熊本城と加藤清正

未来へのメッセージ ~水俣病公式確認60年~ 表紙をタッチ・クリックするとご覧になれます

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勝訴し賠償受けた原告も補償協定の対象 大阪地裁判決     2017年5月18日

170518minamata.jpg関西水俣病訴訟で勝訴し、賠償を受けた原告の遺族が、原因企業のチッソに対し、県に水俣病と認定された患者への補償協定を適用するよう求めた裁判で、大阪地裁は原告の主張を全面的に認める判決を言い渡しました。

2人(故人)の患者は、水俣病関西訴訟で水俣病と認められてそれぞれ650万円の賠償を受け、その後、県から公害健康被害補償法(公健法)に基づく水俣病の認定を受けました。補償協定はチッソが水俣病と認定された患者に一時金や年金など1600万~1800万円を支払うもので、2人の遺族は適用を求めて提訴しましたが、チッソは「訴訟で賠償を受けた患者の補償は完了しており、改めて補償協定を適用する必要はない」として訴えの棄却を求めていました。

判決で大阪地裁の北川清裁判長は「補償協定が1973年(昭和48年)に結ばれたあと、水俣病に認定される範囲が実質的に縮小されたため、被害者がチッソや行政と長い間裁判で争うことになったという状況がある。補償協定を患者に不利に解釈するのは相当ではない」として、原告全面勝訴の判決を言い渡しました。

この問題をめぐっては「チッソは補償協定にもとづいた一時金を支払う必要はない」とした最高裁判決が2013年に確定しており、今回の裁判への影響が注目されていました。原告側の田中泰雄弁護士は「まさに水俣病の事実、歴史を踏まえた判決であり、裁判所の判断に敬意を表したいと思う」と話しました。

チッソは17年5月31日、判決を不服として大阪高裁に控訴しました。チッソは「主張が認められるよう適切に対応していきたい」と話しています。

公式確認から61年 700人参列して犠牲者慰霊祭        2017年5月1日

水俣病が公式確認されてから61年を迎え、水俣市の埋め立て地では、市や被害者団体などでつくる実行委員会主催の犠牲者慰霊式が行われ、患者や遺族、市民ら約700人が犠牲者に祈りを捧げました。

慰霊式に参列した山本公一環境相は、高齢化が進む患者らが「安心して暮らせる社会の実現に取り組む」と述べました。環境相は慰霊式の後、水俣病被害を伝える「語り部」と懇談しました。原因企業チッソの森田美智男社長は「補償責任をしっかりと果たしていく決意だ」と話しました。

患者・遺族を代表して「祈りの言葉」を捧げたのは、水俣市で2月に開かれた石川さゆりコンサートの実行委員長を務めた胎児性患者、滝下昌文さん(60)でした。「胎児性患者は生まれてから健康ということが一度もありません。過去は変えることができない。精いっぱい生きることが、未来に向かって生きる誰かの心の支えになれば」と話しました。

不知火海を望む水俣市袋の乙女塚では「水俣病互助会」主催の慰霊祭があり、患者や遺族ら関係者約80人が参列しました。胎児性患者の坂本しのぶさん(60)は「お母さんもだんだんと(年を取って)、今後が不安です」などと、高齢化する患者の不安を訴えました。

乙女塚は、水俣病被害を訴える一人芝居を演じ続けた舞台俳優の故・砂田明さんが1981年(昭和56年)に建立し、ここでの慰霊祭は37回目となります。

水俣病6団体が連携強化に向け連絡会設立へ            2017年3月7日

170306renrakukai.jpg水俣病問題の根本的な解決を目指すため、6つの被害者団体や支援団体が共同で水俣病問題に取り組むため「水俣病被害者支援者連絡会」を設立すると発表しました。

連絡会を設立するのは水俣病互助会、チッソ水俣病患者連盟、水俣病被害者の会、水俣病不知火患者会、水俣病被害者互助会、水俣病被害市民の会の6団体です。6団体の代表は記者会見を開き、「水俣病被害の全容解明に不可欠な、不知火海沿岸住民の健康調査が行われていないなど、水俣病の本質的な問題は解決されていない。私たち自身が解決策を模索しなくてはいけない」と設立の趣旨を話しました。

連絡会では2016年の「水俣病60年実行委員会」に参加した他団体などにも連携を呼びかけるほか、3月25日には水俣市で結成総会とシンポジウムを開くことにしています。

6団体はこれまでも八代海沿岸住民の健康調査を国に求める12万人以上の署名を呼びかけたり、水俣病問題のシンポジウムを開いたりして連携を強めています。2016年12月に開いた会議では、継続的な運動を強化すること、共通の課題について連携を強化していくことを確認していました。

