熊本地震 連載・データ集

人の和 復興の輪 熊本地震1年「和のこころを語る」    2017年3月14日

WA会場 風景.jpg熊本地震が発生してから1年になるのを前に、シンポジウム「和のこころを語る―復興への道しるべ―」(読売新聞社、法隆寺、KKT主催)が、熊本市中央区のくまもと県民交流館パレアで開かれました。聖徳太子の1400年御遠忌(ごおんき)となる2021年に向け、法隆寺(奈良県斑鳩町)と読売新聞社が取り組む「聖徳太子1400年の祈り」の一環で、約250人が参加。大野玄妙・法隆寺管長、俳優の紺野美沙子さん、熊本県出身の俳人・長谷川櫂(かい)さんが、聖徳太子が唱えた「和の精神」を踏まえて、地震からの復興をテーマに語り合いました。2017年3月31日読売新聞夕刊(大阪本社版)に掲載されたフォーラムの特集記事を、読売新聞社の許諾を得て掲載します。

TEIDAN.jpgwa-AA.jpg 司会 まず、熊本への思いから聞かせてください。

 長谷川 地震直後、テレビを通じて見た被災者の顔に、力強さを感じました。地震で大変なはずなのに、「何があっても、どうにかやっていく」みたいなところがあって、〈熊本人〉としてとても心強かった。

 「君たちが造る故郷の青山河」。昨年、私が地震に寄せて作った句です。故郷の子どもたちが今、地震とどう向き合っているのかと思いを巡らせ、「君たちが、熊本の大地を新たに造らなければいけない」というメッセージを込めました。

 紺野 熊本に対して、私たちができることは、まず何気ない触れあいではないでしょうか。特別なことをするのではなく、「くまモンに会いにきた」でもいいんじゃないかと思います。東日本大震災(2011年)では、被災地を朗読公演で回りました。宮城県の仮設住宅ではおばちゃんらがサンマのつみれ汁を振る舞ってくださった。「励ましに来たのにごちそうになって申し訳ない」と言ったら、「手を動かすと余計なことを考えなくていいから気にしないで」って。よもやま話、世間話が大事だなとつくづく感じました。

 大野 新潟県中越地震(2004年)の被災地、山古志村(現長岡市)を何度か訪問しましたが、その経験が役に立つかもしれません。地震から数年たつと、若者は復興に意気込んでいても、お年寄りは「生きている間には戻れまい」と自暴自棄になってしまう。何と言えば良いのか悩みましたが、「皆さんの経験を都会から来る人に話してください」とお願いしました。その後、訪れると、お年寄りの顔が明るくなっていました。家の前で茶や漬物を勧めながら訪ねてきた人に体験談を一生懸命話している。それを見てこちらが元気をもらいました。

 司会 どのように復興を進めるべきでしょうか。

 大野 仏教には「仏法僧(ぶっぽうそう)」という「三宝」の教えがあります。「仏」は目標であり理想。そこに至る方法や設計図を示すのが経典「法」で、それを目指して共に行動する仲間が「僧」です。目標も持てず、計画も立たず、家族も近所の人も散り散りで生活している。このダメージからどう生活を再建するのか。最初に理想や設計図を説いても受け入れられないでしょう。まず仲間を構築するしかない。被災者らが話し合い、自分たちで計画を決めていけば、今度は「学校や公民館を造ろう」と目標が持てる。復興は「仏法僧」ではなくて、反対に「僧法仏」の順で進むと思います。

 紺野 仲間は大切ですよね。宮城県では高齢の方に「シルバー川柳」が人気だそうです。ご家族を震災で亡くした方々が川柳を通じて悲しみの底から立ち直れたと聞きました。川柳や俳句などで言葉を紡ぐのもいいことなんでしょうか。

 長谷川 言葉にするということは、心の叫びなんです。自分の言いたいことを言葉にして表すことは、すごく大事なことです。それが人と人とのつながりになって広がる働きもあります。復興について言えば、元通りの姿に戻すだけでは意味がない。例えば熊本城なら、築城当時のように木造で作り直すなど、地震前の熊本を超える街を目指していってほしいですね。

 司会 被災地では互いが思いやり、助け合いました。「和」の精神が実践されたように思います。

 紺野 国連開発計画(UNDP)親善大使として貧困撲滅のため途上国を回っていますが、先進国との圧倒的な格差を解消するために自分に何ができるかと言えば、なかなか答えは出ません。ただ言えるのは、自分が笑顔でいれば、周りの家族や友人に笑顔のおすそ分けができるということ。周りに笑顔を増やせば、いずれは大きな世界の和につながるはずと信じています。

 長谷川 誰かがどこかで困っていたら助けてあげる。そういう余裕が社会に必要だと感じます。そんな助け合うシステムが、熊本地震でも機能しました。今まで眠っていた近所との付き合いが地震を機に目覚めたんですね。それも和の心ではないでしょうか。

 大野 思いやりや助け合いの心は、私たちが先祖から受け継いだ日本人の精神だと思います。だから震災が起きれば自然にスイッチが入って、色々な支援をする人たちが出てくる。いわば仏教の「菩薩(ぼさつ)の行」。ですが、最近の日本人は豊かさを追求し、そういう心を失いかけているようにも映ります。いま一度、太子の「和」を見つめ直す機会だと思います。

Aわーろうどく.jpgwa紺野美沙子さん朗読P.jpg鼎談に続き、紺野さんが熊本市出身の絵本作家・葉祥明(ようしょうめい)さんの「ASO~阿蘇、ぼくの心のふるさと~」(佼成出版社)を朗読した=写真=。山の緑や空の青が印象的な絵本の各ページが会場のスクリーンに映し出され、参加者が静かに聴き入った。

紺野さんは2010年から「紺野美沙子の朗読座」を主宰、東日本大震災の被災地でも披露してきた。一方、葉さんは国内外の児童図書コンクールで数々の受賞歴を持つ作家で、「ASO」は子どもの頃から眺めてきた阿蘇山の美しさを、自身の原風景として描いた2005年の作品だ。

「おかにのぼって、耳をすませば、小鳥がさえずり、草がそよぎ、虫の声がきこえてくる。なんてしずかな、なんて平和な世界だろう!」と、紺野さんが気持ちを込めて朗読し終えると、会場から拍手が起こった。

15.jpg奈良県も情報発信

聖徳太子1400年御遠忌に向けて、奈良県も情報発信に努めています。

2016年7月には奈良市や斑鳩町など県内20市町村とともに「聖徳太子プロジェクト推進協議会」を設立。太子をテーマとしたシンポジウムや連続講座を開いたほか、人物像、ゆかりのスポットをまとめたパンフレットを作りました。

今後、他府県との連携も検討しており、担当者は「聖徳太子は政治、宗教、文化と幅広い分野で日本の基盤を築いたスーパースター。多くの人にファンになってもらうような仕掛けをしたい」と話しています。

15.jpg全半壊住宅の解体完了は1年後

熊本県内では今も随所に被害の爪痕が残っており、復興はまだ道半ばです。地震では県内30市町村で約4万2000棟の住宅が全半壊し、うち約3万3000棟が公費解体されると想定されいます。しかし、だが解体済みの住宅は2月末にようやく5割に達し、完了は来年3月までずれ込む見通しです。

南阿蘇村では、大規模な土砂崩れで国道57号やJR豊肥線などの交通網が寸断されたまま、今も復旧のめどが立たず、観光などへの影響の長期化が心配されます。熊本地震では、地震の影響に伴う「震災関連死」も含め222人(2017年3月30日現在、うち3人は大分県)が亡くなっているが、関連死は今でも各自治体で審査が続いており、今後も増えるおそれがあります。

熊本県は2017年4月7~23日を「復興祈念ウィーク」と位置づけ、追悼式典やシンポジウムなどを予定。「いただいた支援への感謝の気持ちと復興する熊本の姿を広く発信したい」(蒲島郁夫知事)としています。

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聖徳太子1400年の祈りキャンペーンロゴ.jpgのサムネイル画像【主催】法隆寺、読売新聞社 KKTくまもと県民テレビ

【後援】奈良県

【協賛】岩谷産業、ビーバンジョア

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<KKT動画ニュース>

県が地震発生から3か月の対応を検証した報告書        2017年3月31日

熊本地震からおおむね3か月間の行政の対応に関する県の検証報告書がまとまりました。市町村や関係機関、県民へのアンケートなどをもとにまとめたもので、検証結果を踏まえて地域防災計画を改めることにしています。

熊本地震で政府は、被災地の自治体からの要請を待たずに支援物資を送る「プッシュ型支援」を初めて本格的に実施しましたが、到着時間などの連絡がうまくいかなかったり、物資集積拠点を確保していなかった市町村があったりして、被災地に届くのが遅れたことが指摘されています。報告書では改善策として情報通信技術(ICT)の活用などを求めました。避難所の運営については、運営に職員を取られて本来の業務に支障が生じたこと、23の市町村で運営マニュアルが未策定だったこと、車中泊などの把握が困難だったことなどをあげ、地域住民の自主防災組織などとの連携強化を求めています。

報告書概要は以下の通り(図表をクリックすると大きくなります)。検証報告書の全文は yubiyubi.png 県のホームページ から

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熊本復興へ 経済に活力  金融新時代フォーラムin九州    2017年2月28日          

金融特面・会場全景.jpg熊本地震からの復興を金融機関の視点で考える「金融新時代フォーラム in 九州」(読売新聞西部本社主催、KKTなど後援)が、熊本市西区のホテルニューオータニ熊本で開かれました。テーマは「金融界は震災復興にどう向き合ったか~地域と金融機関の未来を探る」。金融庁監督局長の遠藤俊英氏、東日本大震災を経験した仙台市の七十七銀行頭取の氏家照彦氏がそれぞれ基調講演した後、肥後銀行頭取の甲斐隆博氏、地域経済活性化支援機構専務の林謙治氏を交えたパネル討論が行われました。2017年3月22日付読売新聞西部本社版に掲載されたフォーラムの特集記事を、読売新聞社の許諾を得て掲載します。

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 創業者融資 積極的に 金融庁監督局長 遠藤 俊英氏 

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 15.jpgガイドライン

地震では発生直後、復旧、本格的な復興の3段階に分けた行政対応がある。熊本でも発生直後は金融機関に対し、預金証書や通帳を紛失しても、預金者と確認すれば払い戻しに応じることなど様々な緊急的措置をお願いした。今は復旧の過程なので、事業再生支援ファンドの活用促進とか、自然災害による被災者の債務整理に関するガイドライン活用といった段階と思う。

このガイドラインは非常に重要で、住宅などの二重ローン問題に対応している。東日本大震災での経験を踏まえて策定され、熊本地震が本格的に適用する最初の災害になった。

メリットは三つある。被災者の生活再建支援金に加え、財産の一部をローン返済にあてずに手元に残せる。破産などの手続きと異なり、債務整理をしたことが個人信用情報として登録されないため、新たな借り入れに影響しない。国の補助により、弁護士ら「登録支援専門家」による手続き支援を無料で受けられる。

ただ、多くの住宅が被災している中で、1月末現在で債務整理が成立したのは8件、手続き中は451件。利用によって状況を打開してもらえる方は多いと思っている。引き続き周知徹底を図りたい。

 15.jpg企業と対話を

金融庁はここ数年、地域金融機関に(融資などの)金融仲介機能をより発揮してもらうため、様々な施策を行っている。地域は今、人口減少や高齢化など構造的な問題に直面している。金融機関は地域経済を下支えし、生産性を上げるために大きな役割を担っている。顧客とともに成長する、持続可能で多様なビジネスモデルを確立してほしい。

そのため、①事業性評価②生産性向上への貢献③顧客の立場に立った資産運用手段の提供――を中心課題に据えた。前提として、当局による情報発信と、金融機関による情報公開が大切になる。金融機関は地域経済にどう貢献し、どんな付加価値をつけようとしているのか、自ら情報公開する。そのために展開する取り組みがうまくいっているかどうか、金融庁と金融機関が指標(ベンチマーク)に基づいて検証・対話し、議論を継続していく。

事業性評価とは、金融機関が担保・保証に過度に依存せず、企業の価値や将来性について、企業との対話を通じて理解し、融資することだ。これには、営業現場の第一線が頭取のコミットメント(公約)を実現するために動くかどうかが重要になる。

 15.jpg担保依存排除

昨年10月につくった金融行政方針では、(担保・保証に依存する)「日本型金融排除」の実態把握を挙げた。担保・保証はなくても事業に将来性がある融資先、信用力は高くないが、地域になくてはならない融資先に、融資がうまくなされていないのではないか。この仮説に基づき、今年はいろいろ検証しようと思う。

検証方法は考えているところだ。熊本の創造的復興にも関連するが、創業者融資がどのくらい行われているかが、一つの指標になるのではないか。高い技術を持つ新しいベンチャー企業だけでなく、父親と違うことに挑戦しようとする2代目の若い社長も立派な創業者。担保はあまりないと思うが、そうした方々に対し、金融機関が「リスクをとってチャレンジしてみよう」と考えるかどうかだ。

信用金庫や信用組合から話を聞くと、コミュニティーで信頼されている人は、融資にも真摯に対応してくれるという。コミュニティー内の創業者の位置づけは、担保に依存しない融資を展開する際に非常に大きな手段になると確信した。

 コンサル機能を発揮 七十七銀行頭取 氏家 照彦氏 

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 15.jpg公的資金活用

当行は仙台市に本店を置き、東北を営業基盤にしている。東日本大震災は宮城、岩手、福島各県の沿岸部を中心に惨禍をもたらした。宮城県の被害額は9・2兆円とされ、人的被害、建物被害は全体の約半分か、それ以上が集中した。

当行も津波で19店が浸水し、宮城県南三陸町の店舗は流失。行員や家族にも多数の死亡・行方不明者が出た。

未曽有の大災害を受け、経験のない対応を迫られた。震災直後は現金の払い出しの要望が多数発生した。通帳もキャッシュカードもない方でも、会話で本人と推定できれば、母印だけで10万円を限度に現金を支払った。件数は約3万9000件、31億円だったが、最終的に損失が確定したのは2件、19万5000円だった。

地震の被害規模や、当行の経営が継続できるかも正直分からない状況だった。ただちに公的資金の活用を考え、金融庁に相談した。金融機能強化法の震災特例が速やかにつくられ、劣後ローンで公的資金200億円を導入した。地域金融機関が国と一体となって復興を推進するという、メッセージ性のあるものになった。

