人事異動にも深くかかわるなど、五高教師陣の中でも花形的な存在でした。

授業は厳格で、1年間に何冊ものテキストを読ませ、綿密な予習をしていないとついていけなかったといいます。入学試験では教師が読み上げる形で、当時としては画期的なヒアリング試験も取り入れました。

1897年(明治30年)10月10日の開校紀念式では教員総代として祝辞を述べ、1900年(明治33年)には教頭心得に昇進しています。ロンドン留学も文部省の命によるもので、政府も国の教育行政を司る人材として期待していたのでしょう。5kousousekizou_R_R.jpg

ただ、五高時代には文人・漱石の顔が見え始めます。生徒たちを集めて自宅で運座(句会)を開く「紫溟吟社(しめいぎんしゃ)」の会を結成。漱石を五高に招へいした菅虎雄や帝大同窓で合羽町の家で同居もしていた山川信次郎、歴史教師の長谷川貞一郎らと行動を共にしていたようです。

熊本大学には五高当時の面影を残す五高記念館のほか、漱石の銅像(写真)や開校紀念式での漱石の祝辞の一節を刻んだ碑があります。

15.jpg草枕の道で桃源郷へ

「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」

小説「草枕」のこの有名な一節は、熊本から小天(おあま)温泉に旅行した途中の山道がモデルになっています。

漱石は熊本にいる間に3回、小天(おあま)温泉の前田家別邸に出かけたと考えられています。1回目は1897年(明治30年)11月ごろ、山川信次郎らと1泊で。2度目その年の暮れから翌年正月の3が日まで、やはり山川と訪れています。1898年(明治31年)の「夏蜜柑(みかん)の実る頃(5月〜7月上旬)」にも早朝から日帰りで、山川、木村邦彦ら5人で小天温泉を訪れ、湯の浦の別荘で昼食をとり、前田案山子の本宅を訪れた後、岩戸観音や鼓ヶ滝を見物し、鎌研坂を通って熊本に帰っています。漱石は小天が好きだったのでしょう。

最も有名で滞在期間も長いのは2度回目の年越し旅行ですが、なぜ鏡子夫人を伴わず、この時期に旅行したのでしょう。

実は、前年に新婚で熊本での初の正月を迎えた漱石と鏡子は、正月から大げんかをしていたのです。正月に五高の生徒たちが大挙して漱石宅を訪れ、たちまち料理がなくなってしまったことがきっかけでした。正月に家にいると同じ目にあうと考えた漱石は、熊本での2回目の正月は小天に避難したわけです。鏡子夫人を「悪妻」という人もいますが、夫婦喧嘩がなければ「草枕」は生まれなかったかも知れません。ただ、2度目の旅行時期は冬で、「草枕」の春の情景とは合いません。草枕の情景には、1897年春休みの久留米旅行の情景も混ざっているようです。

2kaeKUSA_R.jpg現在、熊本から小天温泉までの道は草枕の道ハイキングコースが整備されており、各所に当時のたたずまいが残っています。漱石が住んでいた大江村の家から歩くと約23キロの道程になりますが、①の岳林寺から歩く人が多いようです。

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小天温泉に至るには2つの坂があり、地図の②にある鎌研坂は「草枕」の「山路」だったと考える人が多いようです。鎌研坂バス停前には「木瓜咲くや 漱石拙を守るべく」の句碑(②)があります。

少し登ると峠の茶屋公園と、鳥越の峠の茶屋(③)があります。「『おい』と声を掛けたが返事がない・・・」で知られる「草枕」に登場する茶屋と言われています。しかし、茶屋からの風景や登場する女性などから判断すると、「草枕」の茶屋はもっと小天寄りの野出(のいで)の茶屋(⑤)だったという見方が有力です。小説では2つの茶屋の情景を混ぜ込んで、1つの茶屋として描いたのかも知れません。

kusa6to7_R.jpg鳥越の茶屋から野出の茶屋に至る途中には、「石畳の道」と呼ばれる往還(④)があります。当時の面影をよく残し、薄暗く苔むした風情は漱石ファンに最も人気のスポットです。

野出の茶屋は今はなく、そばにあった桜の木もありません。小さな公園と漱石の句碑があるだけですが、ミカン畑から有明海、遠く雲仙・天草を望む景色は素晴らしく、一見の価値があります。

峠を下ると小天温泉が見えてきます。漱石は前田案山子の別邸に逗留しましたが、下る道の途中には前田家の墓所があります(⑥)。そこからの景色は、漱石が水彩画「わが墓」のモデルになっています。わが墓にしたいほど美しい景色は、漱石には桃源郷に見えたかも知れません。ほど近くには草枕交流館(⑥)があり、さらに下ると漱石が泊まった前田家別邸があります。小天では前田家別邸が定宿でした。

「宿に着いたのは夜の八時頃・・・。回廊の様な所をしきりに引き廻されて、仕舞に六畳程の小さな座敷に入れられた」(「草枕」第三章)とあるその6畳間も残されています。

漱石はここで前田家の次女、卓(つな)と出会い、卓は「草枕」に登場する「那美」のモデルとなります。漱石はこの旅が楽しかったらしく、留学先のロンドンから山川信次郎宛の手紙で「僕は帰ったら日本流の旅行がしてみたい、小天など思い出すよ」と書き送っています。

15.jpg「二百十日」の部屋でタイムスリップ

「二百十日」は漱石の初期の短編小説。東京から来た男2人が阿蘇・内牧温泉に泊まり、翌日中岳火口を目指すが、その日はちょうど二百十日で嵐に遭って道に迷い、馬車宿にたどり着いて翌日再び山頂を目指す話です。この話も漱石が1899年(明治32年)に山川信次郎とともに阿蘇登山した体験に基づいています。

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漱石が内牧で泊まった温泉「養神亭」は、山王閣という名前で現在も続いています。ここには離れに「漱石記念館」があり、漱石が泊まった部屋がそのまま再現されています。小説では女中との間で「ビールはないが恵比須ならある」というやり取りがあり、部屋には年代物のエビスビールの瓶も並んでいます。

近くには小説の冒頭に登場する「大銀杏がある寺」明行寺があるほか、坊中キャンプ場の先などにも文学碑があります。碑が建つあたりが漱石の遭難地点とされていますが、漱石は翌日に馬210-2_R.jpg車で帰熊しており、小説のように再び阿蘇を目指してはいません。

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