漱石と熊本

あちこちに残る若き漱石の足跡

NENPUss.jpg15.jpg熊本で濃密な4年3か月

夏目漱石は1896年(明治29年)、旧制第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師として愛媛県松山市から熊本に赴任しました。漱石ゆかりの地というと松山が浮かびますが、漱石は松山には1年足らずしか住んでいません。一方、右の年譜(クリックすると拡大表示します)の通り、熊本での暮らしは1896年(明治29年)4月から1900年(明治33年)7月まで、4年3か月に及びます。

熊本で漱石は新婚時代を過ごし、長女が生まれ、何人もの友人と同居し、登山して遭難しかけ、週20時間以上英語を教え、ボートレースに出場し・・・と、非常に濃密な経験を積んでいます。熊本にいる間本格的な小説は書いていませんが、後に発表する「草枕」や「二百十日」は熊本での経験をベースに書かれています。生涯詠んだ約2400句の約4割は熊本で詠まれたものです。

にもかかわらず「漱石といえば熊本」という人が少ない理由について、原田信志・熊本大学長は「五高と漱石」の序文で、松山時代をモデルにした「坊っちゃん」と、熊本時代の旅行体験を下敷きにした「草枕」の「通俗性の差」をあげています。誰でも読みやすい「坊っちゃん」に対し、芸術論が散りばめられた「草枕」は、「玄人受けはするものの、いまひとつ大衆には近寄りがたく、それだけに熊本臭さがなくなっている」というわけです。

漱石は松山が嫌いで、熊本についても英国留学を終える際に「戻りたくない」と心情SOUSEKINEN_R.jpgを吐露しています。熊本での生活も五高の人々や旧来の友人が中心で、熊本を愛し、生活に溶け込んだとは言えなかったかもしれません。しかし、漱石が教育者から作家へと踏み出す上で、熊本の4年3か月が大きく影響したことは間違いありません。

2016~2017年には漱石生誕150年、没後100年、来熊120年という節目が続き、熊本でもさまざまな催しが計画されています。文豪・漱石を振り返り、その俳句や小説を知るには、熊本は絶好の場所なのです。

15.jpg上熊本に降り立つ

SOUSEKIKAMIKUMA_R.jpg漱石が上熊本(当時は池田停車場)に降り立ったのは1896年(明治29年)4月13日。漱石の手紙と当時の時刻表からみて、午後2時過ぎに到着したようです。門司に向かう船中で知り合った俳人の水落露石、武富瓦全と久留米まで出迎えた親友の菅虎雄の3人が一緒でした。

駅から4人で人力車に乗って京町の坂を上り、新坂を下る時に熊本の豊かな樹木に感嘆し、「熊本は森の都だなぁ」とつぶやいたというのは有名な話ですが、本当にそう述べたという記録はありません。ただ、後に新聞のインタビューで、このとき高台から見た白川や山々の春景色を「絶景だった」と振り返っており、熊本の第一印象は良かったようです。

現在、上熊本駅前には漱石の銅像が立ち、通りも「我が輩通り」と名付けられています。

15.jpg頻繁な引っ越しのワケ

菅虎雄の家に転がり込んだ漱石は、新居を探しますが、なかなかいい家が見つかりません。漱石は松山時代より20円も高い月俸100円で第五高等学校に迎えられ、当時、鏡子と婚約していましたから、少々家賃は高くても新妻を迎える立派な新居を見つけたかったのでしょう。

しかし、当時の熊本は1877年(明治10年)の西南戦争で焼け野原となった後に建てられた安普請の家も多かったようで、気に入る家はなかなか見つかりませんでした。

sousekisunru-to_R.jpg

ようやく家が見つかって菅の家を出たのは5月9日ごろでしたが、5月16日付の手紙では「一週間程前、敗屋(荒れ果てた家)を借り受けたが住みきれない」と書き送っています。漱石が最初に住み、鏡子夫人と結婚式を挙げた「第1旧居」(下図②❶、通称光琳寺の家、下通町103)は、現在のホテルサンルート熊本付近にあり、ホテル1階入口には句碑(写真左)があります。ただ、光琳寺町の「敗屋」が最初の家だったとすれば、第1旧居は2番目の家となります。

その後も漱石は引っ越しを繰り返し、熊本の旧居は漱石が住んだ順(最初の菅虎雄宅は漱石の家とは考えず)に番号で呼ばれていますが、番号は1つずつ増やした方がいいのかも知れません。そこで下図は地図には「敗屋」から順に住んだ家に番号をつけ、一般的に呼ばれている番号は黒丸数字で併記しています。

sousekinoie_R.jpgやっとみつけた下通町の家でしたが、すぐ前が墓場であることを鏡子夫人が嫌がり、漱石夫妻は早くも9月には「第2旧居」(③❷、合羽町の家)に引っ越します。しかし、この家は西南戦争後の安普請の典型で造作が悪く、鏡子夫人が気に入りません。漱石も「名月や 十三円の家に住む」という句を詠んでおり、家賃が高いと感じていたようです。

sousekidai3-kansi_R.jpg1年住んだ後に引っ越した「第3旧居」(④❸、大江村の家)は、漢詩人で大正天皇の侍従も務めた落合東郭が熊本を離れていた間、留守宅を借りました。閑静で家賃も安く夫妻は気に入っていましたが、東郭が帰熊したため出ざるを得なくなりました。

漱石はこの家から同僚の山川信次郎とともに「草枕」の旅へ出かけました。この家はジェーンズ邸とともに移築されて水前寺公園の隣に現存しており、庭には漱石の漢詩の碑があります(写真)。そばには漱石がボートレースをした江津湖や、漱石の書簡などを所蔵するくまもと文学・歴史館もあります。

くまもと文学・歴史館の案内は yubiyubi.png こちら

次に住んだのが白川に近い「第4旧居」(⑤❹、井川淵町の家)でしたが、ここでは鏡子夫人が白川に入水自殺を図る事件が起きます。幸い夫人は投網で漁をしていた人に助けられ大事には至りませんでしたが、漱石はしばらく鏡子夫人の腕と自分の腕を紐で結んで寝たといいます。慣れない熊本の暮らしで鏡子夫人の精神状態は不安定になり、漱石は川の近くは危ないと、この家も短期間で引き払います。

sousekidai5_R.jpg

「第5旧居」(⑥❺、内坪井町の家)は、漱石夫妻が一番気に入り、熊本で最も長い1年8か月暮らした家です。長女・筆子が誕生した家でもあり、筆子の産湯を使った井戸や、五高の教え子だった寺田寅彦が泊まった馬小屋などが現在も残っています。記念館として公開されている内部には、漱石直筆の原稿やレプリカ原稿のほか、和室には漱石のからくり人形もあります。