胎児性患者の還暦を祝う会 「60年、早かった」         2017年2月4日

170204nminamata.jpg水俣市で今年も胎児性水俣病患者の還暦を祝う会が開かれました。

還暦を迎えたのは、母親の体内で水俣病になった4人の胎児性患者です。水俣市の福祉施設「ほっとはうす」の会場にドレスや袴(はかま)姿で入場し、還暦を迎えた喜びを語りました。

鬼塚勇治さんは「やっぱり60歳は早かった」と話していました。

「水俣病は食中毒」原因調査求めた医師の訴え却下 東京地裁     2016年12月7日

水俣病の診察を行った岡山大学大学院の津田敏秀医師が、水俣病を食中毒事件として国や県に原因調査を行うよう求めた裁判で、東京地裁は7日、訴えを却下しました。「医師に食中毒の原因調査を求める権利はない」としています。原告側は控訴する方針です。

石川さゆりコンサート 水俣で開催決定            2016年11月25日

161125sayurikaiken.jpgのサムネイル画像胎児性水俣病患者たちが25日記者会見を開き、来年2月11日に石川さゆりコンサートを開くと発表しました。

患者たちは約40年前、20歳になった証に自分たちで何かを成し遂げたいと熊本県出身の石川さゆりさんのコンサートを企画。チケットを売るために水俣中を駆け回り、1978年(昭和53年)にコンサートを実現しました。水俣病の公式確認から阿多60年、還暦前後の年齢になった患者たちは、自分たちの半生を見つめ直すため、再びコンサートを企画しました。

20歳代のころより症状は重くなり、車いすで生活する患者もいますが、それでも水俣の企業を回って協賛金を集めたり、県外にまで赴いて講演会で協力を呼びかけたりして開催にこぎつけました。

患者たちは「これ(コンサート)ができることがとってもうれしいです」(坂本しのぶさん)「観客がいっぱい入ってくれればいいなと思います」(滝下昌文さん)と、コンサートを楽しみにしています。

緒方正実さん自伝出版 「体験を次世代に残すのは被害者の役割」    2016年11月24日

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水俣病公式確認から60年のことし、水俣病患者で水俣病資料館の「語り部の会」の会長を務める緒方正実さんが、27日に自伝を出版するのにあわせ、記者会見を開きました。

緒方さんが出版する『水俣・女島の海に生きる わが闘病と認定の半生』(税別2700円)には、漁業が盛んな芦北町女島で生まれ育った緒方さんが、水俣病と闘いながら患者に認定されるまでの半生が綴られています。本の中で緒方さんは、生まれ育った芦北町での闘病生活や認定申請をして、4回も棄却されながら、10年かけて患者認定を勝ち取る経緯などについて記しています。語り部としての活動だけでは伝えきれなかった思いを300ページ以上にわたり、話しかけるような言葉で表現しました。

会見で緒方さんは「自分が体験した水俣病を次世代の人たちの為に残しておく。それが水俣病の被害者の役割だと常に私は受け止めています。この本をきっかけとして、一人でも多くの人の生きる勇気や力になってもらえれば幸せです」と話しました。

救済地域対象外にも感覚障害の症状 民間医師団が調査      2016年10月14日

161014minamata.jpg水俣市の民間の医師団が2004年(平成16年)以降の検診の結果を分析したところ、国の救済対象となっていない地域にも水俣病の症状が多発していることがわかったと発表しました。

14日、水俣市で行われた会見によると、2004年11月からことし3月までに検診を受けた約3500人のうち、救済対象に指定された地域以外に住んでいた人も含め、およそ9割に水俣病に見られる感覚障害の症状が確認できたとしています。

また、救済申請が締め切られた後に検診を受けた1500人の9割に感覚障害が確認されたとして、「救済申請を締め切ったのは誤り」と訴えました。

水俣病認定審査の説明会 被害者団体「県は最高裁判決を無視」   2016年7月29日

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水俣病の範囲を広く認めた最高裁判決や国の新たな指針が出たにもかかわらず、熊本県の審査で認定棄却が相次いでいることについて、県は29日、水俣市で被害者団体などに、棄却の理由を説明する説明会を開きました。

最高裁は2013年、水俣病の認定の範囲を広げる判決を出し、それを受けて国は水俣病かどうかを認定する際の新たな指針を示しました。しかし、その後の審査でも認定申請の棄却が相次いだことから、被害者団体などが県に説明を求めていました。説明会はこの要望を受けて開かれたもので、被害者団体の会員などおよそ30人が出席しました。

