熊本地震 連載・データ集

姜尚中さん講演 「漱石の死生観」              2016年5月14日

SOUSEKINEN_R.jpg熊本地震が発生してから1か月が経過した5月14日、明治の文豪・夏目漱石の生誕150年などを祝う「漱石記念年」のオープニング式典が熊本市で行われました。今年度は漱石の生誕150年、没後100年にあたり、全国の漱石ゆかりの地でさまざまな催しが予定されています。今年は漱石が熊本の旧制第五高等学校に赴任してから120年にあたることから、記念年のオープニング式典は熊本で行われました。

熊本地震で会場に予定していた施設が被災し、開催が危ぶまれましたが、式典は会場を熊本市内のホテルに変更して行われました。全国から大勢の漱石ファンが集まり、熊本地震後に開かれた初の全国的な式典は大いに盛り上がりました。

式典では評論家で県立劇場の館長でもある姜尚中・東京大学名誉教授が、「漱石の死生観」と題して講演を行いました。熊本は1889年(明治22年)7月28日にも大きな地震に見舞われていますが、漱石が来熊したのはその7年後で、漱石自身は熊本で震災は体験していません。しかし、姜氏は地震と県民はどう付き合うべきかを、漱石の死生観から説き起こし、哲学や文明論にも話を拡げて、今回の地震を熊本県民はどう受け止めて、どう生きていくべきかを語りかけました。

会場が変更になったことで入場者が限られてしまいましたが、熊本県民に寄り添い、地震後にどう生きていくべきかの示唆に富んだ姜氏の講演内容を多くの人に伝えたいと考え、主催者側の許諾を得て、以下5回にわたって講演録の形で紹介します。

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◆「因果」は被災した熊本への救い

どうもみなさん、本当にこんなにたくさんおいでになって、ありがとうございます。

皆さんがこの式典においでになったこと自体に大きな意味があると思いますし、この会を開催されるにあたっていろんな方々がご尽力されたことと思います。きょうは、最初は漱石が描く女と男、美の世界などという非常に悠長な題を最初は考えておりましたが、未曾有の事態が起きました。やや大袈裟ですが、死生観という話をさせていただきたい。

夏目漱石の名作『三四郎』*1には竜田山が出てきます。私は熊本に生まれ、小さいころから市内を見下ろす、さほど標高のない、しかし丘というほどでも低くもない竜田山のふもとで過ごしました。西には金峰山が見え、その向こうには名作『草枕』*2の舞台になっている小天(おあま)温泉があります。東を見れば『三四郎』があり、西を見れば『草枕』がある、私はそういう環境で育ちました。

その熊本で、4月14日に大変な事態が起きたわけですが、私はたまさか14日の日は熊本におりました。ある新聞の企画で震災を取り上げようということになり、それは5年前の東日本大震災、福島第一原発の事故などについてでしたが、4月12日は阪神・淡路大震災の取材にも出かけておりました。阪神淡路大震災とは、21年前に起きた未曾有の大震災です。震源地は淡路島でした。大変な数の方々が亡くなられました。いまはメモリアルパークのような、亡くなられた方々一人ひとりの名前が刻まれている場所がございます。そして私は4月14日に熊本に入り、午後に県庁で蒲島県知事ともお会いし、いろいろな抱負を語りあい、午後9時26分、震度7の地震があったわけです。

漱石について語るとき、どうしても省けないことのひとつは「因果」もしくは「因縁」という仏教的な言葉でしょう。漱石の小説を読みますと、初期の『倫敦塔』*3や『趣味の遺伝』*4に始まって、いろいろなところで「因果」という言葉が出てきます。私も何の因果でか、14日に、しかも震災を取材して、自分が被災するとは夢にも思いませんでした。

akacyankyuusyutu.jpg漱石は、因果が尽きない、人間というのは因果が尽きない、その中でしか人間は生きられないという、これは達観なのかどうかは分かりませんが、そういうことを考えていたように思えます。日本を代表する山崎正和さんという著名な劇作家が『方丈記』*5を取り上げながら、「積極的無常観」ということを書いています。明日自分たちは死に絶えるかもしれない。だから今日はどうでもいいかというと、逆だと。だからこそ今日1日を一生懸命生きようというのを彼は「積極的無常観」と述べています。漱石のなかにもどこかそれに近いものがあったのではないか。それは今、この熊本の地に生きる人にとっては、何か救いの言葉のような気がするわけです。