最後に住んだ「第6旧居」(⑦❻、北千反畑町の家)では熊本最後の3か月を暮らしました。漱石の書斎は2階にあり、夜遅くまで電気がついていたそうです。この家は現存しますが、一般には公開されていません。

漱石は東京やロンドンでも引っ越していて、「引っ越し魔」とも言われますが、熊本での頻繁な転居にはそれぞれ理由があったようです。

15.jpg授業はスパルタ、優秀な教育官僚

漱石は旧制第五高等学校(現在の熊本大学)で、週20時間以上英語を教えました。外国人教師の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として特別待遇の高給で迎えられ、教職員の人事異動にも深くかかわるなど、五高教師陣の中でも花形的な存在でした。

授業は厳格で、1年間に何冊ものテキストを読ませ、綿密な予習をしていないとついていけなかったといいます。入学試験では教師が読み上げる形で、当時としては画期的なヒアリング試験も取り入れました。

1897年(明治30年)10月10日の開校紀念式では教員総代として祝辞を述べ、1900年(明治33年)には教頭心得に昇進しています。ロンドン留学も文部省の命によるもので、政府も国の教育行政を司る人材として期待していたのでしょう。5kousousekizou_R_R.jpg

ただ、五高時代には文人・漱石の顔が見え始めます。生徒たちを集めて自宅で運座(句会)を開く「紫溟吟社(しめいぎんしゃ)」の会を結成。漱石を五高に招へいした菅虎雄や帝大同窓で合羽町の家で同居もしていた山川信次郎、歴史教師の長谷川貞一郎らと行動を共にしていたようです。

熊本大学には五高当時の面影を残す五高記念館のほか、漱石の銅像(写真)や開校紀念式での漱石の祝辞の一節を刻んだ碑があります。

15.jpg草枕の道で桃源郷へ

「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」

小説「草枕」のこの有名な一節は、熊本から小天(おあま)温泉に旅行した途中の山道がモデルになっています。

漱石は熊本にいる間に3回、小天(おあま)温泉の前田家別邸に出かけたと考えられています。1回目は1897年(明治30年)11月ごろ、山川信次郎らと1泊で。2度目その年の暮れから翌年正月の3が日まで、やはり山川と訪れています。1898年(明治31年)の「夏蜜柑(みかん)の実る頃(5月〜7月上旬)」にも早朝から日帰りで、山川、木村邦彦ら5人で小天温泉を訪れ、湯の浦の別荘で昼食をとり、前田案山子の本宅を訪れた後、岩戸観音や鼓ヶ滝を見物し、鎌研坂を通って熊本に帰っています。漱石は小天が好きだったのでしょう。

最も有名で滞在期間も長いのは2度回目の年越し旅行ですが、なぜ鏡子夫人を伴わず、この時期に旅行したのでしょう。

実は、前年に新婚で熊本での初の正月を迎えた漱石と鏡子は、正月から大げんかをしていたのです。正月に五高の生徒たちが大挙して漱石宅を訪れ、たちまち料理がなくなってしまったことがきっかけでした。正月に家にいると同じ目にあうと考えた漱石は、熊本での2回目の正月は小天に避難したわけです。鏡子夫人を「悪妻」という人もいますが、夫婦喧嘩がなければ「草枕」は生まれなかったかも知れません。ただ、2度目の旅行時期は冬で、「草枕」の春の情景とは合いません。草枕の情景には、1897年春休みの久留米旅行の情景も混ざっているようです。

2kaeKUSA_R.jpg現在、熊本から小天温泉までの道は草枕の道ハイキングコースが整備されており、各所に当時のたたずまいが残っています。漱石が住んでいた大江村の家から歩くと約23キロの道程になりますが、①の岳林寺から歩く人が多いようです。

kusa2345_R.jpg

小天温泉に至るには2つの坂があり、地図の②にある鎌研坂は「草枕」の「山路」だったと考える人が多いようです。鎌研坂バス停前には「木瓜咲くや 漱石拙を守るべく」の句碑(②)があります。

少し登ると峠の茶屋公園と、鳥越の峠の茶屋(③)があります。「『おい』と声を掛けたが返事がない・・・」で知られる「草枕」に登場する茶屋と言われています。しかし、茶屋からの風景や登場する女性などから判断すると、「草枕」の茶屋はもっと小天寄りの野出(のいで)の茶屋(⑤)だったという見方が有力です。小説では2つの茶屋の情景を混ぜ込んで、1つの茶屋として描いたのかも知れません。

kusa6to7_R.jpg鳥越の茶屋から野出の茶屋に至る途中には、「石畳の道」と呼ばれる往還(④)があります。当時の面影をよく残し、薄暗く苔むした風情は漱石ファンに最も人気のスポットです。

野出の茶屋は今はなく、そばにあった桜の木もありません。小さな公園と漱石の句碑があるだけですが、ミカン畑から有明海、遠く雲仙・天草を望む景色は素晴らしく、一見の価値があります。

峠を下ると小天温泉が見えてきます。漱石は前田案山子の別邸に逗留しましたが、下る道の途中には前田家の墓所があります(⑥)。そこからの景色は、漱石が水彩画「わが墓」のモデルになっています。わが墓にしたいほど美しい景色は、漱石には桃源郷に見えたかも知れません。ほど近くには草枕交流館(⑥)があり、さらに下ると漱石が泊まった前田家別邸があります。小天では前田家別邸が定宿でした。

「宿に着いたのは夜の八時頃・・・。回廊の様な所をしきりに引き廻されて、仕舞に六畳程の小さな座敷に入れられた」(「草枕」第三章)とあるその6畳間も残されています。

漱石はここで前田家の次女、卓(つな)と出会い、卓は「草枕」に登場する「那美」のモデルとなります。漱石はこの旅が楽しかったらしく、留学先のロンドンから山川信次郎宛の手紙で「僕は帰ったら日本流の旅行がしてみたい、小天など思い出すよ」と書き送っています。

15.jpg「二百十日」の部屋でタイムスリップ

「二百十日」は漱石の初期の短編小説。東京から来た男2人が阿蘇・内牧温泉に泊まり、翌日中岳火口を目指すが、その日はちょうど二百十日で嵐に遭って道に迷い、馬車宿にたどり着いて翌日再び山頂を目指す話です。この話も漱石が1899年(明治32年)に山川信次郎とともに阿蘇登山した体験に基づいています。

210-1_R.jpg

漱石が内牧で泊まった温泉「養神亭」は、山王閣という名前で現在も続いています。ここには離れに「漱石記念館」があり、漱石が泊まった部屋がそのまま再現されています。小説では女中との間で「ビールはないが恵比須ならある」というやり取りがあり、部屋には年代物のエビスビールの瓶も並んでいます。

