熊本県外のくまもと&くまモン

全国にあるくまもとスポット

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15.jpg肥後細川庭園とその周辺

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東京都文京区目白台にあった熊本藩細川家の下屋敷を整備した公園です。公園内とその周辺には細川家や熊本ゆかりの施設が多く、熊本の文化や歴史について理解を深めてもらう情報発信拠点にもなっています。

肥後細川庭園は江戸中期以降旗本の邸宅で、清水家や一橋家の下屋敷となったこともありましたが、幕末になって肥後熊本藩細川家が下屋敷を移し、1882年(明治15年)には細川家の本邸となりました。1960年(昭和35年)に東京都が買収し、1975年(昭和50年)に文京区に移管されました。周辺には、細川家ゆかりの施設が点在しており、都民の憩いの場所になっています。2017年3月18日、名称が「新江戸川公園」から、熊本や細川家ゆかりの地であることをよりはっきり示す「肥後細川庭園」に変わりました。

肥後細川庭園のホームページは yubiyubi.png こちら

【松聲閣(しょうせいかく)

shoseikaku.jpg熊本藩主を務めた細川家の学問所として1887年(明治20年)ごろ東京・文京区に建てられました。大正時代に改修され、文京区の集会施設として利用されていましたが、老朽化が進み、文京区がおととしから約3億6700万円をかけて修復と耐震補強工事を進めていました。床の間に熊本産のい草で作った畳を用い、各部屋に「肥後六花」にちなんだ名前を付けるなど、より熊本を感じさせる工夫もこらされています。入場無料で自由に見学でき、集会施設として貸し出されます。

【回遊式泉水庭園】

目白台台地の斜面地の起伏をいかし、湧水を利用した「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれた庭園で、江戸時代の大名屋敷の回遊式庭園の雰囲気をそのまま残しています。中心に池を配し、背後の台地を山に見立てた立体的な眺望や、深い木立ちや大泉水が織りなす景色の移ろいが楽しめます。晩秋には池のほとりにある松の枝が雪吊りされ、美しい傘形を見ることができます。

【永青文庫(えいせいぶんこ)

eisei_R.jpg昭和初期に建てられたこの洋館は、細川家の家政所、つまり事務所として使われていました。細川家の第16代当主だった護立さんが集めた陶器や彫刻、細川家が代々集めた茶道具や武具など国宝8点を含む約9万点の美術品が所蔵され、常時50点が展示されています。

 理事長を務めている細川護煕・元首相は「収蔵品は歴史そのものですから、700年前から先祖の方が使っておられたさまざまなものがあります。それを後世に伝えていくというのは大変重要な使命だと思っています」と話しています。

 

【旧細川侯爵邸=和敬塾本館】wakei.jpg

戦前に侯爵だった細川護立(もりたつ)さんの本邸として1936年(昭和11年)に建てられました。1階は主に接客、2階は日常生活の場として利用されていたようです。

1階の書斎はうねりのある栗材の特色が生かされ、護立侯爵お気に入りの部屋だったといわれています。大きな牡丹の絵が天井にあしらわれている2階の「御次の間」は食堂として使われた部屋で、料理は小型のエレベーターで1階から運ばれていました。

近くには和敬塾という男子学生寮があり、旧侯爵邸は今は和敬塾の本館として使われていて、学生の教養講座や講演会などが行われています。通常は一般公開はされていませんが、不定期に見学会が開かれています。

15.jpg高輪周辺

熊本藩細川家の下屋敷は江戸時代の初めには港区高輪にありました。1703年(元禄16年)に大石内蔵助(くらのすけ)ら赤穂四十七士が、吉良上野介邸に討ち入りした「赤穂事件(忠臣蔵)」では、仇討ちを果たした浪士17人が切腹した場所としても知られています。都営浅草線の泉岳寺駅を出てすぐの泉岳寺から歩いて回れます。

sengakuji_R.jpg【泉岳寺】

討ち入りを終えた浪士たちはかつての主君、浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩が眠る泉岳寺に仇討ちの成功を報告します。泉岳寺のそばに下屋敷があった熊本藩・細川家は幕府から大石内蔵助(良雄)をはじめ17人の預かりを命じられました。