県は「申請者の職業や家族の状況などを資料にもとに確認し、総合的に判断している」と説明しました。しかし参加者からは「過去の資料がそろっていなくても水俣病と認定した最高裁判決を無視している」といった批判の声が相次ぎ、「改めて水俣市の住民に向けた説明会を開いてほしい」という訴えも出されました。

「うれしいけど...こわい」坂本しのぶさん 還暦迎え取り組むのは  2016年7月20日放送

160720sakamoto_R.jpg胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんが20日、60歳の誕生日を迎えました。

18日、支援者たちが開いた還暦を祝う会に、坂本さんはピンクの洋服を身にまとって現れました。「お母様はいつもしのぶさんの年の数だけチッソと闘ってきたとおっしゃいますけど、しのぶさんは本当にお母さんの精神を受け継いで困難な時でもいつも闘ってきた。本当に素晴らしい女性に成長されたと思います」と話しました。

チッソが流したメチル水銀が海を汚し、汚染された魚介類を食べたことで発症した水俣病。しのぶさんは母親のおなかの中でメチル水銀の被害を受けた胎児性の水俣病患者です。水俣病を伝えることが自分に与えられた使命だと考えてきたしのぶさんは、若いころから被害の実態を訴え続けてきました。60歳になったことについて「うれしいけど...こわい。もう60になってしまったなって...こわい」と話すしのぶさん。若いころより体の自由がきかなくなったと感じています。

そんなしのぶさんを見守るのは、愛情をもって厳しく育ててきた母親のフジエさん(91)です。フジエさんは「ここまでがんばったからよかった。これからは自分の努力。なんでも。まだ食べるのも自分でできるし、洋服も着替えられる、トイレも行ける。今の状態を続けないと」と話します。

お祝いの席で着たポンくの服には、しのぶさんにとって大切な思い出が詰まっています。1978年(昭和53年)、20歳前後だったしのぶさんたち胎児性患者が、歌手・石川さゆりさんを水俣に呼んでコンサートを開きました。自分たちの力で大きなことを成し遂げたこの日は、しのぶさんが生きてきた60年で最も輝いた時でした。その時来ていたのがこのピンクの服。フジエさんが手作りしたもので、大切にとってあったのです。

あれから38年、還暦を迎えたしのぶさんは、再び石川さゆりコンサートを実現させようとしています。仲間のなかには自分の足で歩けなくなった人もいますが、しのぶさんは「もう1回、自分が元気なうちに(コンサートを)したいなと思っております」と話します。

「水俣病のことはちゃんと話をしていきたいなと思っています」「やっぱり、若い人たちに」

* * *

161020SAKAMOTOSINOBU.jpg還暦を迎えた坂本さんは、講演などで自らの経験を積極的に語っています。

9月にはタイの大学で水俣病の実態を訴えたほか、10月20日には熊本学園大学での講演(写真左)で「水俣病は決して終わっていない」と訴えました。この中で坂本さんは60年の人生を振り返り、学生たちに自分の思いを「水俣病は絶対に終わってない。他の人には私たちみたいに絶対になってほしくない」と述べたほか、昔と比べて体が思うように動かなくなり、今後の生活に不安を抱えている現状などを話しました。

「補償費不支給は違法」福岡高裁、県決定取り消し命ず    2016年6月16日

水俣病関西訴訟で勝訴し、賠償を受けた川上敏行さん(大阪府)が、熊本県に水俣病と認定されたことに伴う障害補償費の支払いを求めていた裁判で、福岡高裁は16日、川上さんの請求を退けた1審判決を一部取り消し、補償費を支払わないとした県の決定の取り消しを命じました。川上さんは、2004年の関西訴訟最高裁判決で勝訴し、チッソから賠償金を受け取っていますが、熊本県は「原因企業から損害が全て補てんされている」として障害補償費を支給しませんでした。

判決は、原因企業が賠償金を支払っても、原告が被った損害や失った利益などが全て補てんされたとはいえないと指摘。「県が支給すべき障害補償費があるのかどうかを検討しなかったのは違法」としました。蒲島知事は「判決内容を検討し対応する」とコメントしています。

14年以上待ち続けた結果はたった数行・・・「人生、無視された」  2016年5月13日

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熊本県は13日、水俣病の認定申請をしていた県外の2人を水俣病に認定し、30人を棄却処分にしたと発表しました。棄却された人の中には、14年以上も結果が出るのを待ち続けた水俣市の倉本ユキ海さん(61)がいました。