初めての朝日新聞の連載小説となった『虞美人草』*6の中で、主人公のひとりがつけている日記の中に「生死因縁無了期 色相世界現狂癡(しょうしいんねん りょうきなし しきそうせかい きょうちをげんず)」という漢詩が出てきます。この漢詩は漱石が熊本からロンドンに出かけるときに、確か彼も日記のどこかに記していたと思います。人間の生と死の因果はつきない、(先のことは)わからない。にもかかわらず私たちの世界はどんちゃん騒ぎをしている。でも自分は一生懸命生きるぞ、と、そういう覚悟が漢詩の中に込められているわけです。そして、その背後には人間の因果はつきない、なぜ自分はこの世に生まれてきたのかという感情もあるように思えます。

◆人の生死は謎 だから貴い

夏目漱石は慶応3年(1867)に生まれました。しかも親たちから必ずしも歓迎されず、不幸な生い立ちと言えば生い立ちだったと思います*7。自分自身に非常に悩みを抱えていた漱石が、19世紀末から20世紀にかけて、あの大英帝国の首都、ロンドンに出かけていく、その前の4年3か月を熊本で過ごしたわけです。漱石は絶えざる矛盾の中に生きた人だと思います。明治維新が始まって西南戦争があり、そして日清、日露、第一次世界大戦があり、第一次世界大戦のさなかに、彼は50歳にもならずして他界するという非常に短い人生でした。

その中で彼が常に思っていたことは「因果」という言葉です。

私たちは学問をする時に、原因があれば結果がある、原因と結果の間にはある一定の法則性がある、したがってその法則性を導き出せば必ず将来を予測できる、将来を予測できるなら我々は必ずそれを制御できるはず、と考えます。地震も予測できる、大地の揺れを予測できるなら、それを我々は何らかの形でコントロールできるはず、と考えがちです。しかし、実はそうはいかないのです。いつ地震が起きるかわからない。つまり、因果という言葉は、我々がもっている近代科学の一つの万能性というものに対する無力感というものを示しているわけです。


160502gisen.jpg福島第一原発の問題も、東日本大震災も、あるいは阪神淡路大震災も、多くの方々に話を聞くと、「まさか」(こんなことが起きるとは思わなかった)と異口同音に言います。熊本地震もそうだと思います。「熊本は日本で一番安全な場所、いちばんよかとこたい」と、誰もがそう思い、この水と緑と火の国を誰もが愛し、そして日本中で一番いいところだと、皆さんが誇りに思っていたと思います。私のように県外に出た人間も、熊本は唯一、自分たちにとって誇れる場所でした。しかし、そういう場所がこのような形になってしまいました。先ほどの知事の言葉を使えば意地悪な地震、私もまさしくそう思います。14日午後9時26分に震度7の地震が起き、とにかく助かってよかったと思う間もなく、何度も何度も執拗に繰り返される揺れは、今も続いているわけです。

そう考えると私は、「因果」という言葉に関して非常に感銘深いものを感じてなりません。果たして「無常観」と言えるかどうかわかりませんが、人間の生と死は分からない。にもかかわらず人間は日々、喜劇的な生活を送っている。でも自分は生きていくぞ、という漱石の覚悟のほどがその言葉に出ているわけです。人間は生も死も分からない、謎であるというのが漱石の一つの実感ではなかったかと思うわけです。