昨年9月までの5年半で約2万3000件、6000億円の震災関連貸し出しを行った。事業性資金は震災直後に運転資金が急増し、復旧の進展とともに落ち着いた。個人は住宅ローンの占める割合が高く、ピークは震災発生の2~3年後だった。熊本でも住宅再建への対応が今後本格化するだろう。

企業の設備復旧にはグループ補助金が大きく貢献した。中小企業がグループをつくって復旧・復興の事業費を申請すれば、国と県が事業費の4分の3を補助する。宮城県では4000事業者に対し、補助金総額は約2500億円だった。事業者を束ねることで生産性が向上し、競争力も高まった。

復興支援ファンドにも54億円を出資した。

自宅が被災した個人は、既存の住宅ローンの返済と、新たな住宅取得資金の調達という二重ローンの問題を抱える。これには既存債務の軽減が可能な個人版私的整理のガイドラインを活用し、再建を支援した。

 15.jpg商談会50回超

コンサルティング機能の発揮についても申し上げたい。企業は震災で失った販路の開拓に直面する。当行は販路獲得に向けた商談会を国内外で50回以上開いた。

カキの養殖が主産業だった石巻市桃浦地区は、震災で養殖設備を失い、約150人の集落が消滅の危機にあった。高齢化と人口流出でカキの殻をむく「むき子」の確保が難しくなった。

復興庁の水産業の特区制度を使い、漁業者や支援企業を橋渡しして合同会社を設立。むき子に頼らない生産体制を確立し、生食用の高付加価値商品の販路拡大を目指す仕組みをつくった。地域産業の活性化、質の高い雇用創出に貢献した。

 15.jpg特色ある街を

震災前から人口減少や少子高齢化が進んでいたが、本来なら10年、20年かけて進む状況が震災で一気に現実となった。被災地は復興と合わせて人口減少と向き合いながら、自然との共存、地域資源の活用を通じ、特色ある街づくりを進めなければならない。

町の8割が被災した女川町はあえて防潮堤を造らず、防災に配慮しながら海と共存共栄する街づくりをしている。沿岸部では漁業、水産加工業が再開した。海産物市場のイベントで交流人口が拡大し、にぎわいを創出して注目されている。

金融機関は国や自治体と一体となり、地域経済の活性化を牽引しなければならない。創造的な復興を目指し、今後も地域とともに生きていきたい。

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パネル討論の前半では、肥後銀行頭取の甲斐隆博氏、地域経済活性化支援機構専務の林謙治氏が、それぞれ熊本地震後の取り組みを紹介。その後、東日本大震災の経験を踏まえながら、熊本で被災した中小企業や住民への支援策について、パネリストの4氏が議論しました。後半では、人口減少が進む中、単なる復旧ではなく、将来にわたって地域の発展を可能にする「創造的復興」を実現するため、金融機関がどのような役割を担うべきか、意見交換しました。(コーディネーター 牧野田亨・読売新聞西部本社経済部長)

 ローン 選択肢増やす 肥後銀行頭取 甲斐 隆博氏

 

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牧野田 熊本地震からの復旧、復興への取り組みは。

甲斐 熊本地震は、新しい本店ビルを建てて1年も経たない段階で経験した。免震装置のおかげで、地盤の揺れの大きさに対し、ビル内の揺れは9分の1程度に軽減された。ビルが正常だったことで、行員の安否確認や救援物資の支給対応が極めてスムーズにできた。

問題はコンピューターセンターだった。ビルが免震ではなく、耐震だったため、7階に設置された変圧器が使えなくなった。同型の変圧器を探したら、九州で唯一、鹿児島空港ビルディング(鹿児島県霧島市)にあった。すぐに取りに行って対応し、何とか(本震翌々日の)月曜日から全店でATM(現金自動預け払い機)を稼働できた。

復興支援では、地域経済活性化支援機構や日本政策投資銀行などの協力を得て、法人向けに4種類で総額317億円のファンドを用意した。個人向けは少し遅れているが、(親子などで支払う)親子リレー住宅ローンと、(持ち家を担保にする)リバースモーゲージを4月から販売する予定。二重ローンの救済支援の一助になれば、と考えている。

当行には、各事業者が持つ口座への入金額の増減を分析するシステムがある。それを見ると、地域別では阿蘇のダメージが大きく、業種別では宿泊業の落ち込みが激しい。(九州旅行の割引キャンペーンの)九州ふっこう割が昨年末で終了したことから今後の動向が心配だ。(資金繰りの)つなぎ融資が必要との問題意識を持っている。

今後の創造的復興では、街づくりが欠かせない。シンボルとなるのが、2019年の熊本城天守閣の再建と、2022年にコンセッション(民営化)方式で予定される熊本空港ターミナルビルの国内、国際両線の一体化だ。我々は、できることを着実に行っていくことが重要だ。

ファンド 再建に投資 地域経済活性化支援機構専務 林 謙治氏

金融林.jpg 牧野田 地域経済活性化支援機構の現状は。

  一般的に官民ファンドといわれる政府系金融機関で、約250人の専門家が各地で経済活性化のお手伝いをしている。具体的には、全国で35のファンドを運営し、創業期から成長期、成熟期などそれぞれのステージの企業に対して呼び水としての投融資による資金供給をしている。分野は観光やヘルスケア、ものづくりなどだ。

個別事業者の再生も支援し、全国で年間20件程度を手がけている。熊本県では昨年、阿蘇熊牧場(阿蘇市)の再生支援を決定した。熊本バス(熊本市)の再生も手伝った。

熊本地震を受けて肥後銀行と協力し、熊本の金融機関に出資してもらった事業再生ファンド(50億円)と、九州の全地銀の出資で復興支援ファンド(116億円)を創設した。

事業再生ファンドでは、被災した事業者の二重ローン対策として、債権を買い取って今後の成長を支援する。復興支援ファンドも、いかに復興に向けた投資ができるかを考えていく。

地震後、熊本市に事務所を開設し、ようやく半年が経過した。現在は14人程度だが、早急に30人程度にまで拡大したい。

事業継続へ3つの「助」

 15.jpgグループ補助金

 牧野田 グループ補助金をどうみるか。

 甲斐 とても使い勝手の良い制度だ。熊本地震の本震後から5月下旬頃まで、被災した事業者からは「事業を継続するのは難しい」という声が聞こえていた。ところが、グループ補助金が知れ渡った6月以降はそういう声を聞かなくなった。「共助」でグループ補助金を申請し、「自助」によって復興計画を立て、「公助」で資金的に援助をする仕組みは実に有効だ。

 牧野田 東日本大震災の被災地では先行して導入された。見えてきた課題は。

金融補助金.jpg 氏家 効果的な施策であり、感謝したい。ただ、実際に制度が機能するまで時間がかかったように感じた。被災した事業者は多かったが、津波で(事業所などが)流されて大変な状況だったこともある。 設備の復旧により生産水準を元に戻すことができても、販路を断たれたことで(復旧した設備を)生かし切れず、企業は売り上げが縮小した。加えて人件費が上がっており、水産加工業など業種によっては、人手を集められないという問題も起きている。

 牧野田 グループ補助金を申請できていない小規模事業者への対応は。

 氏家 私どもがお付き合いしているのは、中小企業といいながら事業規模があるところ。街のにぎわいを支える小さなお店、八百屋や理髪店などのクラスの実態がどうなっているのか、整理された話は聞いたことがない。何か手を打てないかと思う。

  熊本では、赤紙を貼ってある(危険)建物では事業をしていない。金融機関と一緒にヒアリングすると、「事業を続けたいがお金がない」という人もいる。これはファンドで債権を買い取るなどの対応ができる。信用金庫や信用組合にも小規模事業者に事業意欲を確認してもらい、一緒に対応を進めたい。

債権放棄 県民のため

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 牧野田 被災住宅の解体が本格化するにつれ、二重ローン問題が浮上してくる。金融機関としては債権放棄という痛みも伴うが。

 氏家 東日本大震災では、私的整理のガイドラインがつくられた後も、なかなか進まないという批判があった。相談を受ける弁護士の数が圧倒的に足りなかった。仙台市にはたくさんいるが、気仙沼市や女川町などはとても少ない。弁護士を増やす仕組みにしてほしい。弁護士に支払われる手数料も意外と少額だ。もっと十分に仕事ができるインセンティブ(動機付け)も必要だろう。金融機関は確かに債権放棄を行うことになるが、我々はガイドラインの説明会を何度も開いた。

 甲斐 昨年4月から自然災害の被災者向けガイドライン(の適用)が始まり、熊本地震で本格的に適用された。当行は柔軟に運用する考えで、地震後に取引先などを訪問する中でパンフレットを配ったり、ダイレクトメールを送ったりした。県弁護士会にも声をかけ、ガイドラインの勉強会を地震直後から開いている。ただ、実際に手続きをされる方はまだ少ない。制度が十分に周知されていない現状も踏まえ、支店には再度、被害を受けた住宅などを回って確認するよう指示している。当行の基本姿勢としては、今後の県民の生活の安定に資するのであれば、ガイドライン適用はやむを得ない。

労働力 九州各地から

 15.jpg人手不足

金融図求人.jpg 牧野田 熊本県は有効求人倍率が1・5倍まで上昇した。宮城県も高い。

 氏家 代表例として水産加工業を挙げると、人手が足りなくて生産性が上がらないというのはよくある。建設関連で賃金水準が上がっており、水産加工業が同じコストで人を集めるのは難しい。水産加工は(宮城の)主力産業だが、避難先から戻らない方もいる。ただ、外国人労働者を研修生として受け入れるという明るい動きも出てきた。

 甲斐 人手不足は東日本大震災以降、やや恒常的に続いている。熊本地震が拍車をかける状態になるだろう。復興需要で九州各地から雇用を呼び込む構図になっている。高齢者雇用など様々な知恵が出されているが、人手不足感は否めない。

生活の質にもかかわる

 15.jpg地域密着

 牧野田 地震を機に顧客との対話に力を入れている。気付かされたことは。

 甲斐 従来の銀行は所得と資産、仕事と報酬など物質的な生活状態に関心があった。地震で気付かされたのは、持続可能性という観点から、生活の質にまで関わっていく必要があるということだ。健康やワーク・ライフ・バランス、教育など、政府が進める働き方改革にもつながる。この話を全管理職にした。対話の内容が、被災者により寄り添ったものになると思う。

 氏家 震災後、お客さまに足を運ぶ回数が倍以上になった。取引先がどうなっているのか、何をしなければいけないのか、現場が真剣に考えざるを得なかったのだと思う。問題はこれから。企業発展のお手伝いができるのが一番の喜びであり、事業性評価でそれを確かなものにしたい。

 遠藤 両頭取の話を聞いて改めて思うのは、地域金融機関の原点は何か、ということ。株式会社として、いかに収益を上げるかに意識が働きがちだが、金融庁が構築してもらいたいのは、地域経済とともに金融機関が繁栄するモデルであり、顧客とのつながりの中でウィンウィンの好循環をつくり出すことだ。顧客の話を聞き、行政や企業をサポートする機関などと連携し、地域経済を支えることがこれまで以上に求められる。

観光・農業 成長の両輪

 15.jpg創造的復興

金融特面・カット熊本城.jpg 牧野田 創造的復興には、企業や産業の生産性を高め、新たな企業を育てることが不可欠。熊本県は観光や農業を重視している。

 甲斐 地元として描ける成長戦略が観光と農業という認識は、県と共通だ。県全体として観光促進に取り組む枠組みが必要との問題意識から、県と肥後銀で(観光推進組織の)「くまもとDMC」を株式会社として設立した。利益を生み出す仕組みをつくり、利益を分配することで、全体のコーディネーターとして有効に機能すると思う。観光のマーケティングを情報技術(IT)でビッグデータ化し、情報を各地の観光事業者にフィードバックしていく仕組みを作る。そのソフトを売って収益を上げる。若手のIT部隊が組織され、非常に楽しみな事業体として期待している。

  我々はリスクマネーの供給をお手伝いし、人を派遣する役割も持つ。専門家が多数いて、全国各地で実績もある。くまもとDMCもお手伝いできる。創造的復興は稼げる地域づくりが基本だ。熊本には観光資源が多数ある。伝統的建造物のリノベーションでも、十分に稼げると思う。千葉県のファンドでは、古民家を再生して宿泊施設、カフェ、レストラン、ショップをつくり、町全体をホテルとみなす動きをしている。熊本でもやれる。農業では、益城町や県北で活用されていない農地を借り、ホウレンソウをハウス栽培する事業者に投資している。現在は年4回の収穫で十分稼げる。熊本の気候だと、うまくいけば6回収穫できる。こうした投資を広げていきたい。

 牧野田 九州の地方創生モデルになれる可能性も。

 甲斐 創造的復興の地方創生モデルは、地方も経済成長に取り組んでいこうということ。成長がもたらす自由と選択の可能性がなければ、創造的復興も地方創生もない。しかし、目利き力をつけたり、事業性を強化したりするのを待っていられず、現実にどう的確に対応するかが求められる。そのため、経営としてこれだけのリスクを取るということを、明確に現場に示していきたい。具体的には、格付けの低い相手にもこれぐらい融資量を伸ばしていいよ、というメッセージを経営として発している。専門的にはリスクアペタイトステートメントと言うが、これが現場の営業店長の頭に入りつつある。その累積が事業性評価や目利き力の強化となり、創造的復興、地方創生につながる。

 遠藤 金融機関は地域において最高の組織だと思う。お金がある。情報が集まる。地域で最も優秀な人材を持っている。その組織が地域を支えなければ、誰がやるのか。リスクアペタイトステートメントは、地域を支えるのに非常に重要。人材の意欲を引き出し、金融機関が中心となって創造的復興を進めてもらいたい。

  リスクを取ってもいいという許容範囲内の資本を入れていくことには大賛成だ。熊本では空港の問題もある。2022年に民営化されるが、(その受け皿として)地域連合を具現化できる。DMCなら全国ブランドの企業にも対抗できる。資金供給の場面では地域金融機関のお出ましになると思う。その知見やノウハウは我々が持っている。スマートコミュニティーと呼ばれる街づくりも、地域金融機関が音頭をとってやれば実現の可能性が高い。熊本でも震災前以上の活気がでるのではないかと思う。交通インフラをもっと整備できる部分がたくさんあるし、アイデアは豊富に出てくる。

事業再生モデル示す

 15.jpgあすに向けて

 牧野田 最後にひと言ずつお願いしたい。

 遠藤 創造的復興という言葉は、これからの熊本を考える上で重要なコンセプトだ。金融機関が前向きに力を尽くしていくためには、ビジネスモデルを変えていかなければならない。誤解を恐れずに言うと、預金を原資とした機関というより、金融機能付きのコンサルティング会社、シンクタンクといった姿だ。その地域にとって、「一大羅針盤」という役割を担ってもらいたい。熊本、あるいは九州、日本全体の地方創生モデルをつくってほしい。