近くには小説の冒頭に登場する「大銀杏がある寺」明行寺があるほか、坊中キャンプ場の先などにも文学碑があります。碑が建つあたりが漱石の遭難地点とされていますが、漱石は翌日に馬210-2_R.jpg車で帰熊しており、小説のように再び阿蘇を目指してはいません。

熊本ニュースまとめ読み一覧へ

熊本の最新ニュースはこちら

漱石宛て絵はがき展 図柄はやっぱり猫が多い?  2017年1月28日

sousekiえ.jpg教え子などから 夏目漱石に送られた絵はがきを集めた展示会が熊本市新聞博物館で始まりました。2016年に岩波書店に漱石あての絵はがき約300点が残されていたことがわかり、今回はその一部を展示しました。九州では初めての公開です。

五高時代の教え子で、「吾輩は猫である」に登場する水島寒月のモデルでもある寺田寅彦(1878〜1935)がドイツから送ったはがきなど49点を展示しています。

漱石宛ての絵葉書の絵柄は「吾輩は猫である」の発表後は猫のイラストが描かれることが多かったということです。また、会場では漱石のデスマスクも展示されています。

昼寝する若き日の写真も... 「熊本時代の漱石展」     2016年10月12日

161012SOUSEKI.jpg熊本時代の漱石の足跡をたどる「熊本時代の漱石さん展」が12日、熊本市の新聞博物館で始まりました。漱石が熊本に来ることになった五高赴任の辞令や、部長を務めたボート部が江津湖のボート大会で優勝した時の記事など、600点の資料が展示されています。

漱石が鏡子夫人と結婚式を挙げた居宅や、友人が撮影した昼寝をする漱石の写真なども見ることができ、若き日の漱石の素顔を垣間見ることができます。この企画展は12月25日まで開かれています。

熊本の4年3か月たどる展覧会 文学歴史館で開幕   2016年10月6日

161006sousekiA.jpg熊本市のくまもと文学・歴史館で「来熊120年 漱石と熊本」展が始まりました。

漱石が五高教師として熊本に赴任し、ロンドン留学のため熊本を離れるまでの4年3か月を中心に、漱石の俳句や友人らに書簡などが数多く展示されているほか、当時の熊本を知ることができる資料も紹介されています。展示会は11月14日までです。

ロンドンの漱石記念館 32年の歴史に幕              2016年9月28日

160928sousekiA.jpgイギリスに留学していた文豪・夏目漱石の資料が展示されている「ロンドン漱石記念館」が9月28日、30年以上にわたる歴史に幕を閉じました。

漱石は熊本で旧制五高教師を務めた後、1900年(明治33年)からロンドンに2年間留学しました。記念館は留学中の漱石が下宿したアパートの目の前に、漱石研究家で崇城大学教授の恒松郁生さんが私費を投じて1984年(昭和59年)に開館しました。漱石の名前が記された当時の国勢調査のコピーなど、恒松さんが集めた留学中の漱石に関する貴重な資料が展示され、皇太子さまや海部俊樹元首相らも訪れたことがあります。作家の遠藤周作さんや松本清張さん、司馬遼太郎さんも生前、ここを訪れたということです。

毎年赤字続きで、漱石の生誕150年となる2017年に閉館の予定でしたが、これ以上赤字の拡大を防ぐため、漱石の没後100年を区切りに閉鎖を前倒ししました。恒松さんは「小説家としての夏目漱石ではなく、英国留学生の先輩、夏目金之助の魅力にはまった。漱石を通していろいろな方にお会いできたというのが一番の思い出。閉めるとなるとちょっと寂しいですね」と話しました。

記念館の資料は日本に持ち帰り、今後、一般向けに展示される博物館などで活用される見通しです。

漱石直筆の短冊 研究家が『草枕』の舞台・玉名市に寄贈    2016年7月15日

160719SOUSEKITANZAKU_R.jpg夏目漱石直筆の短冊が15日、玉名市に寄贈されました。

短冊を寄贈したのは漱石のイギリス留学に関する資料を集めた英国の「ロンドン漱石記念館」の館長を務める崇城大学教授の恒松郁男さん(左写真右)です。短冊は、漱石が親交のあった雑誌『中央公論』の編集長、滝田樗陰(たきたちょいん、1882~1925)のために書いたものです。樗陰は中央公論に文芸欄を創設し、1905年(明治38年)に漱石を口説き落として執筆陣に加えることに成功し、漱石は「一夜」「薤露行」「二百十日」などの小説を『中央公論』に掲載しました。

短冊を受け取った玉名市の高嵜哲哉市長は「玉名は、漱石の代表作『草枕』の舞台となった地でもあります。漱石直筆の貴重な短冊を市民の皆さんに見てもらいたい」とお礼を述べました。

恒松さんは漱石研究家として知られ、1984年(昭和59年)に漱石が留学中に住んだロンドンの下宿の向かいのアパートの部屋を私費で取得。ロンドン漱石記念館を開館し、館長を務めています。来場者の減少などから記念館は閉館することが決まっていますが、恒松さんは玉名市にある草枕交流館の館長に就任する予定だということです。

姜尚中さん講演 「漱石の死生観」              2016年5月14日

SOUSEKINEN_R.jpg熊本地震が発生してから1か月が経過した5月14日、明治の文豪・夏目漱石の生誕150年などを祝う「漱石記念年」のオープニング式典が熊本市で行われました。今年度は漱石の生誕150年、没後100年にあたり、全国の漱石ゆかりの地でさまざまな催しが予定されています。今年は漱石が熊本の旧制第五高等学校に赴任してから120年にあたることから、記念年のオープニング式典は熊本で行われました。

熊本地震で会場に予定していた施設が被災し、開催が危ぶまれましたが、式典は会場を熊本市内のホテルに変更して行われました。全国から大勢の漱石ファンが集まり、熊本地震後に開かれた初の全国的な式典は大いに盛り上がりました。

式典では評論家で県立劇場の館長でもある姜尚中・東京大学名誉教授が、「漱石の死生観」と題して講演を行いました。熊本は1889年(明治22年)7月28日にも大きな地震に見舞われていますが、漱石が来熊したのはその7年後で、漱石自身は熊本で震災は体験していません。しかし、姜氏は地震と県民はどう付き合うべきかを、漱石の死生観から説き起こし、哲学や文明論にも話を拡げて、今回の地震を熊本県民はどう受け止めて、どう生きていくべきかを語りかけました。

会場が変更になったことで入場者が限られてしまいましたが、熊本県民に寄り添い、地震後にどう生きていくべきかの示唆に富んだ姜氏の講演内容を多くの人に伝えたいと考え、主催者側の許諾を得て、以下5回にわたって講演録の形で紹介します。

kan1_R.jpg

◆「因果」は被災した熊本への救い

どうもみなさん、本当にこんなにたくさんおいでになって、ありがとうございます。

皆さんがこの式典においでになったこと自体に大きな意味があると思いますし、この会を開催されるにあたっていろんな方々がご尽力されたことと思います。きょうは、最初は漱石が描く女と男、美の世界などという非常に悠長な題を最初は考えておりましたが、未曾有の事態が起きました。やや大袈裟ですが、死生観という話をさせていただきたい。