『虞美人草』に、主人公のひとり、甲野青年の日記が出てきます。その中に、こんな言葉が出てきます。

「宇宙は謎である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく感ずる自分さえも謎である。この世に生まれる者は、解け得ぬ謎を押し付けられて白桃に儃佪し、中夜に煩悶するために生まれるのである」

160511siro.jpgのサムネイル画像人間は何のために生まれてきているのか、それは煩悶するために生まれてきた、と、この日記は語っているわけです。これは多分、漱石の死生観ではなかったかと思います。幸せを求める、あるいは楽にありたい、単に長生きをしたいということではなくて、人間はどういうわけか生まれながらにして、謎を解くように押し付けられてこの世に生まれている、というようなことを漱石は考えていたのではないかと思うわけです。

そういう漱石が今から120年前、熊本にいました。もし、今漱石が蘇ってこの地震を体験したなら、たぶん同じことを述懐するのではないかと思います。漱石は「人間はそういう存在として生まれているからこそ貴い、因果がわからない中でこそ生きるに値するし、また生きなければいけない」ということを生涯いろんなところで語っています。

◆人は互いを「あはれ」と思える

さらに漱石について非常に感銘深いことは、「憐れ(あはれ)」の感情です。憐憫の憐、あわれ、これはただ単に上から下への目線ではありません。今回の震災で見ず知らずの方々が肩を寄せ合い、支え合いました。みんなが人を憐れと思ったと思います、自分自身を憐れと思うと同時に、だからこそ見ず知らずの人も憐れと思えるのです。

maeda-tuna.jpgmayazaki-touten.jpg『草枕』の中で主人公の画工は、憐れを催しているヒロインの那美さんの顔を見て、「それだ」と。「それが自分が求めていた美の究極だ」と悟ります。那美さんという人物のモデルはご存知の通り、前田卓(つな)*8という人で、妹が宮崎滔天*9のつれあいになっています。宮崎滔天と言えば中国革命の父である孫文を生涯サポートした人で有名です。

私の高校にも孫文が揮毫したものがございますし、熊本はそういう点では非常にまあ、女傑と言っていいような方が生まれてくる土地柄でもあります。

那美さんの中にある憐れの表情、この言葉は今、この熊本の地で生きている人にとってどれほど大切な言葉でしょうか。我々は憐れを通じて人への共感を持ちますが、世の中には憐れというものを知らない人々がいます。そういう人々に対する漱石の満身の怒りは『二百十日』*10の中によく表れております。あるいは『坑夫』*11の中にも表れております。

今の世の中は格差が拡がり、そして私たちの想像を絶するような富をかっさらう人々もいます。他人がどうなろうと、自分と富さえ集められればいいという人もたくさんいると思います。漱石は憐れを感じない人に対する強い強い嫌悪に近い気持ちを持っていたと思います。それは『虞美人草』のなかにも表れています。憐れを知らないヒロイン・藤尾について、漱石はある弟子に対して「この人物は死んでもらわなければいけない」という言葉を激烈に吐いております。憐れというものが人間の最後の人間らしさである。憐れを知っているかどうか、そのことが知性や富や、あるいは美貌にかかわりなく、人間が人間たる最後の拠り所であるということです。

そのことを、多分、震災を通じて多くの方々が実感したのではないかと思います。東日本大震災でも「震災ユートピア」という言葉が聞かれました。被災地の住民の方々は、隣国や世界の人が驚くほど整然とし、そして律義で、一人ひとりが助け合おうとしました。その光景を見て世界中の多くの人々が感動をもらったと言われています。震災を通じて、すべての人々が不幸であるがゆえに憐れを催す時、人は初めて、他人の幸福が自らの不幸であり、自分の幸福が他人の不幸であるというすれっからしとしか言いようがない、ぱさぱさと乾いた社会とは違う感情を共有し合える一瞬を持ったのではないかと思います。