 氏家 東日本大震災が発生し、苦労しながらいろいろな制度や仕組みが出来た。金融機能強化法の震災特例やグループ補助金、個人版私的整理ガイドラインなどだ。災害が起きた時点で、すでにこれらが用意されているというのは、ずいぶん状況が変わったと思う。ぜひ有効に活用し、熊本を復興していただきたい。東北の沿岸部は今、復興が真っ盛りだ。もっぱらハードだが、問題はそれが終わった時、にぎわいや潤いといった中身のある都市になっているか。つまりソフトは今からが勝負になる。1万人いた都市に6、7割しか人が戻らないという前提で街づくりをしなければならない。それを乗り越えて創造的な都市をつくるのは本当に大変だ。どういう発展の方法があるか、地域の方、事業者と一緒に考える。苦労は続くが、創造的な仕事をしたい。

 甲斐 熊本で事業を行い、熊本で生活している方々すべてが被災者だ。被災者が社会的役割に応じて被災者を支援している。そういう共助の構図が今、熊本にある。この構図を出来る限り長く維持し、熊本の風土として構造化していく努力を皆さんとやっていきたい。私ども地方銀行が何とか努力し、そうしたコーディネートの役割をやっていけるようになればと思っている。

  地域経済の活性化や、事業再生モデルを今後もつくっていく。地域金融機関と知見を共有し、地域に還元していく。この基本的な考え方で、これからもやっていきたい。

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* * *

 創造的復興の一助に 中井 一平・読売新聞西部本社社長 

金融特面・中井社長.jpg観測史上、初めて震度7を2回記録した熊本地震から10か月余りが経過しました。犠牲者の方々のご冥福を改めてお祈りいたします。

甚大な影響を及ぼした熊本地震ですが、幸いにも企業倒産は少なくすみました。金融機関による手厚い支援が件数の減少につながりました。そこで、金融機関の視点から復興を考えるフォーラムを企画しました。

熊本県が設けた有識者会議は、熊本地震の復興について「創造的復興」という基本理念を打ち出しました。本日のフォーラムが創造的復興の一助につながり、九州の持続的な成長のヒントになればと考えています。

最後に、開催にご支援いただいた企業、団体の皆さまに御礼申し上げます。

(読売新聞西部本社版2017年3月22日付朝刊特別面の特集記事を再録しました)

主催:読売新聞西部本社 後援:金融庁、九州経済連合会、九州商工会議所連合会、九州経済同友会、熊本県民テレビ 協賛:九州フィナンシャルグループ

基礎からわかる被災者の税金

 今年は確定申告をしよう

170216申告初日.jpgのサムネイル画像

今年の確定申告が始まりました。いつもの年ならサラリーマンで申告が必要なのは①年収が2000万円超の人②勤めている会社からの給料以外に、年間20万円を超える副収入があった人――などに限られています。しかし、県内では熊本地震で被害を受けた人たちで、税務署は例年以上の混雑になっています。益城町などで行われた税務署の事前相談会にも多くの人が訪れました。
これは、地震で被災した人の多くは、今年確定申告をすると、会社から天引きされて納めていた所得税が戻ってくる可能性があるからです。熊本国税局では、その数は10万人に及ぶのでは、と予測していますが、本当のところは個々の被害の状況などを申告してもらわなければわかりませんから、もっと多いかもしれません。ともかく、家などが被災した方は、今まで確定申告をしたことがない方も、今年は確定申告することをお勧めします。
税務署とはふだんあまり付き合いがなく、敷居が高いとお考えの方も多いでしょう。所得税を減免してもらおうと思ったのに、逆に細かい指摘をされて結局余計に税金を払えといわれたらどうしよう、などと尻込みしている方もいるかも知れません。
そんな方のために、「基礎からわかる被災者の税金」と題して熊本地震で被災した方に向けた確定申告の基礎知識を短期連載します。わかりやすく説明するつもりですが、仕組みはかなり複雑です。連載をお読みになった方も、必ず税務署の申告窓口でもう一度ご確認ください。

 15.jpg確定申告って何?

まず、これまでなじみがなかった方のために、確定申告と所得税の決め方について説明します。
確定申告とは、前年の1月1日から12月31日までの間に所得のあった人が、文字通りその所得の額を「確定」させるために税務署に「申告」する手続きをいいます。申告の結果、給料から天引き(源泉徴収といいます)されて納めた所得税や東日本大震災の復興に充てる復興特別所得税(以下、あわせて「所得税」と表記します)が少なすぎた場合は追加で税金を納め、多すぎた場合は納めすぎた税金が戻ってくる(還付といいます)ことになります。
所得税は年間の収入に応じて納めますが、収入の全額に課税されるわけではありません。さまざまな課税対象から外してよい経費が認められており、それを差し引いて(控除といいます)残った額に税金がかかるのです。図に示した通り、サラリーマンの場合、まず「年収」から背広代などサラリーマンが仕事をするうえで必要な経費(給与所得控除ともいいます)を差し引いた年間の「所得」を出し、そこからさらに既婚者が妻(夫)と暮らす費用である配偶者控除、子どもの養育費などを差し引く扶養控除、家族の医療費を差し引く医療費控除など、さまざまな種類の控除を差し引いて、課税対象となる所得(課税所得といいます)を出していきます。それぞれの控除はどの程度差し引いていいか、細かい決まりがあります。
しかし、多くのサラリーマンは、自分にいくらの必要経費が認められているのかもわからないのではないでしょうか。それでも毎年所得税が正しく納められているのは、ほとんどの社員が受ける控除については会社が計算し、「一人ひとりの税額はこのくらいになるだろう」と見込んで、毎月の給料やボーナスからあらかじめ天引きしているからです。会社は毎年年末になると、天引きした税金が正しいかどうか、改めて計算して個々の所得税額を足したり引いたりします。このことを「年末調整」といいます。

所得税の仕組み.jpg<図>年収から所得税額が決まるまで

会社は年末調整が終わった年明けに、社員に「源泉徴収票」を配ります。源泉徴収票は①昨年のあなたの収入はこれだけでした②そこからサラリーマンとして働くための必要経費を差し引いた所得(給与所得)はこれだけでした③さらにそこから主な控除を差し引いた課税所得はこれだけでした④したがって天引きしてきた所得税を調整して、あなたに代わってこれだけ所得税を納めました――と社員に通知するものです。所得は会社が申告し、税金も会社が納めているから、サラリーマンの多くは税務署に申告しなくても、きちんと税金が納められているのです。
しかし、会社は社員の収入や所得の額はわかっても、すべての支出までつかんではいません。医療費控除のように自分で計算し、税務署に申告しなければならない控除もあります。こうした支出を所得からさらに差し引き、課税所得を減らすには、自ら確定申告をしなければなりません。
熊本地震の被災者に対しては、地震で受けた損害額(損失額)や災害関連の支出を所得から差し引く「雑損控除」と、大きな被害を受けた人の所得税額を減らしたり免除したりする「災害減免法」という2つの仕組みがあります。詳しい仕組みは後で説明しますが、この被災者救済の仕組みは、いずれも確定申告をしないと受けられません。いくら被害が大きくても、確定申告をしないと、すでに天引きされている所得税は1円も戻ってこないのです。

事前相談会(熊本国税局①).jpg

 15.jpg知らずにあきらめたら損をする

上の写真は確定申告を前に、益城町で開かれた事前相談会の風景です。被災した多くの方が、確定申告をすれば所得税が戻ってくることは知っているのですが、相談会に出席した方の中には「面倒なわりに、いくらも戻ってこないだろう」と漠然と考えていた人や「損害額が大きすぎて、税金がゼロになっても焼け石に水だ」と思っていた人もいたようです。「公的な義援金だけでなく、親せきからも見舞金をもらっている。確定申告すれば、こうした収入にかかる所得税が増え、税金は安くならない」と誤解していた人も多かったそうです。
しかし、雑損控除は家だけでなく、墓やブロック塀の修復費用も対象になり、被災地に住んでいなくても受けられることや、昨年の所得税から引ききれない場合は、最大で震災の翌年以降3年間にわたって所得税を少なくできることをご存じでしょうか?しかも所得税が少なくなれば、県や市町村に納める住民税の納税額も少なくなります
被災して昨年は働けなかったので、そもそも所得税を納めていないという人は、今年は確定申告をしても所得税は減免されません。しかし、申告は5年前までさかのぼって行うことができます。「熊本地震で家が全壊し、けがをして昨年は職も失った。しかし、今年からは会社に勤め、収入も元に戻った」という人は、2018年の確定申告で17年の所得を申告する際、16年(熊本地震の年)の家の被害について雑損控除を申告できます。

 15.jpg申告に必要なもの

「り災証明がないと申告できない」という誤解があるようですが、そんなことはありません。り災証明書があれば手続きがスムーズに進みやすくなりますから、り災証明書をお持ちの方は申告には忘れずに持っていくようお勧めしますが、り災証明書がなくても、被災したことや被害の程度が証明できる書類があれば申告はできます。税務署が用意してほしいとしている書類は下の表の通りです。それぞれの書類がなぜ必要なのか、は最後まで読んでいただければわかると思います

必要書類.jpgサラリーマンの場合、確定申告に欠かせないのは会社から出る源泉徴収票です。「申告する気がなく、源泉徴収票は捨ててしまった」という方は、会社に届け出ればすぐに再発行してくれるはずです。
なお、今年の確定申告では昨年までとは違って、マイナンバーの記入が必要なので注意してください。まだマイナンバーカードを取得していない方は、通知カードと身分を証明する書類が必要です。郵送で確定申告をする方は通知カードや身分を証明する書類のコピーを添える必要があるので、あらかじめ用意してください。

number.jpg

所得税が戻ってくる2つの制度

益城町中心部.jpg

 15.jpg「雑損控除」と「災害減免法」

前回説明した通り、熊本地震で被災した人は確定申告をすると、天引きで納めた所得税が戻ってくる可能性が大きいのですが、戻ってくる仕組みは2通りあります。多くの人は「雑損控除」の仕組みを使うとみられますが、もうひとつ「災害減免法」の適用を受けることもでき、被害の状況などによってはこちらの方が雑損控除より所得税の減免額が大きくなる場合があります。災害減免法と雑損控除の減免を受けるにはともに確定申告が必要ですが、両方の減免を受けることはできず、どちらか有利な方を選ぶことになります。

雑損控除とは、空き巣に遭ったり、台風や地震など、自然災害で損害を被ったりした人の生活再建を後押しするため、家や家財、車、さらには災害に関連した支出を所得から差し引いて(所得控除といいます)、所得税を減免する仕組みです。一部損壊以上のり災証明書がある方は、損害額などに応じて所得税が減免され、還付という形で戻ってくる可能性があります。

一方、災害減免法による税の減免は、所得が1000万円以下で、家と家財のどちらかの損害が価格(時価)の2分の1以上に達した場合に受けることができます。昨年の所得が1000万円を超えた方は、地震で大きな被害を被ったとしても、雑損控除しか選択できません。

雑損控除と災害減免法では、所得税を差し引く対象となる損害の範囲も異なります。雑損控除は「納税者やその家族が持つ通常の生活に必要な資産」が対象で、住宅や家財、衣類、現金などの損害(損失)や、災害に関連するやむを得ない支出も所得税減免の対象になります。これに対して災害減免法の対象となる資産は住宅と家財のみで、どちらかで時価の2分の1以上の損害があった場合だけが対象となります。雑損控除は被害の割合が減免額に関係しますが、災害減免法では減免割合は年間所得によって決まり、被害が2分の1以上なら、70%でも100%でも関係ありません。減免の方法も違い、雑損控除が所得額を減らす「所得控除」なのに対し、災害減免法は所得税額を減らす「税額控除」で所得税を減免します(連載1回目の「年収から所得税額が決まるまで」の図を参照してください)。

雑損控除については後でくわしく説明します。まず災害減免法についてまとめると、

税2の1.jpgということになります。

 15.jpgどちらを使ったほうが有利なのか

2つの仕組みのうちどちらを使ったほうが有利かは、所得額や被害の程度で変わってきます。所得500万円以下の方は雑損控除より災害減免法の適用を受けたほうが有利となることが多いともいわれますが、損害額によっても左右されるので一概には言えません。下の例は国税庁の資料ですが、一般的に税の減免は所得控除より税額控除のほうが大きくなるといわれ、古くて時価が安い家が全壊したケースのように、被害の程度は大きいが、損害額(損失額)があまり大きくない場合は、災害減免法の方が有利なようです。

雑損と災害減免.jpgただし、災害減免法は震災の年の所得税だけを減免するもので、翌年以降に繰り越すことができません。これに対して、雑損控除は最大3年間、損害額を繰り越して所得から差し引けます。家が全壊するなど損害額が大きく、1年で控除しきれない場合は、減免効果がその年限りの災害減免法より、損害の繰り越しができる雑損控除を選択するほうがトータルの減免額は大きくなることが多いようです。

どちらのケースを選ぶことになるのか、がおおまかにわかる国税庁作成のチャート図をつけておきます。税務署に確定申告に行くと、個々のケースに応じてどちらを選んだほうが有利かも含め、相談に乗ってくれます。税務署は被災者の生活再建を応援するため、被災者に有利な方法を教えてくれるはずですから、被災の状況を話して相談に乗ってもらいましょう。

CYA-TOZU.jpg<図>被災者の所得税を減免する2つの仕組み(図をクリックすると大きくなります)

災害減免法の適用を受けられない、または受けない人は、雑損控除を申告することになります。

 雑損控除の対象となるのは

雑損控除は、地震や火災などで痛手を受けた被災者の生活再建を後押しするため税を減免する仕組みで、所得から差し引く(控除する)ことができる地震による損害(損失)を幅広く認めています。家や家財、さらに通勤や通学で使っていた自家用車の損害が控除でき、さらに生活を元通りにするためのやむを得ない支出も控除の対象です。ただし、その全額が控除できるわけではありません。計算方法は順を追って説明しますが、まずは多くの方の損害額が最も大きい家(住宅)の考え方をもとに、その仕組みを説明していきます。