夏目漱石の名作『三四郎』*1には竜田山が出てきます。私は熊本に生まれ、小さいころから市内を見下ろす、さほど標高のない、しかし丘というほどでも低くもない竜田山のふもとで過ごしました。西には金峰山が見え、その向こうには名作『草枕』*2の舞台になっている小天(おあま)温泉があります。東を見れば『三四郎』があり、西を見れば『草枕』がある、私はそういう環境で育ちました。

その熊本で、4月14日に大変な事態が起きたわけですが、私はたまさか14日の日は熊本におりました。ある新聞の企画で震災を取り上げようということになり、それは5年前の東日本大震災、福島第一原発の事故などについてでしたが、4月12日は阪神・淡路大震災の取材にも出かけておりました。阪神淡路大震災とは、21年前に起きた未曾有の大震災です。震源地は淡路島でした。大変な数の方々が亡くなられました。いまはメモリアルパークのような、亡くなられた方々一人ひとりの名前が刻まれている場所がございます。そして私は4月14日に熊本に入り、午後に県庁で蒲島県知事ともお会いし、いろいろな抱負を語りあい、午後9時26分、震度7の地震があったわけです。

漱石について語るとき、どうしても省けないことのひとつは「因果」もしくは「因縁」という仏教的な言葉でしょう。漱石の小説を読みますと、初期の『倫敦塔』*3や『趣味の遺伝』*4に始まって、いろいろなところで「因果」という言葉が出てきます。私も何の因果でか、14日に、しかも震災を取材して、自分が被災するとは夢にも思いませんでした。

akacyankyuusyutu.jpg漱石は、因果が尽きない、人間というのは因果が尽きない、その中でしか人間は生きられないという、これは達観なのかどうかは分かりませんが、そういうことを考えていたように思えます。日本を代表する山崎正和さんという著名な劇作家が『方丈記』*5を取り上げながら、「積極的無常観」ということを書いています。明日自分たちは死に絶えるかもしれない。だから今日はどうでもいいかというと、逆だと。だからこそ今日1日を一生懸命生きようというのを彼は「積極的無常観」と述べています。漱石のなかにもどこかそれに近いものがあったのではないか。それは今、この熊本の地に生きる人にとっては、何か救いの言葉のような気がするわけです。

初めての朝日新聞の連載小説となった『虞美人草』*6の中で、主人公のひとりがつけている日記の中に「生死因縁無了期 色相世界現狂癡(しょうしいんねん りょうきなし しきそうせかい きょうちをげんず)」という漢詩が出てきます。この漢詩は漱石が熊本からロンドンに出かけるときに、確か彼も日記のどこかに記していたと思います。人間の生と死の因果はつきない、(先のことは)わからない。にもかかわらず私たちの世界はどんちゃん騒ぎをしている。でも自分は一生懸命生きるぞ、と、そういう覚悟が漢詩の中に込められているわけです。そして、その背後には人間の因果はつきない、なぜ自分はこの世に生まれてきたのかという感情もあるように思えます。

◆人の生死は謎 だから貴い

夏目漱石は慶応3年(1867)に生まれました。しかも親たちから必ずしも歓迎されず、不幸な生い立ちと言えば生い立ちだったと思います*7。自分自身に非常に悩みを抱えていた漱石が、19世紀末から20世紀にかけて、あの大英帝国の首都、ロンドンに出かけていく、その前の4年3か月を熊本で過ごしたわけです。漱石は絶えざる矛盾の中に生きた人だと思います。明治維新が始まって西南戦争があり、そして日清、日露、第一次世界大戦があり、第一次世界大戦のさなかに、彼は50歳にもならずして他界するという非常に短い人生でした。

その中で彼が常に思っていたことは「因果」という言葉です。

私たちは学問をする時に、原因があれば結果がある、原因と結果の間にはある一定の法則性がある、したがってその法則性を導き出せば必ず将来を予測できる、将来を予測できるなら我々は必ずそれを制御できるはず、と考えます。地震も予測できる、大地の揺れを予測できるなら、それを我々は何らかの形でコントロールできるはず、と考えがちです。しかし、実はそうはいかないのです。いつ地震が起きるかわからない。つまり、因果という言葉は、我々がもっている近代科学の一つの万能性というものに対する無力感というものを示しているわけです。


160502gisen.jpg福島第一原発の問題も、東日本大震災も、あるいは阪神淡路大震災も、多くの方々に話を聞くと、「まさか」(こんなことが起きるとは思わなかった)と異口同音に言います。熊本地震もそうだと思います。「熊本は日本で一番安全な場所、いちばんよかとこたい」と、誰もがそう思い、この水と緑と火の国を誰もが愛し、そして日本中で一番いいところだと、皆さんが誇りに思っていたと思います。私のように県外に出た人間も、熊本は唯一、自分たちにとって誇れる場所でした。しかし、そういう場所がこのような形になってしまいました。先ほどの知事の言葉を使えば意地悪な地震、私もまさしくそう思います。14日午後9時26分に震度7の地震が起き、とにかく助かってよかったと思う間もなく、何度も何度も執拗に繰り返される揺れは、今も続いているわけです。

そう考えると私は、「因果」という言葉に関して非常に感銘深いものを感じてなりません。果たして「無常観」と言えるかどうかわかりませんが、人間の生と死は分からない。にもかかわらず人間は日々、喜劇的な生活を送っている。でも自分は生きていくぞ、という漱石の覚悟のほどがその言葉に出ているわけです。人間は生も死も分からない、謎であるというのが漱石の一つの実感ではなかったかと思うわけです。

『虞美人草』に、主人公のひとり、甲野青年の日記が出てきます。その中に、こんな言葉が出てきます。

「宇宙は謎である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく感ずる自分さえも謎である。この世に生まれる者は、解け得ぬ謎を押し付けられて白桃に儃佪し、中夜に煩悶するために生まれるのである」

160511siro.jpgのサムネイル画像人間は何のために生まれてきているのか、それは煩悶するために生まれてきた、と、この日記は語っているわけです。これは多分、漱石の死生観ではなかったかと思います。幸せを求める、あるいは楽にありたい、単に長生きをしたいということではなくて、人間はどういうわけか生まれながらにして、謎を解くように押し付けられてこの世に生まれている、というようなことを漱石は考えていたのではないかと思うわけです。