この1か月、今でもテント暮らしや、あるいは仮設住宅にも入れない方々がいらっしゃることは皆さんも知っての通りです。甚大な不幸です。人命も失われました。しかし、もしかしたら、それを通じて私たちは憐れというものを感じたのではないか。そして今ここにいらっしゃる方々も、憐れという感情を持つがゆえにここにお集まりになったのではないかというふうに、私自身は感じております。

日本経済の破たんに近い状態が1997年にありました。今から20数年前です。山一、拓銀、長期信用銀行で大変な事態*12が起きました。そして21年前には阪神・淡路大震災も起きました。この約20年で、日本の社会は大きく変わっていきました。格差が拡がり、貧しい人やあるいは憐れな人々に憐れだと感じない、そういう空気が一方で醸成されてきたことも否めない事実だと思います。しかし、そういう空気があっても、この震災という未曾有の不幸の中で、多くの人々がやはり憐れだと思い、だからこそわずかなものであれ、ささやかなものであれ、その人たちに手を差し伸べたいと感じています。人間は欲得ずくで生きると同時に、他者に対する憐れの感情を持っているのです。

フランスの思想家ルソー*13は、「ピティエ(憐憫)」というものは最後の人間の拠り所である」と述べています。恐らく漱石は、『草枕』の画工を通じて、塵芥にまみれた世間とは違う桃源郷(を見たが)、最後は人情の世界に落ち着かざるを得なかった。それ(を表現するには)那美さんという不幸を背負った人物に対する限りない共感として、憐れという言葉が最もふさわしかったのだと思います。漱石の死生観の中に憐れという言葉があるということを『草枕』を通じて、なにとぞ皆さんに理解していただきたいですし、そのような憐れの感情には多分、流産まで追い詰められ、そしてさまざまな障害を持たざるを得なかった妻・鏡子に対する漱石の夫婦愛、小さき者に対する漱石の本当に繊細な心遣いというものが底流にあったのではないかと考えています。

◆熊本は生まれ変われる

今日漱石を読み返すときに非常に胸に沁みるのは、『虞美人草』のなかで取り上げた最後の言葉、「悲劇は喜劇より偉大なり」です。これは私たちにとって、大きな大きな慰めでもあります。東日本大震災の後、私は何度も何度も福島に通いました、福島第一原発のさまざまな付近も歩いてみました。今年に入り、福島第一原発の中にも入りました。村々の周辺の人々にもいろいろな形でインタビューしました。そこで感じたことは「悲劇は喜劇より偉大である」ということです。

KUSAsetuwomamoru.jpg苦しみ、悲しみ、死、病気、様々な災難、しかしこれを通じて人間は粛然とし、日々の喜劇的な生活から脱却して真面目になるのです。あの名作『こゝろ』*14のなかで、「先生」は「私」、学生に対して「あなたは真面目ですか」という言葉を連呼します。真面目、これは漱石の生き方そのものだったと思います。漱石は真面目でした。恐らく、当時のどの作家と比べても漱石は真面目な人だったと思います。言葉の真の意味で真面目な人でした。皆さんも知っての通り、漱石は熊本でたくさんの俳句を残しておりますが、私もとても好きな俳句の一つ「木瓜咲くや 漱石拙を守るべく」という句を、明治30年(1897年)に、この熊本で残しています、

私も木瓜の花がとても好きです。木瓜は本当に小さいけれど、まっすぐと、しかしどこかぎこちなく、決してスマートではない。しかし、この木瓜の中には、漱石の生き方というのが込められています。それは真面目であり、真顔であるということだと思います。