15.jpg算定のベースになるのは「地震が起きる直前の時価」

雑損控除では家に限らず、損害額を「地震が起きた時の時価」をもとにするのが大原則です。20年前に1億円の豪邸を立てた方は、昨年の地震の時には家は古くなって、時価は下がっていたはずです。家の時価の計算では「元の価格(取得価格)の1割は価値が残る」という前提で、どのくらい価値が下がったか(減価償却分)を計算し、そこから被害の程度に応じて損害額を算出します。

例えば家を1000万円で買った場合は、その9割の900万円をもとに、古くなって価値が下がった分の計算をします。減価償却分が300万円(この計算方法は次回以降に説明します)とすると、家の時価は700万円です。家が全壊の場合は100%、半壊の場合は50%、一部損壊は5%の価値が失われたとみなしますから、

 全壊なら700万×1.0=700万円

 半壊なら700万×0.5=350万円

 一部損壊なら700万×0.05=35万円

が損害額となるわけです。

家の被害の割合.jpgり災証明書の分類には大規模半壊がありますが、り災証明書をもとにした税務署の簡便な計算方法では、大規模半壊の場合、被害割合は半壊と同様に被害割合は50%で計算することになっています。り災証明書の判定に不服で2次審査など申請している方や、大規模半壊の証明をもらったが、自分はどうみても全壊だと思っている方は、手持ちの書類や写真など、被害の程度を説明できる資料を持参して、そのことを説明する必要があります。税務署は公的機関が発行したり災証明書の判断を重視はしますが、常にり災証明書の判定に縛られるわけではありません。上の例で示したのはあくまで簡便法、つまり簡単便利な計算方法を使った場合の計算方法で、損害額や損害の程度がきちんと証明できれば、簡便な計算方法を使わない控除も認められる可能性があります。

家以外の家財や車の損害については、り災証明書には記述はありません。テレビやタンス、仏壇などたくさんある家財の取得価格や時価を一つひとつ計算して足し上げたり、走行キロ数や細かいキズの有無によって変わる車の時価を出すのは難しいので、損害額の計算では家とは別の簡便な計算方法を使います。この方法は後で説明します。

15.jpg修理費は「災害関連の支出」

話を家に戻します。雑損控除で認められるのは家の損害額だけではなく、災害関連の支出として家の修理費も一部が控除の対象になります。ただし、家の新築は修理ではないので新築費用は控除できず、修理費についても損害額を除いた分しか対象になりません。修理費が家の損害額より少なければ、結果的に雑損控除の対象にはならないことになります。

例えば、先ほどの例で一部損壊の家の修理費が40万円かかった場合、損害額は35万円だったので、損害額と修理費をあわせると

40万+35万=75万円

になります。しかし、修理費は損害額を除いた分しか対象にならないので、控除の対象になる修理費は

40万−35万=5万円

だけです。家の損害額と合わせて雑損控除の対象になるのは。

(40万−35万)+35万=5万+35万=40万円

となるわけです。修理費が30万円なら、雑損控除の対象は損害額の35万円のみとなります。

益城町空撮.jpg家に関連する災害関連支出の対象になるのは修理費だけではありません。とりあえず雨漏りをしのぐためのブルーシートの購入費や、家具を運び出したり、解体したりした費用も災害関連支出の対象となります。益城町などでは家そのものの被害は小さかったものの、地盤の修復にかなりの出費をしたという方も多かったと聞きますが、液状化や地割れで軟弱になった地盤を修復した場合、その修復費も災害関連支出の対象です。こうした支出はり災証明書だけではわからないので、申告の際は工事費の領収証などを忘れないようにしてください。

15.jpg墓石の修理費は3割が対象に

災害関連支出は家屋本体の費用だけでなく、門やブロック塀も含まれます。家から遠く離れた墓地にある墓の修復費も、倒れた墓石の除去費用や墓石代も含めて、元に戻すのにかかった費用の30%が、原則として雑損控除の対象になります。墓については損害額と修理費をきちんと計算することが難しいので、元に戻すのにかかった総額の30%を修理費とみなすのです。東京に住んでいて家などには熊本地震の被害はなかったが、熊本にある先祖代々の墓が倒れて修復費がかかったという方は、東京の最寄りの税務署に雑損控除の申告をしてください。

熊本市内の墓地.jpg一方で、控除の対象になるのは生活を元通りにするのに必要な費用だけです。壊れた家から運び出した家具の置く場所がないので、新築のアパートの部屋を借りて倉庫代わりにした場合、その家賃まで災害関連支出とは認められるかどうかは微妙です。粗末な石を置いただけの墓が倒れたので、「この際だから」と高級な御影石を使って立派な墓地を造った場合や、一部損壊した屋根の瓦を高級ブランド瓦にした場合は、元通りにする以上にかかった費用は控除の対象になりません

ただ、その場合でもほかに手がなければ控除の対象になるケースもあります。ブロック塀は昔より地震に強いものにすることが求められており、今は中に鉄筋を通すのが普通ですから、元に戻すと地震の前のブロック塀より立派なものになってしまいます。ブランド瓦についても、使う気はなかったのに業者から「今は瓦不足でこれしかない」といわれてやむなく使ったというケースもあるかもしれません。合理的な理由があり、それをきちんと説明できる場合は、元通りにする以上の費用についても雑損控除が認められる可能性があります。

3-2HYOU.jpg一方で、災害関連の支出といっても、水道が通るまでのミネラルウオーター代や、ガスが開通するまでのカセットコンロの代金など、家や家財に関係しない支出は雑損控除の対象外です。また、別荘は生活再建に不可欠とはみなされず、損害額も修理費も控除の対象にはなりません。1点30万円以上の書画骨とうや掛け軸も、同じ理由で控除の対象外です。言い換えれば、書画や骨とう品は、いくら高価なものでも1点30万円までしか雑損控除はできないことになります。

15.jpg空き巣被害は対象、詐欺被害は対象外

なお、すでに説明した通り、雑損控除は地震など災害だけでなく、空き巣の被害額も対象になります。熊本地震の後には一時、被災地で空き巣が横行しました。避難生活をしていた間に空き巣に入られたという人は、地震による家財の損害が認められなくても、盗難被害による雑損控除が認められる可能性があります。一方で、地震の後には町内会の役員と名乗る男が「義援金を集める」などといって金をだまし取ったケースもあったようですが、詐欺による被害は雑損控除の対象外です。

 損害額の計算方法

これまでに説明した通り、雑損控除の損害額は買った時の価格をもとに、年月の経過を経て価値が減った分(減価償却分といいます)を差し引いて地震が起きる直前の時価を出し、それに全壊なら100%、半壊なら50%というように、損害の程度を反映させて算出します。

160914ekijouka7.jpgのサムネイル画像

15.jpg家の損害額の計算方法

減価償却分は1年ごとに価値が減じていく割合(減価償却率といいます)に、住み始めてからの年数をかけて計算します。減価償却率は下表のように、平均的な家の構造別の寿命によって決まります。例えば木造住宅の耐用年数は33年、すなわち1年ごとに33分の1ずつ価値が減っていくと考えて、1÷33=0.031に築年数をかけて減価償却率を出します。1年に満たない場合6か月以上は切り上げ、6か月未満は切り捨てます。

建物償却率.jpgすでに説明したように、どんな家でも最後まで1割の価値は残るとみなして計算しますが、一方で耐用年数は通常の年数より5割程度長くして、時価が高く出るようになっています。

10年前に1000万円で買った木造住宅の減価償却分は、

 1000万×0.9×0.031×10年=900万×0.31=279万円

となりますから、この住宅の時価は

 1000万-279万=721万円

になります。半壊だった場合の損害額は

 721万×0.5=約360万円

となるわけです。

15.jpg買った価格が分からない場合は

最初にいくらで家を買ったかわからない、またはわかっているが、売買契約書が地震でなくなってしまった、という方もいるでしょう。東日本大震災では、家が根こそぎ津波にさらわれてしまい、契約書が一切ないという人がたくさんいました。取得時の価格が分からないと減価償却費を差し引く元がなく、損害額の計算ができません。そのような場合は、床面積と建築年月日と家の構造(木造か、鉄筋かなど)から、だいたい買ったときはこの程度の価値だっただろうとみなし、そこから時価を計算します。

みなし計算方法.jpg

上の図に示したのは、構造別の1平方メートル当たりの全国平均の建築費です。この数字に床面積をかけて取得時の推定価格を出し、その9割に年数に応じた建物構造別の償却率をかければ減価償却分が計算できて、取得時の価格が分からなくても時価が出せるというわけです。こうしたデータは登記簿謄本にすべて記載されていますので、申告の時にお持ちになると計算がスムーズになります。

なお、マンションの共用部分については、個々の住居の分譲価格(取得価格)に含まれています。専有の住居部分が無傷で、共用部分のみが損壊した場合でも雑損控除の適用が受けられる可能性があります。

15.jpg家財の損害額の計算方法

家財についても、テレビ、たんす、冷蔵庫など一つひとつの価値の減少分を計算して時価を出し、それを足し上げていくのが原則です。しかし、すべての家財の取得価格や、買ってからの年数を調べて時価を計算するのは大変面倒で、難しいことです。そこで、家族構成から平均的にこの程度の家財を持っていたとみなして損害額を計算する「簡便法」を使うことができます。

家財みなし表.jpgそれを示したのが上の表です。簡便法では、世帯主が45歳の夫婦2人なら家財は1100万円、さらに同居する大人(18歳以上)は1人130万円、子ども(18歳未満)は1人80万円を加算します。世帯主が45歳の夫婦に同居する20歳と16歳のきょうだいがいたとすれば、この4人家族の世帯は地震の時に

 1100万+130万+80万=1310万円

の家財を持っていた、とみなすわけです。この方法なら実際に一つひとつの家電製品や家具をいつ、いくらで買ったか、それがどの程度壊れたのかわからなくても大丈夫です。世帯主の年齢だけで家財の総額が分かるの?、と思う方もいるでしょうが、地震保険の家財保険に入るときの補償額もこの方法で決めることが多いようなので、ある程度実態を反映しているのでしょう。

簡便法を使った場合は、家財の被害の程度は家の被害の程度と同じとみなします。「家は一部損壊ですんだが、家財はほぼすべて傷ついた」という場合でも、家の被害の程度が5%なら、家財も被害の程度は5%とみなされます。

先ほどの世帯主が45歳の夫婦で、20歳と16歳のきょうだいが同居している例では、家が半壊なら家財の損害額は

 1310万×0.5=655万円

家が一部損壊なら家財の損害額は

 1310万×0.05=65万5000円

となるわけです。家と家財の被害の程度が大きく異なり、それを控除額に反映させたいという方は簡便法は使わず、家財の損害額を足しあげて申告することになります。

15.jpg車の損害額の計算方法

車償却率.jpgのサムネイル画像車は中古車の下取りなどでは車種や走行キロや細かいキズの有無などをみて価格(時価)を査定しますが、雑損控除での時価の計算には簡便法があります。最も使うケースが多いであろう乗用車の減価償却率は上の表の通りです。排気量2リットル以下の小型車は普通車に含みます。トラックの償却率は上の表にあげた乗用車の償却率とは異なるので、申告窓口でご確認ください。ただし、軽トラックの耐用年数と償却率は軽自動車と同じです。オートバイの損害も雑損控除の対象になり、乗用車や貨物車とは別の償却率を使って時価を計算します。なお、自転車はここでいう「車」には含まず、家財の扱いになります。

車の損害の程度は全壊、半壊、一部損壊といった判断が難しいので、修理費をそのまま損害額として認めるのが原則です。時価200万円の車の修理費が50万円かかったとしたら、50万円が車の損害額となります。ただ、修理費(=損害額)として認められるのは車の時価までです。時価10万円の旧型車の修理費が20万円かかった場合は、損害額は10万円で、残りの10万円は災害関連支出として申告することになります。全壊した家の新築費用と同じく、新車への買い替え費用は控除の対象になりません

こうして家と家財と車の損害額と、さらに前回説明した災害関連の支出が計算できました。しかし、この全額が雑損控除として所得から差し引けるわけではありません。

 雑損控除額の計算方法

15.jpg保険金を損害額から差し引く

家と家財と車についての損害額と、災害関連の支出は雑損控除の対象ではありますが、その全額が控除できるわけではありません。地震保険などで補てんされた額は所得控除の対象にはなりませんから差し引く必要があります。農業が盛んな熊本県では、地震災害をカバーする「建物更生共済(建更=たてこう)」に加入している人が多いと聞きますが、建更の共済金も扱いは保険金と同じです。

ただし、自治体からもらった義援金や災害弔慰金、支援金、親戚などがくれた見舞金は、原則として損害額から差し引く必要はありません

ちなみに地震保険や共済金による補償額には所得税はかかりません義援金や見舞金などにも所得税はかかりません。地震保険の保険金がおりた方は、損害額からその分を差し引かなければならないため雑損控除の額は小さくなりますが、「保険金に所得税がかかって確定申告すると損をする」ということは基本的にはありません。親戚からの見舞金は損害額から差し引く必要もなく、所得税もかかりませんが、社会通念上あり得ない多額の見舞金は見舞金とは認められず、贈与税がかかることがあります

15.jpg最後に所得の10%を差し引く

こうして出てきた額から、最後に所得の10%を差し引くと、ようやく雑損控除の実額が出てきます。ひとつの式にすると

5-1四しき.jpgとなります。保険金額は家と家財と車、さらに災害関連支出のそれぞれから差し引くことに注意してください。例えば家財の損害額が100万円で、家財保険が150万円出た場合、差し引くのは100万円だけです。引ききれない50万円を、家や車の損害額から差し引く必要はありません。

15.jpgもうひとつの控除額と比べて大きい額を選ぶ

ようやく雑損控除額が出ましたが、実は、式は家や家財や車の損害額は小さかったが、災害関連支出が大きかった方を救済するため、もうひとつの出し方があります。ものすごく大きな旧家が一部壊れた(=家の損害額は小さい)だけだが、大きい家なので大量のブルーシートが必要だった、という場合などは、家の損害額より災害関連支出の方が多いこともあり得ます。そこで、

5-2SIKI.jpgでも控除額を計算し、①の式と②の式の大きい額を控除できるというルールになっているのです。ただし、すでに説明しましたが、災害関連の支出には家などの修理費を含めることはできますが、あくまで損害額を差し引いた額で、損害額と修理費を二重にカウントすることはできません。

15.jpg所得税が戻ってくる目安は

多くの方は家や家財の損害額のほうが大きいでしょうから、①式で雑損控除を出すことになると思われます。①つまり、家、家財、車の損害額に災害関連の支出を足した額から地震保険や建更の保険金を差し引いてもまだ所得の1割を超えている人は、確定申告すると雑損控除で所得税が戻ってくることになります。つまり、

まとめフリップ.jpgが、確定申告をして雑損控除を受けるかどうかの大ざっぱな目安となるわけです。年間所得から雑損控除分を差し引いた残り(課税所得)には当然所得税がかかりますから、雑損控除を受ければ所得税がゼロになるわけではありません。いくら損害額と災害関連支出が幅広く認められるといっても、損害額が小さい、所得が多い、地震保険の保険金が下りたという方の中には、被災者でも控除を受けられないケースもあります。

15.jpg雑損控除は繰り越せるが...