永青文庫で知られるように、細川家は膨大な文書を残しており、赤穂事件についても記録があります。細川家に残る文書には、①討ち入りがあった日の天気は「忠臣蔵」の芝居のように雪ではなく、雪が降ったのは前日だったこと②赤穂浪士たちが顔を知らない上野介を眉間の傷で確認したというのも芝居での話で、実は上野介が炊き込めていた特別な香のにおいで確認した――と記されているとのことです。

【大石良雄外十六人忠烈の跡】kuranosuke_R.jpg

泉岳寺の内蔵助像(写真右)わきの細道を上り、高輪1丁目アパートをめざします。アパートに隣接した黒い扉の中に残る熊本藩下屋敷の庭が、内蔵助らが切腹した「忠烈の跡」です。

討ち入り後、細川家は幕府から、大石良雄(内蔵助)をはじめ17人の預かりを命じられました。時の細川家当主・細川綱利は、赤穂浪士の義挙に感銘し、浪士ではなく義士として丁重に扱いました。17人の身柄受け取りになんと875人の迎えを出し、屋敷では客分として扱い、帯刀も許しました。3度の食事も「二汁五菜」で厚くもてなし、浪士が「食事をもう少し質素にしてくれ」と願い出るほどだったといいます。綱利は内蔵47main_R.jpg助に「このたびのことは忠義のいたり、館に預かることは武門の本望、心易くくつろぎ、数ヶ月の辛苦、昨夜の疲れを休めるよう」と労いの言葉をかけたそうです。

綱利は幕府に浪士の助命を嘆願しました。叶えば召し抱えるつもりでしたが、結局、幕府は彼らに切腹を命じます。17名が切腹した屋敷の庭が、「大石良雄外十六人忠烈の跡」として残されています。47ishi_R.jpg

切腹は畳三畳の上に白ふろしきを敷き、蔵之助から始まったといいます。人が替わるたびに畳と介錯人は新しく替え、17人が切腹を終えるまで2時間かかったそうです。17人が切腹した後、綱利は庭を清めることを禁じ「庭を細川家の守り神として終世残す」ことを決めました。黒い扉はふだんは閉ざされ、立ち入りできませんが、扉の向こうには400年を経た今も屋敷の庭石が残っています(写真右)。

siinoki_R.jpg【旧細川邸のシイ】

「忠烈の跡」にほど近い港区高輪地区総合支所わきの丘に、熊本藩下屋敷にそびえていたスダジイの巨木が残っています。幹周りは8.13メートル、樹高は10.8メートルもあり、シイノキとしては東京都内最大級だということです。樹齢は300年以上とみられ、東京都指定天然記念物に指定されています。幹の下部に大きな空洞があったため、1981年(昭和56年)に大規模な延命手術が施されました。


【覚林寺(かくりんじ)

総合支所正面から国道1号線に出ると、「清正公前(せいしょうこうまえ)」の交差点が見えます。交差点の名の由来になったのが、交差点そばの日蓮宗寺院、覚林寺です。

安房小湊(千葉県鴨川市)の誕生寺18代の住職だった日延上人(1589~1665)が、隠居後に熊本藩細川家の中屋敷だった地に1631年(寛永8年)に開創しました。加藤清正の位牌や像が祀られていることからこの寺は「清正公」と呼ばれ、勝負祈願の寺として庶民の信仰を集めました。毎年5月4・5日の清正公大祭では清正公像が特別開帳され、武運の強かった清正公にちなみ、菖蒲(勝負)の入った「勝守り」を受けることができます。kakurinji_R.jpg