私は熊本から上京して数十年になります。東京はいい、東京は明るい、東京は光に満ちている。不夜城のような東京にあこがれて、『三四郎』ではありませんが、東京に上京して、もう数十年が経ちます。しかし、あの東日本大震災を通じて、初めて私自身は「光あるところには影がある」、まさしく『草枕』のなかで言われている通り、「楽しければ楽しいほどまた憂いも深い」、そういうことを言葉の真の意味で学びました。その意味において、今回の震災は確かに大変な悲劇だと思います。しかし、私はそこから熊本の県民は必ず何かを学ぶと思います。東日本大震災でもそうでした。阪神・淡路大震災でもそうでした。人間は必ず喜劇的などんちゃん騒ぎと祝祭に酔いしれているだけではなく、悲劇を通じて人間の本性というものに目覚める――。漱石は多分そう考えた人だと思います。

kan7.jpgのサムネイル画像我々は苦痛を避け、そして闇を避け、ただひたすら快楽と楽しみと光を求めてきました。戦後70年はとにもかくにも驚異的、奇跡的な経済成長を遂げました。しかしそのために失ったものはあまりに大きいのかも知れません。光あるところには必ず影がある、ということを、さまざまな人間の悲劇を通じて、我々はきっと学ぶことができる――。漱石はそういうふうに考えたのだと思います。

非常に重要なことは、我々は生まれ変われる、「輪廻転生」ということです。今から71年前の8月15日、日本の国民は生まれ変わろうとしたのだと思います。それは見事に、世界の人々が瞠目するほどに成功いたしました。いや、むしろ成功しすぎると思えるくらいに成功したと思います。それはちょうど日露戦争の後に、漱石が『三四郎』を書いた日本に非常に似通っています。司馬遼太郎さんの言葉を使えば、「極東のこの小さきこの国」が世界の列強に加わり、世界の国々が驚きました。しかしそこから日本の国はどういう方向に向かっていったのかということを、漱石はすでに、日露戦争の後、『三四郎』やさまざまな小説を通じて書いていると思います。明治維新から150年近くが経とうとする今、漱石の「生まれ変わる」という言葉の意味を、今、被災地のこの熊本で、我々はもう一度かみしめる必要があるのではないかと思います。

漱石は伊豆・修善寺の大患で、大量の吐血をし、担架というよりは戸板みたいなところに乗せられて東京まで運ばれました。漱石は『思い出す事など』*15のなかで、「二度の葬式をあげたようなもんだ」と述懐しております。これは明らかに「二度生まれ」ということだと思います。漱石はアメリカのプラグマティストの祖であるウイリアム・ジェームズ*16に最も私淑し、ウイリアム・ジェームズの心理学については(著書の)翻訳もしていると思います。彼の著作に、岩波文庫にも訳されている「宗教的経験の諸相」があります。その中で彼は「宗教的経験とは何か。それは生まれ変わりだ」と書いています。twice born、人間は生まれ変われる。その生まれ変わる体験というものが宗教的体験だというのです。

160429boranisihara2.jpgもちろん漱石は、特定の宗派、宗門に帰依していたわけではありません。しかし彼は二度の葬式と言った時、明らかに「二度生まれ」を頭の中に描いていたと思います。東日本大震災があった時も、多くの方々が「これで生まれ変わらなければいけない」とおっしゃっていました。また、福島の飯館村や浪江町やいろんなところでも、私が非常に感銘を受けたある神社の神主さんも、「生まれ変わろう」という言葉を何度も何度もおっしゃっていました。

熊本は生まれ変わると思います。「二度生まれ」の経験を今回の震災で多分、経験することになると思います。そういう点で漱石は本当に我々にとって奥の深い言葉を、熊本の今を生きている人々にとって、とてもとても大切な言葉を残している、と私はあえて解釈したいと思います。

漱石は病が最後の段階に来たときに、さまざまなお見舞い状に、「病気は継続中です。戦争も継続中です」と(書いています)。第一次世界大戦は継続中でした。同時に自分の病気も継続中でした。熊本の震災も決して終わっておりません。今も継続中です。これからまた、どのような揺れや地震が起きるか、多くの熊本県民はしびれるような不安の中で、これからも復興に向けて歩んでいかなければなりません。

漱石の「病気は継続中である」という言葉は、私はとてもとても深い意味があると思います。自分の人生もいま、継続中だということです。自分が最後の息がこときれるその瞬間まで、人間は生きていかなければいけない。人生は継続中、病気も継続中である。