反対に、損害額が大きい方の中には、雑損控除の控除額が昨年の所得を上回り、引ききれないという方もいるでしょう。その場合は3年の繰り越しができます。「繰り越し」が3年ですから、所得から差し引けるのは昨年、今年、来年、再来年の4年分となります

ただし、雑損控除は最優先で控除するルールになっています。例えば所得が500万円、雑損控除額が600万円、医療費控除などその他の所得控除額が50万円ある、という方は、500万円の控除によって所得はゼロ、したがって所得税もゼロとなります。ただし、500万円はすべて雑損控除による控除とされ、翌年に繰り越せる雑損控除額は150万円ではなく、100万円となります。

カット写真.png

* * *

まだ家が工事中で修理費がいくらかかるかわからない方もいれば、大きな損害がなかったのでり災証明書をとっていない、という方もいるでしょう。熊本地震による損害は昨年、一斉に発生しましたが、復旧の速度はまちまちですから、当然のことです。そういう場合は来年の確定申告で改めて申告すれば、さかのぼって雑損控除が適用されますから、あわてる必要はありません。

とはいえ、今年は税務署が相談窓口などを設けて対応していますから、相談するチャンスです。繰り返しますが、確定申告をしないと払いすぎた所得税は1円も戻ってきません。修理が終わっていなくても見積書を持って税務署に行き、まず相談してみることをお勧めします。なお、KKTでは個別の事例の相談はお受けできません。問い合わせやご相談は税務署や税理士にお願いします。最後に、連載の1回目につけた必要書類のチェックリストを再掲しておきます。

必要書類.jpg税務署の相談会場、税理士による無料相談会場の日時、場所一覧は yubiyubi.png こちら

(KKT報道局・丸山淳一が担当しました。写真と本文は関係ありません)

熊本から流出加速 市区町村別人口データ          2017年1月31日

総務省は、全国市町村の転出者と転入者をもとにした2016年の「人口移動報告」を公表しました。昨年1年間に熊本県外に住所を移した転出者と、県内に住所を移した転入者の差は6791人の「転出超」となり、2015年の3933人を大きく上回りました。熊本地震で多くの被災者が出た熊本市は1540人の「転出超過」となり、転出超過人数は2015年の3倍以上に達しました。5区で最も転出超過となったのは地震の被害が大きかったとされる東区(2454人)で、2度の震度7に見舞われた益城町が、2015年の346人の「転入超過」から、一転して1319人の「転出超過」となるなど、熊本地震が影を落としていることが分かります。

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一方、熊本市のベッドタウンとして住宅開発が進む合志市は、熊本地震で大きな被害がなかったこともあり、808人の転入超過でした。南阿蘇村の被災地などから仮設団地に移り住んている人がいる大津町や菊陽町なども転入超過となっています。

人口移動報告は自治体間の人の移動を住民基本台帳法に基づいてまとめた統計ですが、これとは別に、県は国勢調査の結果をもとに、2016年12月20日に2016年の推計人口調査をまとめています。それによると、2016年10月1日現在の熊本県の人口は177万4538人で、2015年10月1日からの1年間で1万1632人(0.65%)減少しました。

こちらの統計には出生や死亡による人口の変化が含まれますが、やはり熊本地震の影響が出ており、人口移動報告と傾向は同じです。市町村別では東海大阿蘇キャンパスの被災で多くの学生が熊本市に転居した南阿蘇村の減少率が3.7%と最も大きくなっていますし、熊本市の人口が73万9606人と1000人以上減っていて、益城町の人口は前年の0.9%増から一転して3.3%の減となっています。最も人口が増えたのはこちらの統計でも合志市です。

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人口移動調査で熊本県の転出入を月別にみた右のグラフは、上が転入超過、下が転出増加を示しています。5,6月が前年にはなかった大幅な転出超過になっているのは、熊本地震の影響によるものです。多くの人が住み家を失ったり、勤め先が休業に追い込まれたりしたのですから、地震直後に県外への転出が増えたのは仕方がない面もあります。

見逃してはならないのは、グラフから見えてくるもうひとつのポイントです。グラフの灰色は2015年、赤色は2016年の熊本県への転出入数ですが、月別にみると昨年の転出超過が最も多かったのは、5月でも6月でもなく、熊本地震が起きる前の3月なのです。3月の転出超過には地震の影響はないはずで、実際に3月と4月の転出超過数は2015年とほぼ同じです。

新年度に県外の大学や企業に進学や就職をする人(多くは若い人でしょう)が、震災の影響に匹敵する規模で毎年流出していることに、改めて気付かされます。福岡県以外の九州各県は、熊本県と同じか、より深刻な傾向にあります。例えば長崎市は地震の被害がなかったにもかかわらず、2016年の転出超過は1547人と、熊本市の1540人より多いのです。

熊本県の転出超過は昨年10月以降は収まり、わずかながら転入超過となっています。県外に避難していた人が戻ってきたり、復旧・復興工事のために県外から熊本県に転入する人が増えたりしているからでしょう。しかし、復旧・復興工事による転入超過は長くて数年しか続きませんし、震災で県外に転出した人がすべて熊本に戻ってくるわけではありません。蒲島知事は「創造的復興によって人口減に歯止めをかける」と話しましたが、確かに熊本を地震前の姿に戻すだけでは、人口減に歯止めはかけられないでしょう。熊本に新たな価値を加える復興ができるかどうかが、熊本が人口減時代を生き残るかどうかを決めるカギになるのです。

被災した学者が熊本地震を徹底分析               2016年12月21日

yokosehon.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像熊本地震を多角的に分析し、KKTの地震特番でも熊本地震について解説(2016年10月15日放送、上の動画)してくれた熊本大大学院准教授の横瀬久芳さんが2016年12月21日、熊本地震のメカニズムを独自の視点でわかりやすく分析した新著(写真左)を出版しました。

タイトルは『面積あたりGDP世界1位のニッポン 地震と火山が作る日本列島の実力』(講談社+α新書、860円=税別)。経済関係の本と勘違いしそうですが、内容は『目からウロコの熊本地震の真実』とでもいうべき本です。

第1章~第5章は熊本の自然も例にとりつつ、われわれの暮らしが地震や火山と切っても切れない関係にあることを記しています。本題ともいえる熊本地震の分析は第6章から始まります。横瀬さんは、①どこで地震が発生するのか②どのくらいの地震規模なのか③地震でどのような種類の災害が、どこで発生するのか④地震の終息宣言はいつ出せるのか⑤いつ地震が発生するのか――の5つの質問に答えることを目指し、地震発生から現在、そして今後の予測について、丁寧にわかりやすく、時に大胆に熊本地震を解析していきます。

前震から本震へと続いたメカニズム、揺れが大きくなる地域や被害の特徴、今後の地震の見通しも記され、著者自身が被災したからこそ指摘できる体験談や、生活を支える「影の減災ツール」も紹介しています。日本全国、いつ、どこで大きな地震が起きるかわかりません。熊本に住む人だけでなく、地震のことを知りたい人には参考になる一冊です。

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横瀬さんは海洋火山学が専門で、多くの地震学者とは違った視点から熊本地震を分析しています。新説や異説に仕分けされてしまう内容もありますが、いずれも膨大なデータと科学的な分析に基づいており、著書は自然科学の見地から熊本地震を検証する重要な見方を提供してくれています。改めて横瀬さんを取材し、著書の中からえりすぐった4つのポイントを「被災した地震学者が徹底分析」と題して紹介します。

 ポイント1 断層の大きな「割れ残り」はもうない

2度の熊本地震は、布田川(ふたがわ)、日奈久(ひなぐ)の2つの活断層が影響しあって活動したために起きたことはよく知られています。布田川断層帯は阿蘇外輪山の西側、南阿蘇村から益城町木山付近を経て宇土半島の先端に至り、日奈久断層帯は布田川断層帯と接する益城町木山付近を北端とし、芦北町を経て八代海南部に至る断層帯とされています。

hinaguhutagawa.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像<図1>熊本地震を起こした布田川、日奈久断層帯の推定図(地震調査委員会2013年)

2つの断層帯の交点にある益城町木山付近は熊本地震で大きな被害を受け、その後もこの2つの断層が破壊され続けて余震が続きました。ただ、宇土半島北岸や八代海南部といった2つの断層の南西部ではマグニチュード6を超える大きな地震は発生していません。地震学者の中には、「2つの断層の南西部では一連の地震でもエネルギーが放出されていない『地殻の割れ残り』があり、いつ大きな地震が起きてもおかしくない」と指摘する人もいます。しかし、私は断層の南西部に大きな割れ残りはなく、それどころか、活断層そのものが存在しないと考えています。

活断層型の地震は、地殻の上部に外的な力が加わってエネルギーがたまり、一気に割れた時に起こります。活断層に沿って地震が起きるのは、過去の割れ目である活断層が最も割れやすいからです。大きな石を万力で挟んで割り、割れ目を接着剤でくっつけても、再び万力で挟んで力をかければ、おそらく接合したところが割れるのと同じです。つまり、活断層型の地震は同じところで起きやすいわけです。

にもかかわらず、あれだけ大きな地震が起きたのに、2つの断層帯の南西部では大きな地震が起きていません。そもそも宇土半島北岸や八代海南部では、熊本地震の前にも有感地震ですらまれにしか起きていないのです。

地図1.jpgのサムネイル画像<図2>熊本周辺の震央とマグニチュードの分布図

1985年(昭和60年)1月から熊本地震の前月までに起きた震央と地震の規模(マグニチュード)の分布を示したのが<図2>です。この間に発生した震度1以上の有感地震の中で、震源の深さが22キロよりも浅いものを抽出しており、赤丸の大きさはマグニチュードの大きさを示しています。この図を見ると、熊本地震の前まで「熊本は地震がない」と言われてきたのが不思議なほど多くの地震が起きていますが、黒い丸で囲った宇土半島北岸や八代海南部では地震が起きていないこともわかります。1960年(昭和35年)までさかのぼって調べてみても、結果は同じでした。100%断言はできませんが、私はこの地域には活動的な地殻の割れ目、すなわち活断層はないと考えています。

「半世紀程度さかのぼっただけでは、過去にずっと地震がなかったと言えないだろう」とお思いの方もいるでしょうが、過去に大きな地震があれば、何らかの痕跡が残るはずです。布田川断層の南西部は当初は存在が認められておらず、宇土半島北側が直線状に北東から南西に延びている地形などから推定して付け加えられたものです。しかし、この地形は有明海から外海に出る潮流が、半島北部を侵食し続けてできたと考える方が自然です。

活断層型の地震が同じところで繰り返し起きるなら、益城町など活断層があるところは、今後も大きな地震に見舞われることになります。しかし、大きな揺れがあったところはエネルギーが放出されていますから、被害が大きかった地域が、すぐに再び大きな地震に見舞われる恐れはほぼないと言えます。最近では地震計の設置台数も増えて、地震の発生か所は数百メートル程度の誤差で詳細をつかめるようになっています。熊本地震で得られたデータを被害を減らす「減災」に生かして復興を進めていけばいいのです。

 ポイント2 熊本平野は巨大な「逆三角すい」の上にある

大きな地震があるとニュースでは震度や震央が数字や✖印で平面の地図の上に示されます。しかし、われわれが暮らしているのは3次元空間で、平面に住んでいるわけではありません。地下でも同じことで、震源には深さがあります。前震と本震、そしてその直後の震源を3次元空間に記していくと、平面地図で見るのとは違う熊本地震の様子が見えてきます。

singensindo.jpg<図3>一連の熊本地震の震央と深さの分布図

それを示したのが<図3>です。黄~赤の丸は、前震(2016年4月14日)から本震(4月16日)の直前までの間に起き、黄~青の丸は、本震が起きてから最後のマグニチュード5.0以上の余震が起きた4月19日午後8時47分までの間に起きた地震です。ともにマグニチュード1.0以上、震源の深さが22㎞より浅い地震だけを抽出し、震源の深さに応じて11段階に色分けしています。地震の規模(マグニチュード)に関わりなく、丸は同じ大きさで示しています。

まず、前震と本震の間に起きた地震を3次元の地図に記録していくと、熊本平野の地下に北東から南西に続く上辺約60キロ、最深度約18キロの台形上の地下斜面が現れます。16日の本震以降もこの斜面での余震は続き、震源は時間がたつにつれて深くなっていきました。

tetora2.jpgのサムネイル画像また、本震の後には、宇土半島の付け根を横断する上辺約40キロの三角形の地下斜面と、熊本平野の北部を折れ曲がって横断する上辺約70キロの、ややいびつな地下斜面が現れます。つまり、熊本地震は3つの地下斜面に沿って起きており、3つの面をつなぎ合わせると、熊本平野の地下には頂点を下にした巨大な三角すい(錐)があることが見えてきます。

巨大な三角すいの面のうち3面は地下にあり、上部の1面だけが地表に出ています。熊本市や周辺の町村はこの三角すいの地表面にあり、その面の上で100万人近くが暮らしているわけです。

<図3>は3次元を2次元で示しているので、わかりにくいかもしれません。コンビニで三角すいの形をした枝豆パックを見つけたので、これを使って説明すると、てっぺんの平らな部分に熊本市があるわけです(写真)、赤い星をつけた三角すいの最深部が、<図3>の赤い星ということになります。

今回の地震を大きくとらえると、100万人を乗せた逆三角すい全体が反時計回りに動いたとみることもできます。3次元で地震の分布をさらに詳しく分析していけば、それぞれの断層がどう破壊され、震源が今後どこに移っていくか、予測しやすくなるかもしれません。

この連載の1回目で、私は布田川断層帯の宇土半島北岸区間や日奈久断層帯の日奈久区間に活断層は存在しないのではないか、とお話ししました。では、断層はどこにあるのか。地質発達史と熊本地震の余震分布から、私が推定している現在活動的な地表地震断層を記したのが<図4>です。布田川断層の布田川区間、木山断層、北甘木断層、白旗断層は地下で単一の断層面とつながっていると考えています。(新)と記したのは学会で存在が一般的になっていない地表地震断層です。私の推計では日奈久断層はごく短く、マグニチュード7以上の大きな地震を起こすとは考えにくいと思っています。