そういう漱石が今から120年前、熊本にいました。もし、今漱石が蘇ってこの地震を体験したなら、たぶん同じことを述懐するのではないかと思います。漱石は「人間はそういう存在として生まれているからこそ貴い、因果がわからない中でこそ生きるに値するし、また生きなければいけない」ということを生涯いろんなところで語っています。

◆人は互いを「あはれ」と思える

さらに漱石について非常に感銘深いことは、「憐れ(あはれ)」の感情です。憐憫の憐、あわれ、これはただ単に上から下への目線ではありません。今回の震災で見ず知らずの方々が肩を寄せ合い、支え合いました。みんなが人を憐れと思ったと思います、自分自身を憐れと思うと同時に、だからこそ見ず知らずの人も憐れと思えるのです。

maeda-tuna.jpgmayazaki-touten.jpg『草枕』の中で主人公の画工は、憐れを催しているヒロインの那美さんの顔を見て、「それだ」と。「それが自分が求めていた美の究極だ」と悟ります。那美さんという人物のモデルはご存知の通り、前田卓(つな)*8という人で、妹が宮崎滔天*9のつれあいになっています。宮崎滔天と言えば中国革命の父である孫文を生涯サポートした人で有名です。

私の高校にも孫文が揮毫したものがございますし、熊本はそういう点では非常にまあ、女傑と言っていいような方が生まれてくる土地柄でもあります。

那美さんの中にある憐れの表情、この言葉は今、この熊本の地で生きている人にとってどれほど大切な言葉でしょうか。我々は憐れを通じて人への共感を持ちますが、世の中には憐れというものを知らない人々がいます。そういう人々に対する漱石の満身の怒りは『二百十日』*10の中によく表れております。あるいは『坑夫』*11の中にも表れております。

今の世の中は格差が拡がり、そして私たちの想像を絶するような富をかっさらう人々もいます。他人がどうなろうと、自分と富さえ集められればいいという人もたくさんいると思います。漱石は憐れを感じない人に対する強い強い嫌悪に近い気持ちを持っていたと思います。それは『虞美人草』のなかにも表れています。憐れを知らないヒロイン・藤尾について、漱石はある弟子に対して「この人物は死んでもらわなければいけない」という言葉を激烈に吐いております。憐れというものが人間の最後の人間らしさである。憐れを知っているかどうか、そのことが知性や富や、あるいは美貌にかかわりなく、人間が人間たる最後の拠り所であるということです。

そのことを、多分、震災を通じて多くの方々が実感したのではないかと思います。東日本大震災でも「震災ユートピア」という言葉が聞かれました。被災地の住民の方々は、隣国や世界の人が驚くほど整然とし、そして律義で、一人ひとりが助け合おうとしました。その光景を見て世界中の多くの人々が感動をもらったと言われています。震災を通じて、すべての人々が不幸であるがゆえに憐れを催す時、人は初めて、他人の幸福が自らの不幸であり、自分の幸福が他人の不幸であるというすれっからしとしか言いようがない、ぱさぱさと乾いた社会とは違う感情を共有し合える一瞬を持ったのではないかと思います。

この1か月、今でもテント暮らしや、あるいは仮設住宅にも入れない方々がいらっしゃることは皆さんも知っての通りです。甚大な不幸です。人命も失われました。しかし、もしかしたら、それを通じて私たちは憐れというものを感じたのではないか。そして今ここにいらっしゃる方々も、憐れという感情を持つがゆえにここにお集まりになったのではないかというふうに、私自身は感じております。

日本経済の破たんに近い状態が1997年にありました。今から20数年前です。山一、拓銀、長期信用銀行で大変な事態*12が起きました。そして21年前には阪神・淡路大震災も起きました。この約20年で、日本の社会は大きく変わっていきました。格差が拡がり、貧しい人やあるいは憐れな人々に憐れだと感じない、そういう空気が一方で醸成されてきたことも否めない事実だと思います。しかし、そういう空気があっても、この震災という未曾有の不幸の中で、多くの人々がやはり憐れだと思い、だからこそわずかなものであれ、ささやかなものであれ、その人たちに手を差し伸べたいと感じています。人間は欲得ずくで生きると同時に、他者に対する憐れの感情を持っているのです。

フランスの思想家ルソー*13は、「ピティエ(憐憫)」というものは最後の人間の拠り所である」と述べています。恐らく漱石は、『草枕』の画工を通じて、塵芥にまみれた世間とは違う桃源郷(を見たが)、最後は人情の世界に落ち着かざるを得なかった。それ(を表現するには)那美さんという不幸を背負った人物に対する限りない共感として、憐れという言葉が最もふさわしかったのだと思います。漱石の死生観の中に憐れという言葉があるということを『草枕』を通じて、なにとぞ皆さんに理解していただきたいですし、そのような憐れの感情には多分、流産まで追い詰められ、そしてさまざまな障害を持たざるを得なかった妻・鏡子に対する漱石の夫婦愛、小さき者に対する漱石の本当に繊細な心遣いというものが底流にあったのではないかと考えています。

◆熊本は生まれ変われる

今日漱石を読み返すときに非常に胸に沁みるのは、『虞美人草』のなかで取り上げた最後の言葉、「悲劇は喜劇より偉大なり」です。これは私たちにとって、大きな大きな慰めでもあります。東日本大震災の後、私は何度も何度も福島に通いました、福島第一原発のさまざまな付近も歩いてみました。今年に入り、福島第一原発の中にも入りました。村々の周辺の人々にもいろいろな形でインタビューしました。そこで感じたことは「悲劇は喜劇より偉大である」ということです。

KUSAsetuwomamoru.jpg苦しみ、悲しみ、死、病気、様々な災難、しかしこれを通じて人間は粛然とし、日々の喜劇的な生活から脱却して真面目になるのです。あの名作『こゝろ』*14のなかで、「先生」は「私」、学生に対して「あなたは真面目ですか」という言葉を連呼します。真面目、これは漱石の生き方そのものだったと思います。漱石は真面目でした。恐らく、当時のどの作家と比べても漱石は真面目な人だったと思います。言葉の真の意味で真面目な人でした。皆さんも知っての通り、漱石は熊本でたくさんの俳句を残しておりますが、私もとても好きな俳句の一つ「木瓜咲くや 漱石拙を守るべく」という句を、明治30年(1897年)に、この熊本で残しています、

私も木瓜の花がとても好きです。木瓜は本当に小さいけれど、まっすぐと、しかしどこかぎこちなく、決してスマートではない。しかし、この木瓜の中には、漱石の生き方というのが込められています。それは真面目であり、真顔であるということだと思います。