「継続中」という言葉の中に漱石は、結局、答えのない途上を生きることが人生なんだという意味を込めています。私はそれを「青春の文学」と言いたいと思います。途上を生きるということは答えがない。我々には行けども行けども答えがない。なぜこの世の中に生まれ、何故にこのような風体で、こういう国で、こんな風にして、こんな職業で生きているのか。これは答えがありません。しかし人生は継続中なのです。

今回の熊本の地震は継続中です。しかし、人々は生きています。人生もまた継続中であるということは我々が途上にあるということであり,途上にあるということは最終的に達観できる答えはないということであり、したがってこれを言葉の真の意味で私は「青春の文学」と言いたいと思います。漱石の文学は大人の文学ですが、大人の文学にして青春の文学であるのは恐らくは漱石以外にないのではないかと思います。

◆身の丈にあった「普通」の大切さ

sousekikao-2.jpg漱石は『倫敦塔』のなかで「生まれてきた以上は生き迷わねばならぬ。あえて死を恐れるとは言わず、ただ生きねばならぬ。すべての人は生きねばならぬ」というように述べております。生まれてきた以上生きよう、という、このあまりにも単純な言葉を、この大作家が『倫敦塔』という初期の本格的な作品の中に残しているのです。

漱石は最後の随筆『硝子戸の中』*17で、ある女性、これもまた何の因果か、熊本の御船町出身の吉永秀という女性なのですが、漱石は4度か5度「死にたい」というこの女性の人生相談に応じております。漱石は『硝子戸の中』でこのように述べています。

「私は彼女に向かって、全てを癒す時の流れに従って下れと云った」。どんなに悲しいこと、どんなに苦しいことがあっても時が癒すというのは、ある意味言い古された言葉かもしれません。でも、もっと大切なことは「時の流れに従って下れ」ということです。決して時の流れに抗うな。時の流れに従って下れ、と。これを「下山の思想」*18というかどうかは別としても、時の流れに従って「下る」のです。

我々の世代の青春期、西暦でいえば1960年代から70年代初頭の日本の毎年の名目成長率は、だいたい10%を超えていました。中国以上の高度経済成長を日本は達成したわけです。これは世界のミラクル(奇跡)といっても過言ではありません。日本は豊かな国になりました。多くの人々が中流になりました。先ほど蒲島県知事は何が大切かといえば、普通の生活であるとおっしゃいましたが、まさしく普通の生活を多くの国民ができるようになったといえます。中流であるということ、日本人としてこの日本列島の中に生き、そしてみんなが中流の生活ができる。日本は世界の国々にとって、垂涎の的のような国になったということです。

『坂の上の雲』*19を目指して、最終的にはあの昭和20年を迎えたとすると、日本の国は戦後70年、(再び)坂の上の雲をめざし、世界の経済大国になりました。そして押しも押されぬ成熟した社会へと向かっていこうとするその矢先に、5年前、そして21年前に大きな震災に出くわしたわけです。先ほど蒲島県知事は「普通の生活の尊さというものをしみじみとわかるようになった」とおっしゃいました。その通りだと思います。普通の生活、漱石は身の丈で生きることを多分、最も望んだ人だろうと思います。

buleseat-kuusatu_R.jpgどんなにドーピングをして走るようなことをやったとしても、名目成長率2%いくかどうかというのが今の日本の国の実態だと思います。それでも日本の国は、成熟した社会へと移り変わっていくことはきっとできると思います。

ぎらぎらとぎらついて、もう一度、富国強兵ならぬ富国強国を目指すよりは、身の丈にふさわしい、そして人々が普通であることにしみじみと幸せを見出すようなそういう社会、それがアジアの国々のどこの国ひとつとして達成できなかった未来の日本の社会の姿かも知れません。漱石が目指した国の姿はそこにあると思います。漱石は最後にその女性にこう言いました。「死なずに生きてらっしゃい」と。これは今の熊本県民にとっては大きな大きな慰めだと思います。