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<図4>横瀬さんが推計する熊本地方の地表地震断層分布図

分布を上空から俯瞰すると、断層が熊本平野の上に三角形の3辺をなぞったように分布しています。熊本平野が巨大な逆三角すいの上にあり、一連の地震でその逆三角すいが反時計回りに動いたとすれば、地表の割れ目である断層が三角形の辺に沿う形で分布するのはごく自然なことです。

<図4>で示したのはあくまで私の推計によるものです。活断層についてはまだわかっていないことがたくさんあります。観測の精度が飛躍的にアップしているのですから、精度が低かったころに作成された昔の断層図にとらわれることなく、もっと科学的な解析を進めるべきです。私の説がそのきっかけになってくれればと思います。

 ポイント3 被害の大きさを決めた3つの要素

地震の被害は震源に近いほど大きくなりますが、活断層型の地震では大きく揺れる地域は断層周辺に限られます。にもかかわらず、熊本地震では震源から10キロ以上離れているのに大きな被害が出たところがありました。建物の築年数、耐震性などだけの問題ではありません。実は地震の被害の程度は、震源からの距離、地下の地質、そして土地の傾斜と大きく関係しています。

tisituzu.jpg<図5>熊本平野の地質と活断層

<図5>は2003年に熊本県地質調査業協会がまとめた熊本平野の地質図です。熊本市は「水の都」といわれるように、阿蘇方面で降った雨が地下にしみ込み、地下水となって熊本平野に流れ込んでいます。表層に近い地下水の一部は水前寺から江津湖周辺で湧き出し、さらに深い地下水は熊本市の水源となっています。熊本市東部や益城町に広がる保田窪砂礫層(黄色部分)は水を含んだ帯水層で、地盤が軟弱な地域です。地下水が豊富な帯水層と呼ばれるところには水を含んだ土砂が堆積しており、地震で揺さぶられると砂つぶの隙間にある水が揺れで外に押し出され、地盤が変形しやすくなります。

また、自然堤防堆積物が拡がる地域(水色部分)も、川が運んできた粒の大きな土砂が積もっていて帯水層になりやすく、やはり地盤が軟弱です。熊本城や九州新幹線の脱線地点、熊本市南区川尻の液状化地域は2度の震度7の震源からは少し離れていましたが、地盤が弱い地層の上に位置していました。熊本市内で白川や緑川にかかる多くの橋が損傷したのも、川の両岸の土手が地震の揺れで変形したためと思われます。

ちなみにJR鹿児島線の西側の熊本市西区も埋立地ですから地盤が軟弱で、揺れが大きく感じる傾向があります。相次いだ余震で熊本市西区の揺れが大きくなりがちなのは、地下の地質が関係しているというのが私の考えです。

さらに、土地の傾斜の有無も被害の大きさを左右します。益城町周辺は平らに思いがちですが、県道熊本高森線を車で走ってみると、結構アップダウンがあることに気付きます。土地に傾斜があれば、当然土砂は動きやすくなります。つまり、益城町の被害が大きかった地域は震源から近かったから、だけではなく、地盤が軟弱で、さらに傾斜があったという3つの要素が重なったためだった、と考えられます。

では、断層に近く地盤も軟弱な地域は、復興しても再び地震で大きな被害を受ける宿命にあるのでしょうか。私はそうは思いません。活断層の位置が分かっているところはそこを避けて家を建てた方がいいことは言うまでもありませんが、軟弱な地盤については深い杭を打てば、液状化しても建物は倒れません。地震が来る前から分かっている土地の特質を踏まえ、災害に強い町を作れば、必ずや大きな被害は防ぐことができます。

 ポイント4 本震は予測できた では今後はどうなる?

熊本が短い間に2回も震度7に見舞われたことについて、多くの地震学者は「これまでにない予想不可能な出来事だった」とコメントしました。気象庁も本震の後、1か月以上にわたって大きな余震に警戒するよう呼びかけ続け、最近では「最初の地震より小さいという誤解を与えかねない」などの理由で「余震」という言葉も使わなくなりました。

確かに短い時間で震度7が2回というのは予想外だったかもしれません。しかし、大きな地震で前震の後、あまり間を置かずにもっと大きな本震が来る、というのは珍しいことではありません。阪神大震災も東日本大震災も、昨年の鳥取県中部の地震も、本震の前に前震がありました。前震が大地震と呼べる規模でなかったために大きく報じられず、いきなり本震が来たかのように記憶されているだけなのです。

残念ながら、今の科学では大地震がいつ起きるかを予測することはできません。しかし、地震が起きた後、それが前震で、間をおかずにさらに大きい本震が来るかどうかは予測できるのです。熊本地震でも前震は予測できませんでしたが、その後の本震は少なくとも予測可能な状況でしたし、本震の後にさらに大きな地震が来ないことは予測できました。

予測する方法は難しくありません。時間の経過とともに地震が収束に向かうかどうかを見る時に、地震の規模(マグニチュード)の推移に注目するのです。

6jisinnkaisuu.jpgのサムネイル画像地震は地殻が破壊されることによる巨大なエネルギーの放出活動です。マグニチュードは対数で、1 大きくなると地震のエネルギーは約32倍に、2大きいと実に1000倍になります。0.2大きくなるだけで、エネルギーは約2倍になります。

ところが、地震の経過は左の<図6>のように縦軸は回数で示されることが多いのです。気象庁のホームページでも熊本地震を時間の経過とともに回数がどう変化したかを紹介しています。

これでは地下で地震のエネルギーが増えているのか、減っているのか、といった地下で起きていることを正確につかむことはできません。回数ではなくマグニチュードに注目すると、一連の地震の経過を示すグラフは一変します。

jisinngurahu.jpgのサムネイル画像<図7>前震から本震までに発生したマグニチュードの推移

回数ではなく、縦軸を対数のマグニチュードにします。縦軸を対数にするのですから、横軸の時間も対数軸とします。こうして熊本地震の前震と本震の間に起きた地震のマグニチュードの推移を示したのが<図6>です。これをみると、前震の後いったん下がったものの、すぐに右肩上がりに転じていたことがわかります。

大地震が起きると地震エネルギーは放出され、直後の地震のマグニチュードは小さくなります。しかし、熊本地震のように後から本震が来る場合は、前震では破壊され切れなかったところに再び力がかかり、本震の予告となる地震が起き、そのマグニチュードが増していくのです。熊本地震の前震と本震の間には「余震」ではなく「予震」というべき揺れが続いていたことが、グラフからはっきり読み取れます。

kaisuukongojisinkaisuu無題.jpg <図8>本震以降の地震発生回数(縦軸、横軸とも対数軸)の推移

では、本震以降はどうでしょうか。縦軸をマグニチュードから発生回数に変え、横軸は経過時間としていずれも対数軸とし、本震後約9か月(対数)まで推移を追ったのが<図8>です。地震の回数が若干増加に転じる傾向も読み取れましたが、全体としては、地震の発生回数は時間とともに一定に減り続け、右肩下がりとなっています。昨年出演したKKTの番組でもお話しした通り、私はこのまま地下の不安定性が解消されれば、一連の熊本地震は2020年夏の東京五輪が開かれるころに完全に終息するとみています。

地震が起きたら、まず震源とマグニチュードを確認することです。自分がいるところから半径10キロ以内の震源で、マグニチュードが増加傾向にある場合は要注意です。過去の事例から考えて、48時間くらいは警戒してください。一方、その間に全体としてマグニチュードが減少していくなら、地下の岩盤は安定化に向かっているとみなせますから、ひと安心といっていいと思います。

* * *

大きな地震や火山の噴火は日本にはつきものですが、全く人間が対処できず、遭遇したらなす術なし、というわけではありません。被害を完全に防ぐことはできなくても、現代の科学を駆使すれば、被害を最小限に抑える「減災」に向けた対策は充分に可能です。自然現象を「正しく怖がる」ことができれば、復興に向け"がんばるばい!"という気持ちもわいてくるのではないか――そんな気持ちでこの本を書きました。

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yokosekao-2.jpg横瀬 久芳さん(よこせ・ひさよし) 1960年新潟県生まれ。84年新潟大理学部地質鉱物学科卒、86年同大学院理学研究科修了。専門は海洋火山学で、世界の深海底を探索し、2011年には奄美大島沖の海底火山からレアメタルに富む鉱石を発見した。2007年から熊本大学准教授。著書に「はじめて学ぶ海洋学」(朝倉書店)「ジパングの海 資源大国ニッポンへの道」(講談社+α新書)。

復旧・復興プランと28項目の工程表          2016年10月3日

161003hukkoukaigi.jpg蒲島知事は8月3日、熊本地震の被災者の住宅支援など24項目の復旧・復興プランと、その実現まで4年間の工程表(ロードマップ)を発表しました。被災した道路や橋を3年以内をめどに完全復旧させるとしたほか、2年後をめどに仮設住宅から災害公営住宅(復興住宅)などに移れるようにするとしています。10月3日の復旧・復興本部会議では、さらに4項目を追加しました。

蒲島知事は工程表を今後4年間の計画とした理由について、「(4月に始まった3期目の)任期にこだわった」と説明しました。

復旧・復興プランは 五百旗頭(いおきべ)真・熊本県立大理事長が座長を務めた「くまもと復旧・復興有識者会議」がまとめた提言を踏まえて作成したものです。被災者の生活再建と自立を支援する「地域支え合いセンター(仮称)」と、被災者の心をケアする「熊本こころのケアセンター(仮称)」を10月にも設置することも盛り込みました。災害廃棄物は発災から2年(2018年4月)までに処理を終えること、阿蘇神社の復旧については、楼門の復旧が2022年度までに完了するよう支援するとしています。

28項目の復旧・復興プランと工程表は以下の通り(*は10月に追加された項目です)。

1、生活の支援・住まいの確保

・被災者の意向に沿いながら、応急仮設住宅や、みなし仮設住宅を提供する。

・仮設住宅等で生活されている被災者については、入居後2年をめどに、自宅や公営住宅などでの生活に移行できるよう支援する。災害公営住宅等については、建設を行う市町村に対し必要な支援を行う。

・被災者の安心できる日常生活を支え、生活再建と自立を支援するため、2016年10月をめどに、市町村が「地域支え合いセンター(仮称)」を設置できるよう、体制整備や人材確保等を支援する。

・市町村などの関係機関と連携して被災者に寄り添った心のケアを行うため、「熊本こころのセンター(仮称)を2016年10月をめどに設置できるよう、関係者との協議を進める。

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2、医療・福祉提供体制の立て直し

・必要な介護職員ど福祉人材の派遣により運営を確保するともに、中長期的な人材確保を推進する。
・被災した社会福祉施設等の復旧、機能や経営面が回復するよう支援を行 う。あわせて、耐震化や防災対策を進めるなど、社会福祉施設の対災性の向上を推進する。
・被災した医療施設が復旧するよう支援を行う。あわせて、耐震化や防災対策を進めるなど、医療施設の対災性の向上を推進する。

・被災時でも適切な医療・介護サービスの提供を可能とするため、 県医師会を中心に、 熊本大学及び県の3者がしっかりと連携し、「くまもとメデ ィカルネットワーク」の構築を進める。

・熊本地震時の対応検証等を踏まえ、 新たな災害発生へに向け災害 ・救急医療提供体制を充実・強化する。

・熊本地震時の対応の検証等を踏まえ、新たな災害発生への対応に向け、福祉避難所、災害派遣福祉チーム(DCAT)等の福祉提供体制を充実・強化する。

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3、災害廃棄物の早期処理と体制強化

・地震により発生した災害廃棄物を、発災後後2年以内(平成30年4月まで) に処理を終了する。

・熊本地震での課題等を整理し、今後の災害に備えて災害廃棄物処理体制のさらなる強化を図る。

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4、児童生徒の心と学力のケア及び防災教育

・地震による心のケアが必要な児童生徒等を減少させる。

・児童生徒の学力を平成 27 年度より向上させる。

・熊本型の防災復興教育を推進する。

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5、学校、体育館等の復旧と機能強化

・被災した学校施設や体育館等について、早期に復旧する。

・改築が必要なものなどについては、2018年度(平成30 年度)までに復旧を完了する。

・学校施設や体育館等について、防災拠点避難所としての機能の強化を 目指す。

・非構造部材も含めた私立学校施設の耐震化など、防災・減災機能整備の整備を支援する。

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6、南阿蘇村立野地区のコミュニティ再生

・崩落した斜面の復旧状況や山腹の安全性を把握するともに、水道施設や道路、橋梁などのインフラ復旧状況を確認する。

・「立野地区寄り添い支援プロジェクトチーム」を主体に、住民の意向に沿いながら、立野地区での生活再開実現を図る。

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7、東海大学農学部の阿蘇キャンパスの再開支援

・東海大学における有識者会議の議論を注視し、そこで決定された阿蘇キ ャンパス再開に係る方向性に沿って実施され取組みについて、支援を行う。

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8、被災宅地の復旧支援

・2019年度(平成 31 年度)の完了を 目標に、 住宅再建の 大きな障害とっている宅地の復旧を支援する。

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9、住宅の耐震化対策

・住宅耐震化に係る補助制度ついて、未整備市町村への支援を行い、 2018年度(平成30 年度)からの県内全市町村での活用を目指す。

・ホームページ等で耐震改修の必要性を継続して周知するともに、技術者育成に関する講習会を開催 し、将来の地震に備えた住宅耐震化を後押しする。

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10、熊本と阿蘇をつなぐ道路の復旧(国道57号・阿蘇大橋・俵山ルート)

・国道 57 号をはじめ、寸断された阿蘇への主要ルートの代替道路となるミルクロードなどの安全対策(渋滞対策や冬期対策等)を行うともに、暫定開通により寸断の影響軽減を図る。 暫定開通により寸断の影響軽減を図る。

・阿蘇地域の復興につなげるため、主要ルートの早期の本格復旧を促進する。

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11、道路ネットワークの早期復旧と強靭化

・発災後3年以内をめどに 被した道路や橋梁の完全復旧を行うとともに、災害時の緊急輸送道路等の拡幅など道路機能の向上を図る。

・災害時の幹線道路リダンダンシーを確保するため、九州横軸縦軸と なる幹線道路ネットワークの整備を促進する。

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12、阿蘇山上施設の再開に向けた基盤整備

・被災した阿蘇山上給水施設について、2017年度(平成 29 年度)末の復旧を目指す。あわせて駐車場やトイレなどの自然公園施設についても、2017年度末までに順次復旧を図る。