倉本さんは2002年(平成20年)に熊本県に認定申請をしましたが、14年以上待たされ、やっと届いた結果は「棄却」でした。幼いころから水俣の海でとれた魚をたくさん食べ、頭痛や手足のしびれなど体の不調に苦しんできましたが、県は「家族に認定患者がいない」ことや、「漁業従事者でない」ことを理由に、水俣病とは認めませんでした。

倉本さんは「ずっと苦しみ、体の不調という中で61年間生きてきました。その辛さを、たった数行で「棄却します」って。私の人生は無視されたというか、それがすごい辛い」と話します。

倉本さんは水俣病と認めてもらうため、裁判でも闘っており、「棄却されたのは残念だけど、まだ(認定される)方法はあるから、やれるだけのことは命ある限り闘っていこうと思う」と話しています。

水俣病60年、東大で講演会 熊本から中継も            2016年5月3日

160503toudaiminamata.jpg水俣病が公式に確認されて60年を記念する特別講演会が3日、東京都文京区の東京大学安田講堂で開かれました。

会場には約900人が訪れ、水俣病を描いた作家、石牟礼道子さん(89)も熊本市の施設からスクリーンを介した中継で参加。戦後に山間部の集落を訪れ、水俣の干しイワシを米と物々交換した経験を披露し、水俣病の指定地域外の実態調査の必要性を訴えました。杉本肇さんら患者4人も登壇し、歴史を学ぶことの重要性を説いていました。

公式確認60年 乙女塚で慰霊祭                     2016年5月1日

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水俣病公式確認から60年を迎えた1日、水俣市で患者団体の水俣病互助会が主催する慰霊祭が行われました。慰霊祭は水俣市の乙女塚で行われ、水俣病患者やその家族などが犠牲者に祈りを捧げました。

胎児性水俣病患者で21歳で亡くなった上村智子さんの父・好男さん(81)は、今年還暦を迎えるはずだった娘への思いを「今、もし生きていてくれたらどうなっていたか。健康であれば 結婚してくれた人もいただろう」と語りました。

60年前に初めて水俣病と確認された第1号患者、田中実子(じつこ)さん(62)の義理の兄、下田良雄さんは「実子が2歳11jか月で発病してちょうど60年。生まれて2年ちょっとで人生を奪われてしまった。かわいそうだなって」と語りました。よくしゃべる活発な女の子が突然、自分で食べることも言葉を発することもできなくなったのです。実子さんは姉の綾子さんや良雄さん、そしてヘルパーの介護を受けて生き続けています。

参加者は御詠歌を歌い、水俣病によって命を奪われた人々に鎮魂の祈りをささげました。毎年5月1日に行われる行政主体の慰霊式は、地震のため延期されました。

四日市と水俣 語り部の交流     2016年4月5日放送

水俣病の語り部たちが、三重県四日市市の公害資料館を訪れ、同じ課題を抱える現地の語り部と交流しました。

160405yokkaiti_R.jpg四日市は1960年代に石油化学コンビナートから排出された亜硫酸ガスによるぜんそく被害に見舞われました。資料館は公害の記憶を風化させまいと、2015年3月に開館しました。資料館を訪れた水俣病語り部の会の緒方正実会長は、コンビナート近くで漁師をしていた四日市の語り部、野田之一さん(84)らと経験を語り合いました。

野田さんは「自然に生きている植物、アサガオや菜っ葉がみな枯れてなくなっていく。本当に不思議なくらいにスズメやカラスまで、鳥が一羽もいなくなった」と、大気汚染公害の恐ろしさを語りました。野田さんは当時、同じ「公害の被害者」として水俣病を知るため熊本を訪れたそうです。「四日市公害が始まった時、もう水俣の(公害病の)話はあった。患者をみた時に、公害ってこんなに恐ろしいものかと感じた」と当時を振り返りました。

四日市公害では、水俣と同じく海も汚染され、魚からは油の臭いがしたといいます。水俣の語り部の杉本肇さんが「水銀は無味無臭なので魚に入っても(わからずに)食べてしまったのですが、魚が石油臭いのはいつごろまで続いたのですか」と問いかけると、「臭い魚の時期が昭和50年まで(続いた)」と、コンビナートで働いていた山本勝治さん(72)が答えました。四日市には加害企業で働いていた語り部もいます。

「(病気が)うつるから一緒に遊んだらいかん(と言われた)、とか、結婚に支障をきたすから(患者)認定を受けなかった、という話は四日市でもたくさん聞いています」と山本さん。水俣と四日市の語り部は、語り合うことで同じ苦しみの経験を共有しました。野田さんは「私はこうやって公害の病気で苦しんでいる端くれなので、あなた方の苦しみはよくわかる。心配なのは、今住む人たちが、公害の恐ろしさを知らないこと」と言います。