私はあえて「がんばろう」という言葉は言いません。漱石だったら「生きてらっしゃい」「生きていきましょう」というふうに、きっと言うと思います。それは、普通の生活こそが我々にとってはとても、とても大切なことであるということです。

最後ですけども、日本とそして周りの国を取り巻く環境は、必ずしもいいとは言えません。しかし、漱石に私淑したのは、まさしくアジアの国々の人々であったということも、みなさんにぜひともお伝えしたいと思います。文学における孫文といってもいいような魯迅*20は、まさしく漱石に私淑して文学者になったといっても過言ではありません。『狂人日記』や『阿Q正伝』を読めば、どんなに漱石の小説を読み込み、漱石の手法を使って、中国が抱えている問題を見事にえぐり出しました。中国の文学のいわば父とも言ってもいい魯迅は、まさしくある意味において漱石の弟子と言っても過言ではないと思います。千駄木の漱石が住んでいた家に、魯迅も一時期住んだ経験があります。また、韓国を代表する著名な作家に李光洙(イ・グァンス)*21という人がいます。残念なことに朝鮮戦争で亡くなりましたが、間違いなくこの人物は韓国近代文学の祖と言っても過言ではありません。李光洙が最も私淑していた人も、漱石と言って過言ではありません。

漱石は間違いなく日本の宝であり、アジアの宝であり、奇跡だと思います。韓国は今やっと、漱石文学全集を韓国語版で出すようになりました。私は今、最後の巻の『明暗』*22のあとがきを書いている最中ですが、全集を持つ国は日本以外に、隣の国になりました。きっと私は中国で漱石の全集は必ずや訳される日が来ると思います。また、インドネシアで、ベトナムで、アジアの中で、近代を迎えた国々は、必ず漱石的なテーマに突き当たることと思います。

その意味においてこの120年の来熊、120年にこういう形で漱石をめぐるオープニングができるということは、これは必ずやまた、熊本や日本だけではなく、近隣のアジアの国々にとっても大きな大きな僥倖だと思いますし、これを出発点として私たちは漱石が目指したものを、我々の一人ひとりの生活の場で実現していければいいのではないかと思います。

私のつたない話ですけれども、ご清聴ありがとうございました。

*1 『三四郎(さんしろう)』 1908年(明治41年)、朝日新聞に連載された長編小説。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。九州から上京した小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様を描く。

*2 『草枕(くさまくら)』 1906年(明治39年)に『新小説』に発表。玉名市小天温泉を舞台に、画工と逗留先の女性の交流を通じて「非人情」の世界を描いた作品。「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という冒頭部分が有名。

*3 『倫敦塔(ろんどんとう)』 1905年(明治38年)『帝国文学』に発表された短編。漱石がイギリス留学中に見物したロンドン塔の感想をもとにした。

*4 『趣味の遺伝(しゅみのいでん)』 1906年(明治39年)、『帝国文学』1月号所収の短編。日露戦争の出征兵士を題材に、戦争のむなしさを描く。

*5『方丈記(ほうじょうき)』 鴨長明(かものちょうめい、1155~1216)による鎌倉時代の随筆。この世の無常を記した「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の書き出しで有名。

*6『虞美人草(ぐびじんそう)』 1907年(明治40年)朝日新聞に連載された職業作家・漱石の初の小説。許婚(いいなづけ)関係の二組の若い男女とその親族の駆け引きを、上野で開催された東京勧業博覧会などを絡めて描いた。題名は漱石が縁日でたまたま見た鉢植えから取ったといわれている。

*7 不幸な生い立ち 漱石(金之助)は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出され、短期間で連れ戻された後も1歳で内藤新宿の名主・塩原昌之助の養子となった。塩原夫婦が離婚し、夏目家に戻ったのは9歳の時だった。