・被災した阿蘇登山道路4 ルートについて、観光道路としの機能を早急に回復できるよう、復旧工事に着手する。特に阿蘇吉田線(東登山道) に回復できるよう、旧工事着手す。特阿蘇吉田線(東登山道) に回復できるよう、旧工事着手す。特阿蘇吉田線(東登山道) については、本年中の通行止め解消を図る。

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13、南阿蘇鉄道の復旧

・国が実施する調査により、2016年度(平成 28 年度)中に甚大な被害を受けたか所の復旧工法・工期等を決定のうえ、県も支援し復旧工事を実施する。

・また、2016年度中の高森駅~中松駅間の運行再開をはじめ、被害が少なかったか所について、順次運行再開を図る。
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14、JR豊肥本線の復旧

・国が実施する阿蘇大橋地区の復旧事業 や県の斜面崩落防止のための事業と調整・連携のうえ、JR九州による早期復旧を図る。

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15、熊本都市圏東部地域の振興

・阿蘇くまもと空港をはじめした熊本都市圏東部地域の創造的復興推進するグランドデザインとして、「大空港構想NextStage」を年内をめど に策定し、東部地域の創造的復興を着実に推進する。

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16、熊本城をはじめとした歴史・文化の再生・継承

・熊本城の復旧については、国や熊本市との連携のもと、復旧方針に沿った事業推進を支援する。

・阿蘇神社の復旧については、 楼門の復旧が2022年度(平成34 年度)までに完了するよ う事業推進を支援する。

・その他の国指定以外の文化財に ついては、国や民間からの支援をもとに復旧を推進する。
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17、産業再生とイノベーティブな復興

・震災により傷んだ企業の施設・設備を、2017年度(平成29年度)末をめどに復旧させ るとともに、震災で落ち込んだ売上を回復させる。

・誘致企業を県外の代替生産から回帰させ、熊本の製造業をけん引するサ プライチェーンを復活するとともに、災害に強い新たな産業集積を構築する。

・これらにより県内製造品出荷額を震災前の水準以上に押し上げる。

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18、地域経済を支える商業・サービス業等の復興

・震災により傷んだ商店街等の機能を、2017年度(平成29年度末)をめどに復旧させるとともに、消費喚起策の実施等により、地域内消費を回復させる。

・販路開拓やブランド力強化により、大都市圏などでの県産品の販路を拡大する。

・金融支援や経営サポート強化により、震災の影響による倒産や廃業を最小限に食い止め、再生を図る。

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19、観光産業の早期回復と新たな観光戦略の展開

・地震による風評被害を払拭し、観光需要の早期回復を図る。

・震災により傷んだ観光産業の施設・設備を、2017年度(平成29年度)末をめどに復旧 させるとともに、熊本の観光を牽引す新たな資源を発掘し磨き上げる。

・3年後の国際スポーツ大会開催に向けて、インバウンド対策を強化する。

・熊本城や阿蘇の復興過程を新たな観光資源として活用する。

・これらにより、延べ宿泊者数を震災前の水準 以上に回復させる。

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20、復興を担う人材の確保・育成と若者の県内就職促進*

・復興を着実に進めるために必要な人材を確保・育成する。

・魅力ある企業の増又は掘り起こしにより、若者の県内就職を促進し、人材の県外流出を抑制する。

hukkoutuioka1-20.jpg21、農地・農業用施設の早期復旧及び大区画化や農地集積と併せた基盤整備

・2018年度(平成 30 年度)までに農地及び農業用施設の復旧を完了する。

・単なる原形復旧ではなく、大区画化とあわせた農地集積を行い、未来につ ながる基盤整備を実施する。

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22、大豆への作目転換を機とした営農体制の強化

・大豆等の作付転換を円滑に進め、被災農業者が震で困難となった農地での営農継続または再開できるよう支援する。

・被災圃場の整備とあわせた農場の大規模化や作物転換による収益性の高い土地利用型農業の確立を図るとともに、広域農場などの連携によるコスト削減の取組みやその経営理念などを県下全域に波及する。

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23、被災畜産農家の復旧と地域ぐるみの復興による生産基盤の強化

・被災した畜産農家が経営再開のために行う施設整備や家畜の再導入等を支援し、2017年度(平成29年度)末までの復旧完了を目指す。

・乳業工場や家畜市場、牧野等の施設の復旧を2017年度までに完了するとともに、地域ぐるみの家畜・畜産物の安定的かつ効率的な生流・流通体制を構築する。

・畜産クラスターの仕組みを活用した地域ぐるみの復興を支援し、生産基盤のさらなる強化を図る。

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24、カントリーエレベーターや選果場などの共同利用施設の復旧・再編と災害時補完体制の構築*

・2016年度中にカントリーエレベーター等の共同利用施設の復旧を完了する

・将来的な土地利用型農業を見据えた効率的な集出荷体制を確立するため、2017年度までに広域的な施設の再編・統合を図る。

hukkoutuika2-24.jpg25、農業生産を支える労働力確保対策と産地づくりの推進*

・労働力確保が困難な被災地の農家や農業関連施設等での活動を支援するため、被災地の不足する労働力を補完する仕組みと体制を2016年度中に整備する。

・労働力補完システムを活用して生産力を強化し、競争力のある産地づくりを進める。

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26、木材住宅のイメージ回復と新たな工法を活用した復旧・復興

・仮設住宅建設における木材利用を進める。

・木造建築物の強度など正しい情報を発信し、木造に対する誤ったイメージの払拭を図り、木造建築物の耐震性に関する信頼度を回復する。

・木材の特性を生かした新技術の普及など、新たな復旧方法の実用化に向けた環境整備を図る。

・木材需要の増加に対応する木材生産力を強化する。

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27、港湾施設(八代港等)の整備

・災害時の支援拠点となる八代港・熊本港において、耐震強化岸壁の整備促進を図る。

・八代港への年間70隻以上のクルーズ船及び世界最大級 22 万トン級クルー ズ船の寄港実現に向けた受入環境整備を2018年度(平成30年度)初旬までに完成さ せる。

・八代港のさらなる物流・人流機能向上に向け、ガントリークレーンの増設などの取組みを推進する。 h26_R.jpg

28、国際スポーツ大会等を通した復興する熊本の世界への発信*

・震災復興の目標地点として、平成31 年(2019)女子ハンドボール世界選手権大会とラグビーワールドカップの開催準備を着実に進め、大会を成功させる。

・国際スポーツ大会の開催の効果(レガシー)を次の世代へ継承する。

・熊本への応援気運の高まりやくまモン人気を最大限に活用した復興支援プロジェクトに加え、熊本城・阿蘇の復旧・再生を通じて、復興する熊本の姿や感謝の心を世界に発信する。

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初動対応、初の「プッシュ型支援」評価 政府が検証リポート    2016年7月20日

政府が熊本地震の初動対応を検証したリポートをまとめました。熊本支援にあたった公務員らによかった点や反省点をあげてもらい、細かい項目まで◯X△で採点しています。

熊本地震で政府は、官邸とともに熊本県庁に現地対策本部を設けて初動対応にあたり、「K(くまもとのK)9」と呼ばれた各府省の幹部級会合が中心となって、支援物資を自治体の要請を待たずに送る「プッシュ型支援」を初めて本格的に行いました。リポートでは、プッシュ型をとったことで、水や食料の不足感の早期解消につながったと評価しています。一方で、物流拠点に支援物資が滞り、避難所まで行き渡らないという課題があったことなども指摘しています。

政府はこの検証を通じて自治体や物流会社との役割を記したマニュアルを整備する方針です。リポートは地震の初動対応について細かく記していますが、霞が関特有のわかりにくい言葉が多いので、可能な限りわかりやすく言い換えた上で、全文を紹介します。

* * *

1、今回の検証作業について

熊本地震にかかわる初動対応について、時をおかずに派遣された職員の生々しい実務経験を聞き、検証した。評価できることにはmaru_R.jpg、反省、改善すべきことにはbatu_R.jpgsannkaku_R.jpgをつけた。速やかに対応すべきものは見直しの方向性を示した。幹部職員からの報告に加え、現地で実務に当たった職員等149名から提出されたレポートなどをもとに議論し、評価すべきこと、改善すべきことをまとめた。

2 初動対応の体制

4月14日の前震発生直後に政府に非常災害対策本部が設けられ、6月16日時点で31回開かれた。安倍首相も20回出席し、被災状況の把握、応急対策の総合調整などを直接指揮した。本部で決められた対策をすばやくスムーズに行う司令塔として、4月17日に内閣官房副長官をトップとする被災者生活支援チームができた。この下に連絡調整グループが置かれ、ほぼ毎朝開かれた。

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発災翌日に熊本県庁に非常災害現地対策本部(現地対策本部)を設けた。副大臣を本部長とし、①現地での対策の企画立案・調整②物資調達と配送③自治体と避難所④健康と衛生環境⑤学校再開⑥経済産業と中小企業⑦がれき廃棄物処理――の7チームを置き、最も多いときは110名が仕事にあたった。

被災者生活支援チームとして12省庁から68人のリエゾン(連絡役)が市町村に派遣された。このほか6月20日現在で7省ののべ8388人が応援職員として市町村に派遣された。

3.自治体支援

(1)現地対策本部

【幹部級会合(K9)】

jmaru_R.jpg現地対策本部は各府省の局長・審議官級の幹部職員を現地に派遣し、9人で現地本部のいわゆる幕僚で組織した。この組織はK9(Kは「熊本」の頭文maru_R.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像字)と呼ばれ、K9のもとで毎日、定例会議を開き、すばやい意思決定、省庁の垣根をまたいだ支援、県幹部と直接の協議などを実際に行った。この点は熊本県、市町村からも評価されており、今後の災害対応のモデルとなり得る。

jbatu_R.jpg現地対策本部の幕僚は課題が出てくるたびに拡充されて最終的に9人となったが、最初から災害廃棄物処理や学校再開にも見通した体制を整備すべきだった。

災害の状況に応じた現地対策本部へのすばやい幹部職員の派遣など、より実践的な現地対策本部のあり方について、速やかに見直す。

【市町村の状況把握】

jbatu_R.jpg現地対策本部は当初、主に県を通じて状況をつかもうとしたこともあり、一部の被災市町村の状況が正確につかめない状況だった。国や県の職員を新たに投入したが、一向に事態が改善しない状態が続いた自治体もあった。


jmaru_R.jpg「K9」にいた県・市町村の事情をよく知る幹部職員が、このままでは被災した自治体が指揮をとるのは難しいと判断し、新たに国が課長級職員を約1週間派遣して指揮をとれるように組み直した。これによってようやく被災した市町村が災害に対応できるようになった。


jsannkaku_R.jpg被災した自治体の状況をよく知る幹部職員がいつも現地にいるとは限らない。市町村と日ごろから交流のある都道府県がきちんとすばやく市町村の状況をつかみ、人を送り込む必要があるかどうかを判断できるようにしておくべき。


【国と都道府県の情報共有】

jmaru_R.jpg国と都道府県が状況を共有し、効果的に支援するには、顔の見える関係をすみやかにつくることが重要。「K9」と県幹部が毎日、会合を持ち、各府省庁から県庁に出向した経験がある職員が現地対策本部に投入され、国・県双方の情報共有や意思疎通がスムーズに進んだ。

【道府県・政令市との役割分担】

jbatu_R.jpg160704hukkoui.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像発災からしばらくの間は、熊本市の状況をつかむことが難しかった。平時には県と政令市はお互いに並び立つ並列型の関係での業務をすることが多く、急に直列型の上下関係に移れなかったのが理由と思われる。

jmaru_R.jpg国の9人の幕僚「K9」と熊本県の幹部との協議の場に熊本市の幹部が入ったことで、ようやく熊本市の状況がよくつかめるようになった。

災害時の道府県と政令市について、情報収集や支援策が混乱なく行えるよう役割分担をはっきりさせる方向で見直す。

【広報対応】

jbatu_R.jpg誤った情報が流れて混乱し、その確認のために職員の負担が増えたケースがあった。

情報を集約、整理している現地対策本部がマスコミ対応を行っている都道府県と協調して対応する体制を強化するために、広報対応のあり方もすぐに見直す。

【地元調整の促進】

jmaru_R.jpg物資を輸送し、災害廃棄物を処理し、道路などのインフラを復旧させるためには、地域外から支援を受け入れたり、物資を運ぶため港を順序よく利用したりする必要があるが、その調整を被災した自治体がすばやく進めることは難しかった。こうした局面で国が業界団体に働きかけたことは、一定の役割を果たした。

(2)リエゾン(連絡役)

【リエゾンの評価】

jmaru_R.jpg初動対応で、自治体の状況や要望を国が直接つかむため、被災した市町村に国の職員をリエゾンとしてすぐに派遣したのはよかった。被災した市町村の要望が国に直接伝わり、被災地の状況も現地対策本部に報告できた。

【リエゾン業務の課題】

jbatu_R.jpg派遣された国の職員に対するサポートが十分でなく、業務内容に関する十分な説明もないままに現地に派遣されたケースもあった。


jbatu_R.jpg派遣を受ける被災市町村もリエゾンに関する認識がはっきりしておらず、到着したリエゾン職員への対応がスムーズにいかなかったところもあった。

リエゾンとして派遣される職員向けのマニュアルをすぐに作り、必要な研修を行う。受け入れ市町村に向けたガイドラインやリエゾンの活動状況を国、都道府県、市町村が共有する仕組みを作り、リエゾンに対する指揮系統をはっきりさせる。

(3)応援職員

jsannkaku_R.jpg初動対応では被災市町村からの要請を待たず、国の職員をプッシュ型で被災した市町村に直接送り込み、支援に当たらせた。応援職員として派遣された熊本県所在の地方支分部局職員をはじめとする国の職員が本来業務とは異なる業務に献身的に取り組んだこともあって、停滞していた市町村の災害対策本部の機能を回復することができた。このプッシュ型人員派遣の果たした役割の意義等については、今後、受入市町村等からの評価もまたなければならない。

【応援受入体制の整備】risaicyousa_R.jpg

jbatu_R.jpg当初は市町村側の環境整備ができていなかったため、国から応援に入った職員が、ボランティアやNPOとともに十分に機能を発揮して働けなかった場合もあった。

jbatu_R.jpg他の自治体からの応援に入った職員などが活動していたことも、現地対策本部と被災した自治体の間で情報が共有されていなかった。

jsannkaku_R.jpg被災した市町村を応援する職員は、まず地元の状況をよく知る都道府県職員が派遣されるのがよい。その上で、被災した市町村の運営の立て直しが進まなかった場合は、国の職員や被災した地域に接する都道府県の職員を追加で派遣して支援に当たらせることができる体制をとるのがよい。