清正は朝鮮出兵から帰国した際に、朝鮮国14代国王宣祖の長男・臨海君の子を連れ帰り、養育したといわれています。2人は清正の熱心な法華経信仰の影響を受けて成長し、兄は清正の熊本の菩提寺である本妙寺三世となった日遙(にちよう)上人、弟は誕生寺の住職となった日延上人でした。清正が朝鮮出兵の折に高麗国の王子を連れ帰ったのは史実のようですが、この王子は豊臣秀吉の命で朝鮮に返されており、日遥上人や日延上人は朝鮮から来たものの、王族でなかったいという説が有力のようです。ただ、2人とも清正を手厚く祀っており、清正は愛情をもって大切に養育したことがうかがえます。

覚林寺は東京メトロ南北線/都営地下鉄三田線の白金高輪駅が最寄駅となります。ちなみに白金高輪の駅名は、開業直前まで「清正公前」となる予定でした。都心には中央区日本橋浜町の浜町公園の一角にも、細川斎護が1861年(文久元年)に熊本・本妙寺から清正の分霊を勧請して創建した清正公寺があります。

15.jpg明治神宮の清正井(きよまさのいど)kiyomasanomizu2_R.JPG

明治神宮内の明治神宮御苑にあり、かつてこの地に下屋敷を構えていた加藤清正が掘ったといわれます。真下に掘り進む通常の井戸と異なり、地下水路のように地面に水平に堀った横井戸で、戦前には清正が掘った井戸の特徴を知る熊本の研究家が井戸を調査しましたが、清正が掘ったと断定できなかったそうです。横井戸を掘るには高度な土木技術が必要なことから、「築城が得意だった清正が掘ったに違いない」と、この名がついたといわれます。

「横井戸は富士山と皇居を結んでいる」とか「地下水路には風水の『気』が流れ、井戸から地表に吹き出している」といった"都市伝説"が広がり、今では都内有数のパワースポットとして人気があります。井戸の写真を携帯の待ち受け画面にする人も多いようです。JR山手線原宿駅、東京メトロ千代田線/副都心線明治神宮前駅から徒歩。清正井を含む御苑入場は有料です。

rokanouti (1)_R.jpg15.jpg蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん)
「不如帰(ほととぎす)」有名な水俣市出身の小説家、徳富蘆花(1868~1927)が1907年(明治40年)から亡くなる直前まで過ごした居宅跡を中心とした公園で、芦花公園とも呼ばれています。京王線芦花公園駅下車徒歩15分です。

ロシアの文豪トルストイの村を訪ねて土に生きる姿に感銘を受けた蘆花は、帰国後に農家を買い取り、恒春園と名付けたこの場所で晴耕雨読の日々を送りました。周囲には蘆花の遺品を展示している蘆花記念館や蘆花手植えの竹林、世田谷文学館などがあります。

蘆花の兄は「國民新聞」を発刊したジャーナリスト・歴史家の徳富蘇峰(1863~1957)ですが、1903年(明治36年)から絶縁状態だった2人は蘆花の死の直前に和解します。園内には蘆花夫妻の墓がありますが、その銘は蘇峰の手によるものです。

15.jpg銀座熊本館ginzakumamon_R.JPG

数寄屋橋交差点のソニービル隣にあるアンテナショップです。1階は熊本の名産品やくまモングッズを取りそろえ、2階はカフェバーで馬刺しや辛子蓮根、球磨焼酎などが楽しめます。営業時間は1階が午前11時から午後8時まで、2階が午後1時から午後8時まで。定休日は1階が月曜日(月曜日が祝日の時は営業)、2階が日、月曜日です。