私は熊本から上京して数十年になります。東京はいい、東京は明るい、東京は光に満ちている。不夜城のような東京にあこがれて、『三四郎』ではありませんが、東京に上京して、もう数十年が経ちます。しかし、あの東日本大震災を通じて、初めて私自身は「光あるところには影がある」、まさしく『草枕』のなかで言われている通り、「楽しければ楽しいほどまた憂いも深い」、そういうことを言葉の真の意味で学びました。その意味において、今回の震災は確かに大変な悲劇だと思います。しかし、私はそこから熊本の県民は必ず何かを学ぶと思います。東日本大震災でもそうでした。阪神・淡路大震災でもそうでした。人間は必ず喜劇的などんちゃん騒ぎと祝祭に酔いしれているだけではなく、悲劇を通じて人間の本性というものに目覚める――。漱石は多分そう考えた人だと思います。

kan7.jpgのサムネイル画像我々は苦痛を避け、そして闇を避け、ただひたすら快楽と楽しみと光を求めてきました。戦後70年はとにもかくにも驚異的、奇跡的な経済成長を遂げました。しかしそのために失ったものはあまりに大きいのかも知れません。光あるところには必ず影がある、ということを、さまざまな人間の悲劇を通じて、我々はきっと学ぶことができる――。漱石はそういうふうに考えたのだと思います。

非常に重要なことは、我々は生まれ変われる、「輪廻転生」ということです。今から71年前の8月15日、日本の国民は生まれ変わろうとしたのだと思います。それは見事に、世界の人々が瞠目するほどに成功いたしました。いや、むしろ成功しすぎると思えるくらいに成功したと思います。それはちょうど日露戦争の後に、漱石が『三四郎』を書いた日本に非常に似通っています。司馬遼太郎さんの言葉を使えば、「極東のこの小さきこの国」が世界の列強に加わり、世界の国々が驚きました。しかしそこから日本の国はどういう方向に向かっていったのかということを、漱石はすでに、日露戦争の後、『三四郎』やさまざまな小説を通じて書いていると思います。明治維新から150年近くが経とうとする今、漱石の「生まれ変わる」という言葉の意味を、今、被災地のこの熊本で、我々はもう一度かみしめる必要があるのではないかと思います。

漱石は伊豆・修善寺の大患で、大量の吐血をし、担架というよりは戸板みたいなところに乗せられて東京まで運ばれました。漱石は『思い出す事など』*15のなかで、「二度の葬式をあげたようなもんだ」と述懐しております。これは明らかに「二度生まれ」ということだと思います。漱石はアメリカのプラグマティストの祖であるウイリアム・ジェームズ*16に最も私淑し、ウイリアム・ジェームズの心理学については(著書の)翻訳もしていると思います。彼の著作に、岩波文庫にも訳されている「宗教的経験の諸相」があります。その中で彼は「宗教的経験とは何か。それは生まれ変わりだ」と書いています。twice born、人間は生まれ変われる。その生まれ変わる体験というものが宗教的体験だというのです。

160429boranisihara2.jpgもちろん漱石は、特定の宗派、宗門に帰依していたわけではありません。しかし彼は二度の葬式と言った時、明らかに「二度生まれ」を頭の中に描いていたと思います。東日本大震災があった時も、多くの方々が「これで生まれ変わらなければいけない」とおっしゃっていました。また、福島の飯館村や浪江町やいろんなところでも、私が非常に感銘を受けたある神社の神主さんも、「生まれ変わろう」という言葉を何度も何度もおっしゃっていました。

熊本は生まれ変わると思います。「二度生まれ」の経験を今回の震災で多分、経験することになると思います。そういう点で漱石は本当に我々にとって奥の深い言葉を、熊本の今を生きている人々にとって、とてもとても大切な言葉を残している、と私はあえて解釈したいと思います。

漱石は病が最後の段階に来たときに、さまざまなお見舞い状に、「病気は継続中です。戦争も継続中です」と(書いています)。第一次世界大戦は継続中でした。同時に自分の病気も継続中でした。熊本の震災も決して終わっておりません。今も継続中です。これからまた、どのような揺れや地震が起きるか、多くの熊本県民はしびれるような不安の中で、これからも復興に向けて歩んでいかなければなりません。

漱石の「病気は継続中である」という言葉は、私はとてもとても深い意味があると思います。自分の人生もいま、継続中だということです。自分が最後の息がこときれるその瞬間まで、人間は生きていかなければいけない。人生は継続中、病気も継続中である。

「継続中」という言葉の中に漱石は、結局、答えのない途上を生きることが人生なんだという意味を込めています。私はそれを「青春の文学」と言いたいと思います。途上を生きるということは答えがない。我々には行けども行けども答えがない。なぜこの世の中に生まれ、何故にこのような風体で、こういう国で、こんな風にして、こんな職業で生きているのか。これは答えがありません。しかし人生は継続中なのです。

今回の熊本の地震は継続中です。しかし、人々は生きています。人生もまた継続中であるということは我々が途上にあるということであり,途上にあるということは最終的に達観できる答えはないということであり、したがってこれを言葉の真の意味で私は「青春の文学」と言いたいと思います。漱石の文学は大人の文学ですが、大人の文学にして青春の文学であるのは恐らくは漱石以外にないのではないかと思います。

◆身の丈にあった「普通」の大切さ

sousekikao-2.jpg漱石は『倫敦塔』のなかで「生まれてきた以上は生き迷わねばならぬ。あえて死を恐れるとは言わず、ただ生きねばならぬ。すべての人は生きねばならぬ」というように述べております。生まれてきた以上生きよう、という、このあまりにも単純な言葉を、この大作家が『倫敦塔』という初期の本格的な作品の中に残しているのです。

漱石は最後の随筆『硝子戸の中』*17で、ある女性、これもまた何の因果か、熊本の御船町出身の吉永秀という女性なのですが、漱石は4度か5度「死にたい」というこの女性の人生相談に応じております。漱石は『硝子戸の中』でこのように述べています。

「私は彼女に向かって、全てを癒す時の流れに従って下れと云った」。どんなに悲しいこと、どんなに苦しいことがあっても時が癒すというのは、ある意味言い古された言葉かもしれません。でも、もっと大切なことは「時の流れに従って下れ」ということです。決して時の流れに抗うな。時の流れに従って下れ、と。これを「下山の思想」*18というかどうかは別としても、時の流れに従って「下る」のです。

我々の世代の青春期、西暦でいえば1960年代から70年代初頭の日本の毎年の名目成長率は、だいたい10%を超えていました。中国以上の高度経済成長を日本は達成したわけです。これは世界のミラクル(奇跡)といっても過言ではありません。日本は豊かな国になりました。多くの人々が中流になりました。先ほど蒲島県知事は何が大切かといえば、普通の生活であるとおっしゃいましたが、まさしく普通の生活を多くの国民ができるようになったといえます。中流であるということ、日本人としてこの日本列島の中に生き、そしてみんなが中流の生活ができる。日本は世界の国々にとって、垂涎の的のような国になったということです。