*8 前田卓(まえだ つな) 熊本藩細川家に仕え、明治維新後は自由民権運動の中心人物となった前田案山子の次女。孫文ら中国の革命家が日本で作った「中国革命同盟会」を支援した。案山子は温泉付きの別邸を旅館とし、卓が仕切っていた。熊本時代の漱石は同僚と何度かこの旅館を訪れて卓と交流し、『草枕』のモデルとした。写真は玉名市草枕交流館提供。

*9 宮崎滔天(みやざき とうてん) 孫文を支援し、日本から辛亥革命を支えた革命家。浪曲師としての顔も持つ。写真は国立国会図書館蔵。妻の槌は前田卓の妹で、「白蓮事件」を起こした宮崎龍介の母。

*10 『二百十日(にひゃくとおか)』1906年(明治39年)、雑誌『中央公論』に発表された中編。同僚との阿蘇登山の実体験をベースに、華族や金持ちに対する慷慨が語られる。

*11 『坑夫(こうふ)』1908年(明治41年)から朝日新聞掲載された。裕福な家を飛び出した青年が自暴自棄になって坑夫として働くことを決意する過程をルポルタージュ的に描く。

*12 1997年の大変な事態 1997年(平成8年)11月から翌年暮れにかけて、北海道拓殖銀行、山一証券、日本長期信用銀行などの大手金融機関が相次いで破たんした事態。日本の金融機関全体の信用不安に発展し、97年金融危機と呼ばれる。

*13 ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)フランスで活躍した哲学者。『人間不平等起源論』では、自然状態では人間に憐れみの情(憐憫)が備わっており、これが各人の自己愛を抑制すると説いた。

*14 『こゝろ』 1914年(大正3年)に朝日新聞に連載された長編小説。「先生」と「私」の交流を通じて人間のエゴイズムと倫理観を問う作品。

*15 『思い出す事など』 1911年(明治44年)に書かれた随筆。前年1910年に療養先の修善寺で大吐血をして人事不省に陥ったことを詳しく書いている。

*16 ウイリアム・ジェームズ(1842〜191)アメリカの哲学者、心理学者。物事の真理は実際の経験のみで判断でき、効果のあるものは真理であるとする、プラグマティズム(実用主義)を確立した。

*17 『硝子戸の中』 1915年(大正4年)に朝日新聞に掲載された漱石最後の随筆。硝子戸で世間と仕切られた書斎で起きた身辺の人々のことや若き日の思い出をつづっている。

*18 下山の思想』 2011年に発売された五木寛之の著作。日本の経済・社会は登頂を終え、21世紀から下山の時期に入ったという認識のもと、成長一辺倒からの決別を説く。

*19 『坂の上の雲』 司馬遼太郎の代表的な長編歴史小説。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)にかけて産経新聞に連載。明治前期の日本が日清・日露戦争に勝利し、列強の仲間入りをした時代を、坂の上の雲を目指す姿と重ね、明治の楽観主義の世相を描く。

*20 魯迅(ろじん、1881〜1936)中国の小説家、翻訳家、思想家。礼節を説く「儒教」が裏では生命の抑圧者として「人を食」ってきたことを指摘した。

*21 李光洙(イ・グァンス、1892〜1950)は朝鮮の文学者、思想家。民族主義的な立場から儒教を批判する小説を著し、朝鮮民族の実力養成を説いた。号は「春園」(チュンウォン)。

*22『明暗(めいあん)』朝日新聞に1916年(大正5年)に連載された長編小説。漱石の死によって188回で未完のまま終了した。ある夫婦の関係を通して人間の利己主義を描いている。

*夏目漱石の写真は国立国会図書館蔵

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姜 尚中氏 (カン・サンジュン) 1950年、熊本県熊本市に生まれる。国際基督教大学準教授、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授、聖学院大学学長などを経て、現在東京大学名誉教授。2016年1月より熊本県立劇場館長兼理事長に就任。

専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍。主な著書に『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『ナショナリズム』など。小説『母-オモニ-』、『心』を刊行。最新刊は『漱石のことば』『姜尚中と読む 夏目漱石』。

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