熊本城と加藤清正

日本三名城のひとつ 熊本のシンボル 地震で大きな被害

sirozenkei_R.jpg熊本のシンボル、熊本城は、加藤清正(1562~1611)が熊本市中心部の茶臼山丘陵に、1601(慶長6年)から1607年(慶長12年)にかけて築いた城です。力強く優美な外観、壮大な石垣など見所が多く、姫路城(兵庫県)、松本城(長野県)とともに、日本三大名城のひとつとされています。三大名城には別の組み合わせもありますが、熊本城が外れることはありません。

茶臼山にはすでに応仁年間(1467~1469年)に千葉城、1496年(明応5年)には隈本城が築かれていました。清正はこれらの古城を取り込む形で壮大な城郭を築き、地名の「隈本」を「熊本」に改めたと伝わっています。

siroutoyagura_R.jpg清正の築いた城域は98ヘクタールにおよび、標高50mの天守台には大小2つの天守閣があります。3層6階の大天守は籠城戦に備えた部屋割りになっています。2層4階の小天守は大天守より後に増築され、景観を考慮し西にずらして建ち、居住を意識した造りになっています。本丸の西北には「三の天守」とも呼ばれる3層5階の宇土櫓(国重要文化財、写真左手前)があsiroishigaki_R.jpgります。かつては小西行長の居城だった宇土城天守閣を移築したとの説もありましたが、現在は否定されています。

熊本城には、築城の名手だった清正の知恵があちこちに生かされています。石垣には上に行くほど反り返る「武者返し」と呼ばれる構造が採用されています。籠城戦に備えて「食べられる城」にするため、城内の建物の土壁にはかんぴょうを塗りこめ、畳の床には食用になる里芋の茎を用いたといわれます。また、城内には井戸が120カ所もあったといいます。

15.jpg熊本の基礎をつくった加藤清正

sirokiyomasa_R.jpg熊本城を築いた加藤清正は、戦に強く、築城が得意な大名でした。幼いころから豊臣秀吉に仕えて数々の武功を立て、1588年(天正16年)に27歳で肥後北半国の領主となりました。治山治水、新田開発などに力を入れて領民に慕われ、今でも熊本では善政の事跡は「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」とされています。

秀吉の死後、1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦では東軍につき、戦後は西軍の小西行長が領していた肥後南半国も加えた54万石の大大名となります。ただ、東軍についてからも清正の豊臣家に対する恩顧の念は強く、本丸御殿の大広間奥の「昭君之間」は、秀吉の遺児、秀頼に危険が迫った際に熊本にかくまうために作ったとされています。

しかし、熊本城に秀頼が来ることはありませんでした。清正は1611(慶長16年)に秀吉の遺児秀頼と徳川家康の会見を実現させた直後、50歳で病気のために亡くなります。4年後の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡してしまいました。

15.jpg西南戦争で初の戦火に

清正の死後から間もなく加藤家は改易され、熊本城は細川氏の居城となります。その後、熊本城が明治維新まで実際に戦火にあうことはありませんでした。本格的な戦火が交えられたのは、築城から270年が経過した1877年(明治10年)の西南戦争。西郷隆盛率いる薩摩軍が政府軍の拠点となった熊本城を攻めましたが、薩摩軍は城を落とすことができませんでした。西郷は西南戦争に敗れて自決する際「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」という言葉を残したといいます。しかし、この攻防戦の最中に原因不明の火災が発生し、天守を含む本丸御殿や櫓などは焼失してしまいました。

siromarason_R.jpg城域は1945年(昭和20年)7月の熊本大空襲では罹災を免れ、1960年(昭和35年)には現在の天守閣が復元されました。内部は熊本博物館分館、最上階は展望所となっています。1998年度(平成10年度)からは城郭全体の復元整備計画が始まり、南大手門や戌亥櫓、飯田丸五階櫓などが復元されました。

2007年(平成19年)には築城400年祭りが盛大に行われ、2008年(平成20年)には本丸御殿の大広間が復元されました。整備計画はまだ続いており、熊本市は1口(1万円)で寄付を募っています。寄付した人には「城主証」や市内の観光施設が無料になる「城主手形」が贈られ、天守閣に名前が記されます。

熊本城を訪れる人は年間約170万人にのぼり、最近は外国人も増えています。城郭内の加藤神社には多くの初詣客が訪れるほか、加藤家の菩提寺・本妙寺では、清正の命日の7月23日~24日)に頓写会(とんしゃえ)と呼ばれる法要が行われ、多くの参拝客でにぎわいます。毎年2月の熊本城マラソンには多くの市民ランナーが参加します。熊本城は熊本の観光の目玉となっている熊本城は、熊本市民の暮らしにも深くとけ込んでいます。

15.jpg熊本地震で大きな被害

160430iidamaru_R.jpg

熊本城は2016年4月の熊本地震で大きな被害を受け、城の中はもちろん、公園となっている城域内にも立ち入りができない状態となっています。4月14日の「前震」でも天守閣の瓦が落ちるなどの被害を受けましたが、16日の「本震」では瓦としゃちほこがほとんど崩落してしまいました。城域内の櫓も壊れ、平成になってから復元された飯田丸は下部の石垣がえぐれるように崩落し、1列の石垣だけでかろうじて立っている状況が続きました。石垣の崩落は50か所、全体の約3割に達し、修復には350億円もの費用が必要といわれています。

熊本市は、ラグビーワールドカップなど国際的に大きな催しがある2019年に大天守と「奇跡の一本石垣」として有名になった飯田丸五階櫓を修復します。それ以外の櫓や建造物については国の重要文化財となっている宇土櫓など13の建造物を優先的に復旧し、2020年度までの着工を目指す方針です。その他の建造物や石垣の復旧は、すでに着手している天守閣と飯田丸五階櫓を除いて2022年度以降に着手します。

sirodanmen.jpg

天守閣は大天守最上階の柱が損傷したため、最上階は取り壊すこととなり、2017年5月から工事は本格化しています。左の図のように新たにエレベーター(青部分)が設けられる計画です。

熊本城公式ホームページは yubiyubi.png こちら

熊本ニュースまとめ読み 一覧へ

最新の県内ニュースへ

 

 

 

 

エントリー