「四日市に来てよかった。これを出発点に、ぜひ深い交流をしたい」。緒方さんは水俣の木で作られた無垢のこけしを野田さんに渡し、固く握手しました。「目も口も鼻もないのは、完成していないという意味。四日市と水俣の思いが一緒に描けるように」という願いが込められているそうです。

160405kougai_R.jpg水俣病資料館では、正式オープンする4月30日から「四大公害」の企画展示が始まります。秋ごろには四大公害の各地域から語り部を読んでシンポジウムを行う計画もあります。

資料館が全面改装     2016年4月5日放送

水俣市の水俣病資料館が全面改装され、4月30日の正式オープンを前に公開されています。

水俣病資料館は1993年(平成5年)に開館しましたが、展示は文書や新聞記事など文字情報が多かったため、水俣病の公式確認60年にあわせ、初めて全面改装されました。新しい資料館は子どもたちにも水俣病に興味を持ってもらえるよう、図や写真、映像を中心にした視覚に訴える展示となっています。

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「永遠の記憶」の名付けられたコーナーでは、水俣病で命を落とした人々や漁の風景など、海とともに暮らしてきた水俣の日常を切り取った写真が一面に貼られています。資料館の島田竜守館長は「多くの写真を見て人の命の大切さや環境を守る必要さをつかみ取ってほしい」と話します。

わかりやすい展示になった一方で、行政の責任や現在の水俣病が抱える問題を示す展示が不足しているとの指摘もあります。資料館では一般に公開しながら展示内容の調整などを行い、30日から正式オープンする予定です。

日吉フミコさん101歳を祝う会     2016年3月26日

160326hiyoshi_R.jpg水俣病の患者支援を続けてきた水俣病市民会議会長の日吉フミコさんが今月101歳を迎え、祝う会が開かれました。会には親交がある患者や支援者などが集まり、日吉さんの長寿を祝いました。

日吉さんは水俣市の小学校で教頭を務めていましたが、1963年(昭和38年)、胎児性患者の姿に衝撃を受け、患者の支援を決意。水俣市議会議員に出馬し、市議として水俣病問題に取り組みました。1968年(昭和43年)には支援団体の水俣病市民会議を結成し、患者や家族が原因企業チッソを相手に起こした水俣病第1次訴訟など、患者の闘いを後押しし続け、101歳となった今も交流を続けています。

水俣病第1次訴訟の互助会総会     2016年3月20日  

水俣病をめぐる初めての裁判でチッソの責任を認めた判決から43年を迎え、元原告の患者や家族が当時をしのびました。

水俣病第1次訴訟と呼ばれるこの裁判では、水俣病の患者たちが初めて原因企業のチッソに対して損害賠償を求め、熊本地裁は43年前の1973年(昭和48年)3月20日、チッソの責任を認め、患者側が全面勝利しました。

水俣市で行われた集会には、当時原告だった水俣病患者やその家族、支援者などおよそ30人が参加しました。胎児性患者の母親、坂本フジエさん(91)は「私は裁判してよかったなと思います。裁判せずにいたら、今の生活は私たちにはありませんでした」と語りました。裁判を支援した熊本大学の富樫貞夫名誉教授は「水俣病にはまだ解明することがたくさん残されている。命ある限り、水俣病事件の真実のひとかけらでも明らかにしていきたい」と話しました。

埋立地の護岸は大丈夫か     2016年3月17日 

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水俣病の原因物質、メチル水銀を含んだヘドロを浚せつし、埋め立てた水俣湾の護岸設備の今後の対策について検討する熊本県の委員会が始まりました。

この委員会は、水俣湾の護岸の老朽化対策や地震による液状化や津波などでメチル水銀を含むヘドロが外に漏れた場合の対策などを話し合うものです。熊本県は地震や自然環境などの専門家に委員を委嘱し、1回目の委員会を開きました。

水俣湾の埋め立て工事は1977年(昭和52年)に始まり、約151万立方メートルの高濃度のメチル水銀を含むヘドロを埋め立て、約58ヘクタールの広大な埋め立て地が造成されました。海との境は土砂が漏れ出さないよう、鋼材を使った護岸に整備されていて、県は2010年に調査を行い、「40年以上の耐久性を確認できた」としていました。

委員会で県側は、「地震による液状化や津波が起きた際のリスクについて検討してほしい」と求め、出席した委員からは「目に見えない埋立地の内部についても調査が必要だ」といった意見が出されました。次回の委員会は今年9月に開かれ、委員による現地調査も検討されています。

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