銀座熊本館のホームページはこちらkurejitto_R.jpg

15.jpg羽田空港美術館 ディスカバリーミュージアム

museum_R.jpg羽田空港で全日本空輸(ANA)などを利用する際に使う国内線第2ターミナルの3階に2010年にオープンした日本で初めての空港内美術館です。細川家の至宝を管理する永青文庫に所蔵されている美術品の一部が展示されているほか、年に3~4回、永青文庫の企画展などが開かれています。ラウンジ風の館内には美術品と向き合う形でソファが配置され、じっくり、ゆったりと鑑賞できます。開館時間は午前11時(土日祝10時)から午後6時30分まで(最終入場時間は午後6時)。

ディスカバリーミュージアムのホームページは yubiyubi.png こちら

758_R.jpg15.jpg秀吉清正記念館

HidekiyoGakan_R.jpg名古屋市博物館の分館で、同市中村区生まれの豊臣秀吉と加藤清正に関する資料を集めています。 常設展は、織田信長が天下統一へ向かったころから、秀吉の天下統一、そして大坂の陣で豊臣氏が滅亡するころまでを紹介しています。秀吉の文書を詳細に解説するコーナーもあります。特集展示、写真パネル展を、テーマをかえながらMyougyo-ji_R.jpgほぼ常時開催しています。

記念館の建つ中村公園周辺には、秀吉・清正の生誕地碑、豊国神社、妙行寺(みょうぎょうじ)、常泉寺などがあります。妙行寺は加藤清正が自分の生誕地に、名古屋城築城で余った材料を使って再建したとされ、境内には清正の銅像や生誕地の石碑があるほか、清正公)堂には清正の没後に熊本の本妙寺から贈られた日遙上人作の清正尊蔵が安置されています。中村公園の最寄り駅は地下鉄東山線の中村公園駅です。

秀吉清正記念館の情報は yubiyubi.png こちら

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15.jpg大徳寺高桐院(こうとういん)
koutouin1_R.jpg京都市北区紫野の大徳寺の塔頭(たっちゅう)のひとつで、1601年(慶長6年)に肥後細川家初代で利休七哲の一人、細川忠興(三斎)が父、細川藤孝(幽斎)のために建立しました。カエデと竹に囲まれた参道や苔むす庭園は美しく、特に秋の紅葉が有名です。

庭園の奥には忠興とガラシャ夫人の墓があります。ガラシャの骨と忠興の遺歯が眠り、墓塔は笠が大きく欠けた灯籠が使われています。この「欠灯籠」はもとは千利休が愛蔵したもので、豊臣秀吉が所望したところ、一部を割って「欠けているので献上できない」と断ったといわれます。利休切腹後に灯籠を手に入れた忠興は「完璧すぎる」とさらに一部を割って隠居先の八代城に置いていましたが、遺言で熊本から京都に運ばれ、夫妻の墓となったそうです。

境内前庭には加藤清正が朝鮮から持ち帰り、忠興に贈った「降りつくばい」もあります。もとは朝鮮王城羅生門の礎石だったとされ、忠興はつくばいを熊本・江戸間の参勤交代に持ち歩くほど気に入っていたそうです。また、茶室・松向軒は、豊臣秀吉が開いた北野大茶会で使った茶室を忠興が移築したと伝わります。

高桐院は、京都市バス大徳寺/建勲神社前バス停下車徒歩5分です。

oosakadaiji_R.jpg15.jpg肥後橋
大阪市中之島には年貢米を売却するため、各藩が米蔵を併設した蔵屋敷を設けていました。永青文庫に残る記録では、54万石の大藩だった熊本藩の米蔵は858坪と各藩の中でも最大で、一帯は肥後島町、付近にあった橋は肥後橋と呼ばれました。肥後島町には加藤清正が植えたとされる松があり、枝の一方が手を差し出し、一方は手を屈めるように見えたことから「売買の松」と呼ばれていたそうです。

蔵屋敷の跡地は明治になって、土佐の後藤象二郎(1838~1897)の会社に払い下げられ、製紙工場がつくられました。今は屋敷跡には近代製紙業発祥の地の碑が建つのみですが、肥後橋は今もあり、地下鉄の駅名にもなっています。

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