『坂の上の雲』*19を目指して、最終的にはあの昭和20年を迎えたとすると、日本の国は戦後70年、(再び)坂の上の雲をめざし、世界の経済大国になりました。そして押しも押されぬ成熟した社会へと向かっていこうとするその矢先に、5年前、そして21年前に大きな震災に出くわしたわけです。先ほど蒲島県知事は「普通の生活の尊さというものをしみじみとわかるようになった」とおっしゃいました。その通りだと思います。普通の生活、漱石は身の丈で生きることを多分、最も望んだ人だろうと思います。

buleseat-kuusatu_R.jpgどんなにドーピングをして走るようなことをやったとしても、名目成長率2%いくかどうかというのが今の日本の国の実態だと思います。それでも日本の国は、成熟した社会へと移り変わっていくことはきっとできると思います。

ぎらぎらとぎらついて、もう一度、富国強兵ならぬ富国強国を目指すよりは、身の丈にふさわしい、そして人々が普通であることにしみじみと幸せを見出すようなそういう社会、それがアジアの国々のどこの国ひとつとして達成できなかった未来の日本の社会の姿かも知れません。漱石が目指した国の姿はそこにあると思います。漱石は最後にその女性にこう言いました。「死なずに生きてらっしゃい」と。これは今の熊本県民にとっては大きな大きな慰めだと思います。

私はあえて「がんばろう」という言葉は言いません。漱石だったら「生きてらっしゃい」「生きていきましょう」というふうに、きっと言うと思います。それは、普通の生活こそが我々にとってはとても、とても大切なことであるということです。

最後ですけども、日本とそして周りの国を取り巻く環境は、必ずしもいいとは言えません。しかし、漱石に私淑したのは、まさしくアジアの国々の人々であったということも、みなさんにぜひともお伝えしたいと思います。文学における孫文といってもいいような魯迅*20は、まさしく漱石に私淑して文学者になったといっても過言ではありません。『狂人日記』や『阿Q正伝』を読めば、どんなに漱石の小説を読み込み、漱石の手法を使って、中国が抱えている問題を見事にえぐり出しました。中国の文学のいわば父とも言ってもいい魯迅は、まさしくある意味において漱石の弟子と言っても過言ではないと思います。千駄木の漱石が住んでいた家に、魯迅も一時期住んだ経験があります。また、韓国を代表する著名な作家に李光洙(イ・グァンス)*21という人がいます。残念なことに朝鮮戦争で亡くなりましたが、間違いなくこの人物は韓国近代文学の祖と言っても過言ではありません。李光洙が最も私淑していた人も、漱石と言って過言ではありません。

漱石は間違いなく日本の宝であり、アジアの宝であり、奇跡だと思います。韓国は今やっと、漱石文学全集を韓国語版で出すようになりました。私は今、最後の巻の『明暗』*22のあとがきを書いている最中ですが、全集を持つ国は日本以外に、隣の国になりました。きっと私は中国で漱石の全集は必ずや訳される日が来ると思います。また、インドネシアで、ベトナムで、アジアの中で、近代を迎えた国々は、必ず漱石的なテーマに突き当たることと思います。

その意味においてこの120年の来熊、120年にこういう形で漱石をめぐるオープニングができるということは、これは必ずやまた、熊本や日本だけではなく、近隣のアジアの国々にとっても大きな大きな僥倖だと思いますし、これを出発点として私たちは漱石が目指したものを、我々の一人ひとりの生活の場で実現していければいいのではないかと思います。

私のつたない話ですけれども、ご清聴ありがとうございました。

*1 『三四郎(さんしろう)』 1908年(明治41年)、朝日新聞に連載された長編小説。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。九州から上京した小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様を描く。

*2 『草枕(くさまくら)』 1906年(明治39年)に『新小説』に発表。玉名市小天温泉を舞台に、画工と逗留先の女性の交流を通じて「非人情」の世界を描いた作品。「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という冒頭部分が有名。

*3 『倫敦塔(ろんどんとう)』 1905年(明治38年)『帝国文学』に発表された短編。漱石がイギリス留学中に見物したロンドン塔の感想をもとにした。

*4 『趣味の遺伝(しゅみのいでん)』 1906年(明治39年)、『帝国文学』1月号所収の短編。日露戦争の出征兵士を題材に、戦争のむなしさを描く。

*5『方丈記(ほうじょうき)』 鴨長明(かものちょうめい、1155~1216)による鎌倉時代の随筆。この世の無常を記した「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の書き出しで有名。

*6『虞美人草(ぐびじんそう)』 1907年(明治40年)朝日新聞に連載された職業作家・漱石の初の小説。許婚(いいなづけ)関係の二組の若い男女とその親族の駆け引きを、上野で開催された東京勧業博覧会などを絡めて描いた。題名は漱石が縁日でたまたま見た鉢植えから取ったといわれている。

*7 不幸な生い立ち 漱石(金之助)は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出され、短期間で連れ戻された後も1歳で内藤新宿の名主・塩原昌之助の養子となった。塩原夫婦が離婚し、夏目家に戻ったのは9歳の時だった。

*8 前田卓(まえだ つな) 熊本藩細川家に仕え、明治維新後は自由民権運動の中心人物となった前田案山子の次女。孫文ら中国の革命家が日本で作った「中国革命同盟会」を支援した。案山子は温泉付きの別邸を旅館とし、卓が仕切っていた。熊本時代の漱石は同僚と何度かこの旅館を訪れて卓と交流し、『草枕』のモデルとした。写真は玉名市草枕交流館提供。

*9 宮崎滔天(みやざき とうてん) 孫文を支援し、日本から辛亥革命を支えた革命家。浪曲師としての顔も持つ。写真は国立国会図書館蔵。妻の槌は前田卓の妹で、「白蓮事件」を起こした宮崎龍介の母。

*10 『二百十日(にひゃくとおか)』1906年(明治39年)、雑誌『中央公論』に発表された中編。同僚との阿蘇登山の実体験をベースに、華族や金持ちに対する慷慨が語られる。

*11 『坑夫(こうふ)』1908年(明治41年)から朝日新聞掲載された。裕福な家を飛び出した青年が自暴自棄になって坑夫として働くことを決意する過程をルポルタージュ的に描く。

*12 1997年の大変な事態 1997年(平成8年)11月から翌年暮れにかけて、北海道拓殖銀行、山一証券、日本長期信用銀行などの大手金融機関が相次いで破たんした事態。日本の金融機関全体の信用不安に発展し、97年金融危機と呼ばれる。

*13 ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)フランスで活躍した哲学者。『人間不平等起源論』では、自然状態では人間に憐れみの情(憐憫)が備わっており、これが各人の自己愛を抑制すると説いた。

