熊本城と加藤清正

四日市と水俣 語り部の交流     2016年4月5日放送

水俣病の語り部たちが、三重県四日市市の公害資料館を訪れ、同じ課題を抱える現地の語り部と交流しました。

160405yokkaiti_R.jpg四日市は1960年代に石油化学コンビナートから排出された亜硫酸ガスによるぜんそく被害に見舞われました。資料館は公害の記憶を風化させまいと、2015年3月に開館しました。資料館を訪れた水俣病語り部の会の緒方正実会長は、コンビナート近くで漁師をしていた四日市の語り部、野田之一さん(84)らと経験を語り合いました。

野田さんは「自然に生きている植物、アサガオや菜っ葉がみな枯れてなくなっていく。本当に不思議なくらいにスズメやカラスまで、鳥が一羽もいなくなった」と、大気汚染公害の恐ろしさを語りました。野田さんは当時、同じ「公害の被害者」として水俣病を知るため熊本を訪れたそうです。「四日市公害が始まった時、もう水俣の(公害病の)話はあった。患者をみた時に、公害ってこんなに恐ろしいものかと感じた」と当時を振り返りました。

四日市公害では、水俣と同じく海も汚染され、魚からは油の臭いがしたといいます。水俣の語り部の杉本肇さんが「水銀は無味無臭なので魚に入っても(わからずに)食べてしまったのですが、魚が石油臭いのはいつごろまで続いたのですか」と問いかけると、「臭い魚の時期が昭和50年まで(続いた)」と、コンビナートで働いていた山本勝治さん(72)が答えました。四日市には加害企業で働いていた語り部もいます。

「(病気が)うつるから一緒に遊んだらいかん(と言われた)、とか、結婚に支障をきたすから(患者)認定を受けなかった、という話は四日市でもたくさん聞いています」と山本さん。水俣と四日市の語り部は、語り合うことで同じ苦しみの経験を共有しました。野田さんは「私はこうやって公害の病気で苦しんでいる端くれなので、あなた方の苦しみはよくわかる。心配なのは、今住む人たちが、公害の恐ろしさを知らないこと」と言います。

「四日市に来てよかった。これを出発点に、ぜひ深い交流をしたい」。緒方さんは水俣の木で作られた無垢のこけしを野田さんに渡し、固く握手しました。「目も口も鼻もないのは、完成していないという意味。四日市と水俣の思いが一緒に描けるように」という願いが込められているそうです。

160405kougai_R.jpg水俣病資料館では、正式オープンする4月30日から「四大公害」の企画展示が始まります。秋ごろには四大公害の各地域から語り部を読んでシンポジウムを行う計画もあります。

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