*14 『こゝろ』 1914年(大正3年)に朝日新聞に連載された長編小説。「先生」と「私」の交流を通じて人間のエゴイズムと倫理観を問う作品。

*15 『思い出す事など』 1911年(明治44年)に書かれた随筆。前年1910年に療養先の修善寺で大吐血をして人事不省に陥ったことを詳しく書いている。

*16 ウイリアム・ジェームズ(1842〜191)アメリカの哲学者、心理学者。物事の真理は実際の経験のみで判断でき、効果のあるものは真理であるとする、プラグマティズム(実用主義)を確立した。

*17 『硝子戸の中』 1915年(大正4年)に朝日新聞に掲載された漱石最後の随筆。硝子戸で世間と仕切られた書斎で起きた身辺の人々のことや若き日の思い出をつづっている。

*18 下山の思想』 2011年に発売された五木寛之の著作。日本の経済・社会は登頂を終え、21世紀から下山の時期に入ったという認識のもと、成長一辺倒からの決別を説く。

*19 『坂の上の雲』 司馬遼太郎の代表的な長編歴史小説。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)にかけて産経新聞に連載。明治前期の日本が日清・日露戦争に勝利し、列強の仲間入りをした時代を、坂の上の雲を目指す姿と重ね、明治の楽観主義の世相を描く。

*20 魯迅(ろじん、1881〜1936)中国の小説家、翻訳家、思想家。礼節を説く「儒教」が裏では生命の抑圧者として「人を食」ってきたことを指摘した。

*21 李光洙(イ・グァンス、1892〜1950)は朝鮮の文学者、思想家。民族主義的な立場から儒教を批判する小説を著し、朝鮮民族の実力養成を説いた。号は「春園」(チュンウォン)。

*22『明暗(めいあん)』朝日新聞に1916年(大正5年)に連載された長編小説。漱石の死によって188回で未完のまま終了した。ある夫婦の関係を通して人間の利己主義を描いている。

*夏目漱石の写真は国立国会図書館蔵

kan8_R.jpgsutekuu.jpgのサムネイル画像

姜 尚中氏 (カン・サンジュン) 1950年、熊本県熊本市に生まれる。国際基督教大学準教授、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授、聖学院大学学長などを経て、現在東京大学名誉教授。2016年1月より熊本県立劇場館長兼理事長に就任。

専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍。主な著書に『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『ナショナリズム』など。小説『母-オモニ-』、『心』を刊行。最新刊は『漱石のことば』『姜尚中と読む 夏目漱石』。

漱石来熊120周年記念パレード     2016年4月13日

160413souseki-R.png

明治の文豪、夏目漱石が1896年(明治29年)4月13日に熊本にやってきてからちょうど120年となるのを記念した式典が行われました。

漱石が池田停車場(現在の上熊本駅)に降り立ったのと同じ午後2時、漱石役の熊本の俳優、亀井純太郎さんが上熊本駅から降り立つと、大きな歓声と拍手がわきました。

式典では漱石が英語の教鞭をとった第五高等学校、現在の熊本大学にちなんで、五高の寮歌も披露されました。式典の後、漱石は人力車に乗って、120年前に漱石がたどったルートで市内をパレードし、大勢の見物人が集まりました。

熊本市電には今年から来年にかけて没後100年、生誕150年にあたるのを記念した漱石ラッピング車両も登場し、この日から運行を始めました。

160413souseki3_R.jpg夜には蒲島知事、大西熊本市長ら400人が出席して「お帰りなさい漱石先生 歓迎と交流の夕べ」が熊本市のホテルで開かれました。会場には漱石が熊本に帰ってきたという想定で漱石が座る椅子が置かれ、蒲島知事らは椅子に向かって「お帰りなさい」と話しかけました。「草枕」の朗読や、漱石が愛したとされるクラシック曲の演奏などが披露されました。

東京で記念館の起工式     2016年4月11日

SANBO-R.jpg夏目漱石が晩年を過ごした東京都新宿区で、「漱石山房」記念館(仮称、写真は完成予想図)の起工式が行われました。区では漱石の生誕150周年に当たる2017年9月の開館を目指しています。

SANBO-2.jpg

漱石は「漱石山房」と呼ばれた早稲田南町の家で、「三四郎」「こゝろ」「道草」などを執筆し、晩年の9年間を過ごしています。家は空襲で失われ、「漱石公園」になっていますが、新宿区は、漱石にとって初の本格的な記念館の建設を計画し、民間などからも寄付を募って整備を進めています。

記念館では書斎・客間・ベランダ式回廊など「漱石山房」の一部を再現するほか、図書室やカフェを設け、漱石に関する企画展やイベントなどを開催していく予定です。熊本県と熊本市は、夏目漱石や細川家など、共通する文化や歴史遺産を持つ東京都新宿区、文京区と包括連携に関する覚書を結んでおり、記念館では熊本時代の漱石についても紹介したいとしています。

起工式には漱石の孫の半藤末利子さんも出席し、吉住健一新宿区長、下村治生新宿区議会議長、中村廣子・榎町地区町会連合会会長らが鍬入れをし、工事の安全を祈願しました。

漱石記念館の詳しい情報は yubiyubi.png こちら

「草枕」の旅 体験ウォーク     2016年3月21日

160321kusamakura_R.jpg小説「草枕」のモデルとなった夏目漱石がたどった道を歩く「草枕の旅」体験ウォークが開かれました。

漱石は1897年(明治30年)の暮れに金峰山系の2つの峠を越えて小天(おあま)温泉に行き、年を越していますが、この旅が「草枕」のモデルになりました。

旅体験には県内外からおよそ100人が参加。熊本市西区の峠の茶屋公園から、鳥越の峠の茶屋、石畳の道、野出(のいで)の茶屋公園などを経由し小天温泉までおよそ13キロを4時間ほどかけて歩き、漱石に思いをはせながら、さわやかな汗を流していました。

ピース又吉さん 漱石をPR     2015年9月23日

150923matayosioonisi_R.jpg

芥川賞を受賞したお笑い芸人、ピースの又吉直樹さんが熊本市を訪れ、熊本市をPRする小冊子などの撮影に臨みました。

又吉さんは明治の文豪・夏目漱石が最初に降り立った上熊本駅や、「草枕」のなかで描いたとされる鳥越の「峠の茶屋」と野出の茶屋跡、石畳の道などでいろいろなポーズをとりながら撮影を行いました。中央区坪井にある漱石がかつて住んだ家(内坪井の家)では熊本市の大西一史市長との対談も行われました。

matayoshi1_R.jpg「小説にある場所を実際に歩くと、小説自体の強度が増す」

「4年以上を過ごした熊本での時間。漱石にとってものすごく大事やったんやろな」

冊子で又吉さんは、写真とともに文学的な考察もつづっています。小冊子は1万部印刷され、各区役所などで配布されました。

又吉さんの小冊子 デジタル版は yubiyubi.png こちら

エントリー