市町村におけるボランティア、NPOを含めた応援職員や物資の受け入れなどをはっきりさせる計画を作り、訓練して計画を実のあるものとし、職員が出勤できないことも想定したBCP(事業継続計画)を作ることなどについて、市町村に対して必要な支援をする。
避難所の夜間警備や避難所の運営支援などで民間企業やNPOなどと活用・連携できるよう、すぐに避難所運営ガイドラインを見直す。

【防災拠点の耐震化】

jbatu_R.jpg市町村の業務が停滞した大きな要因として、庁舎が被災し、自治体としての一体的な執務継続ができなくなったことがあげられている。

庁舎に限らず体育館等の防災拠点については、いざというときに機能できるよう、耐震化や天井落下を防ぐ措置などを進める。

(4)職員派遣の環境整備

【派遣に向けた職員登録等】

jsannkaku_R.jpg初動対応ではプッシュ型として、被災した自治体からの要請を待たず、幹部を含めた国の職員を被災地に派遣した。


jmaru_R.jpg派遣職員に被災地の勤務経験があったり、出身地だったり、何らかの土地勘をもっていたりしたことが現地での調整などによい結果をもたらした。

いつも被災地に土地勘がある職員がいるとは限らない。災害対応の経験があることに重きを置き、経験者を中心とする派遣職員リストをすぐ作り、派遣に向けた研修や訓練を行う。派遣する職員は、現地に最も近い国の機関の職員の中から選ぶ。

【り災証明の交付支援】

jsannkaku_R.jpg最も多いときには50人の国の職員、632人の他の自治体の職員が、り災証明の交付を支援するため被災した市町村に派遣された。これらの職員の多くは、り災証明のための調査に関する知識や経験を豊富に持っていたわけではなく、急きょ現地で研修を受けて実務に当たった。

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jbatu_R.jpgり災証明を交付するための一次調査は、雨天の時にどのように行うか準備をしておらず、雨対策を考えておくべきだった。

jsannkaku_R.jpgり災証明書については、証明書がなくてもいろいろな手続きが行えるよう手続きの弾力化を進めたが、手続きを弾力化したことを広く知らせ、徹底することが重要。

り災証明の交付に必要となる調査について、雨天時の対策をとり、調査を担当する調査員を各都道府県で日ごろから養成・登録する仕組みを作っておく。

【執務環境、生活環境、勤務条件】

jbatu_R.jpg被災地に派遣されたなかには、業務に必要な支援が足りず、私物の携帯電話を使ったり、宿泊先や食料を全て自分で用意したりした国の職員がいた。


jsannkaku_R.jpg民間団体の職員も含め、派遣職員のために公務員宿舎や公営住宅を活用することも認めるべき。宿舎の安全性確保などの対応も必要に応じて行うべき。

自衛隊の駐屯地を活用するなど派遣職員の活動拠点を設け、しばらくは自給自足できるよう、日ごろから自衛隊や各種機関と連携する体制を作っておく。派遣された職員の宿舎の確保、勤務管理などのルール、手当てなどについてもすみやかに検討する。

4.避難所運営

(1)避難所の状況把握

jbatu_R.jpg避難所の状況は被災自治体も十分に把握できている状態ではなかった。

避難所や車中泊の状況をつかむためにも、避難者の名簿を簡単に作れるよう、住民のデーターベースを活用できる制度を考えておく。

【SNSなどの活用】

jsannkaku_R.jpg自治体が避難所に指定していない場所に避難する人や、自宅近くに車中泊する被災者も多く、そのような人たちがどれくらいいて、どういう状況なのか、つかむのが難しかった。情報不足を補うものとして、SNSなどの情報が期待された。

jbatu_R.jpgSNSの情報を活用することは、状況を十分につかめていない初期段階では有効だが、情報量が膨大となり、事実かどうかを細かく確認することは現実的に難しかった。


jbatu_R.jpg当初はSNSの情報を東京で集めて取りまとめ、現地対策本部に伝えたが、タイムラグが生じて情報が古くなってしまった。


jsannkaku_R.jpgSNSを活用したきめ細かい情報への対応は、NPOなどボランティアの協力も必要。

SNSなどが本来持つ性質を考えた上で、現地対策本部でのSNSなどの情報の活用のあり方を整理する。

(2)保健衛生確保

jsannkaku_R.jpg避難所では多くの被災者が共同で寝起きを共にし、衛生確保が大きな課題となる。避難所運営ガイドラインでは想定していない事態にもすばやい対処や判断が求められる。

各地で進められている避難所運営のノウハウを集めた事例集を年度内に作成する。

【トイレ】toilet.png

jsannkaku_R.jpg仮設トイレの設置は男女それぞれ必要な個数を設け、和式・洋式を両方用意すべき。



jsannkaku_R.jpg仮設トイレのくみ取りについては、地元の清掃団体が連合会を作って県と密接に連携して進めたが、他の地域で常にバキュームカーの手配が円滑に進む保証はなく、民間企業も含めた事前の準備が必要。


jsannkaku_R.jpg避難所では日々の清掃で高校生が中心的な役割を担った例などが見られた。トイレの水を近くの川からくみ上げ、トイレ備え付けのタンクに入れる作業を避難者が行っていた例もあった。

避難所の自主運営を考える中で、衛生管理等の観点からトイレの維持管理についてあらかじめルールを設けておけるよう、事例集を作成する。

【感染症】

jsannkaku_R.jpgひとたびノロウィルスなどの感染症が発生した場合は、患者の隔離が必要となる場合もあるが、避難所の中で新たに隔離スペースを確保するのは難しい場合が多い。

施設利用計画の予備スペースの確保、感染症が発生した場合のトレーラーの活用、感染者の移転など、感染症対策について整理しておく。

【その他衛生管理のための改善】

jsannkaku_R.jpg衛生管理を徹底するためには、定期的に避難所全体を清掃することが効果的。そのためには避難している人に短期間、避難所から移転してもらうのが効率的で、この点、今回、自衛隊が行ったホテルシップ事業などが活用できる可能性がある。

jbatu_R.jpg東日本大震災で得た教訓の多くは、すでに現行の避難所運営ガイドラインなどに反映されている。にもかかわらず熊本地震の初動対応では実行されなかったとこがらもある。初期段階の避難所では、マニュアル等に定められているルールを広く知らせることができなかったところもあった。

運営に当たる市町村職員などが、あらかじめ避難所の運営ガイドラインをよく知り、避難所を設営する訓練が行われるように、避難所運営ガイドラインを、より分かりやすく実用的なものにすみやかに見直すとともに、市町村に対する講習会などを行う。

(3)生活環境の改善160530jiei-2_R.jpg

jsannkaku_R.jpg初期段階では、水や食料の確保が一番の関心事となるが、時間がたって避難所での生活が安定してくると、被災者の要望は避難所の環境改善に向かう。

【自衛隊への評価】

jmaru_R.jpg自衛隊がすばやく生活を支援する活動を始め、食事や風呂がすぐに提供された。さまざまな資格を持ち、地域に根付いた即応予備自衛官を招集し、活動を始めたことでさらに環境が良くなった。即応予備自衛官や予備自衛官をより早くから活用すべき。

【警察への評価】

jmaru_R.jpg女性警察官などが地震の発生当初から避難所を訪ねて対応にあたったことで、女性の被災者をはじめとする被災者の細かな要望をスムーズにつかめるようになった。

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【プライバシーの確保】

jsannkaku_R.jpgパーテーション(間仕切り)の導入が求められたが、一方で配慮が必要な人の体調がつかみにくくなるなど、問題点もある。また、女性のために更衣室や授乳室等の設置も求められたが、避難所の開設後にスペースを確保するのは難しい場合もある。

避難所の施設利用計画の策定に女性も参加するなど、市町村が策定段階で留意すべき事項、参考とすべき事例等を整理し、周知する。

【福祉避難所】

jbatu_R.jpg高齢者、障害者等に対し、適切なケアを提供できるように福祉避難所が設けられた。しかし、被災地での認知度が低く、配慮が必要な人以外の被災者も多数避難してきたことから、物資の不足や介護職員等の体制確保に支障が生じ、特性を十分に発揮できなかった。

市町村の職員をはじめ関係者に対して速やかに福祉避難所に関する周知徹底を図り、福祉施設などの被災情報や必要度がつかめるよう、情報伝達のルートを事前に整備しておく。

【ペット問題】

jbatu_R.jpgペットを避難所に同行することは許されたが、避難所内での取り扱いが課題となった。公衆衛生上の観点、近隣トラブルの観点などからは別居が必要となる一方、ペットは心の支えとなっており、ペットを切り離した避難を考えることも難しい。今回、避難所内でペットをどこまで受け入れるかなどの取り扱いが周知されておらず、対応に苦慮した例も見られた。

避難所内におけるペットの取り扱いについては、混乱を防ぐために一定の考え方や留意点、様々な事例等をまとめて周知する。

【情報提供】

jbatu_R.jpg被災者に対する情報提供は、避難所の実情に沿って壁に新聞を張り出す形で行われ、政府から被災者に情報を伝えるため活用された。ただ、情報量が多く、新しい情報に更新されたこともわかりにくかったため、きちんと被災者に伝わらなかったこともあった。

避難所での情報提供のあり方については、新着情報が優先され、常に目立つ位置に掲載されるようにすることなどを避難所運営ガイドラインに示す。

【生活環境の改善に向けた課題】160528gakuendai_R.jpg

jsannkaku_R.jpg避難所の開設から時間がたつにつれ、生活環境に対する問題点が意識されるようになった。施設の利用や、支援物資や人が動くためのルート(動線)の確保などについて事前に気配りしておけば、もう少し効率的に運営できた場合もあった。

jsannkaku_R.jpg真夏日など暑さ対策が課題となり、空調設備の必要性が改めてわかった。


jsannkaku_R.jpg避難者のさらなる環境改善のためには、避難所の再編・統合への備えが必要。再編・統合先の避難所などをなるべく早く修繕しておく。同時に、自宅での生活ができるように生活インフラの復旧などを進めることも重要。上下水道の復旧は、家屋や敷地までの管路復旧は順調だったが、敷地の中の管路の被災により水道やトイレの使用再開が遅れた例もあった。敷地内の管路の耐震化も重要。被災者に対し、管路の状態を確認する方法や、復旧にあたる事業者への連絡方法などを情報提供し、情報提供の方法も改善して効果があった。

jsannkaku_R.jpg熊本地震では、刑務所や研修所など国の施設も避難所として活用された。これらの施設は、備蓄があったことや施設の立地等の個別の事情もあり、結果的には被災者の受け入れができた。

事前に避難所の施設利用計画を作り、その中で支援物資の置き場所や予備スペースの確保をはっきりしておくよう、速やかに市町村に周知する。避難所となる国の施設を事前に登録しておく。

(4)避難所以外の避難形態

【車中泊】syacyuuhaku_R.jpg

jsannkaku_R.jpg避難所に身を寄せず、日中は自宅で生活しても夜間は近くの駐車場などに車中泊する被災者が多く見られた。


jsannkaku_R.jpg車中泊はエコノミークラス症候群の要因にもなるため、十分なケアが必要。車中泊は、地震への恐怖やプライバシーの確保、自宅の防犯等さまざまな観点から選ばれており、今後の災害でも生じると考えられる。車中泊で留意すべき事項を周知することが必要。車中泊を解消しやすくするため、より安全な避難所の確保、避難所の生活環境の改善、地区の治安確保等を図ることも効果がある。

【テント泊】mashikitento_R.jpg

jsannkaku_R.jpgテントについては、車中泊の課題を解消し、かつ、プライバシーが確保されるなど、避難初期においては効果があった。ただし、降雨や気温上昇には弱く、夏季の避難等では利用できないと思われる。冬季についても同様であろう。

jsannkaku_R.jpgまた、今回の初動対応では、自衛隊が保有するテントを被災自治体に貸与したケースがあり、生活環境の改善に一定の効果があったものの、テント居住がはじまるとプライバシーの観点から、テントの中は自治体職員等が確認することが困難となることから、その管理責任等について、自治体側の不安感が残った場合があった。

災害が発生する季節によって注意点が異なることも踏まえつつ、車中泊、テント泊等の避難形態に応じて必要となる対策を、速やかに避難所運営ガイドラインに示す。

(5)体制整備

【市町村の役割】

jsannkaku_R.jpg避難所運営を適切に行うことは、被災者の生活支援の第一に考えるべきことで、市町村職員の負担を減らしてマンパワーを確保し、復旧を全体として進める上でも重要。

避難所の運営は、被災地の地理や住民、地域の諸事情に最も詳しい市町村が主体的に担うべきであるが、一方で、その負担が大きいのも事実。被災市町村が、経験のある他の自治体やNPO、民間企業、団体等の支援を積極的に受け入れつつ、早期に避難者による自主的な運営ができるよう、速やかに避難所運営ガイドライン、様々な取り組みの事例集を作り、市町村に周知する。

【学校関係者との連携】

避難所の多くが学校に開設されたことから、初期段階では教職員に大きな役割を担ってもらった。

学校再開も見据え、初期段階から災害対応の担当職員が学校関係者とも連携を円滑に進めておく。

【NPOとの連携等】hinanjo_R.jpg

jsannkaku_R.jpg避難所の運営ではNPOとの連携が効果を上げた一方、職員がNPOとの付き合いに慣れておらず、混乱が生じた場合があった。


jsannkaku_R.jpgNPOとの情報共有は行われたが、多数の避難所の刻々と変化する情報が十分に共有されず、避難所の要望をNPO側がつかめず、支援が行き届かなかった場合があった。


jbatu_R.jpg被災者の衛生管理等を図るため、多くの医療チームや保健師チーム等が被災地に入り、被災者のケアを行ったが、それらの情報が共有されなかった場合があった。

職員とNPO等との連携を強化するため、速やかに担当者同士の交流のための場づくりを行う。被災地に派遣される医療チームや保健師チーム等を管理する機能をつくる。

【自主運営】

jsannkaku_R.jpg避難所の運営では自主運営をもっと取り入れるべき。発災当初は難しくても、できる限り速やかに自主運営を行ってもらえるよう、平時から地区の区長などに加わってもらい、現地レベルで避難所運営のあり方を検討しておくべき。避難者が積極的に避難所の運営に協力することがいかに重要か、国民に広く周知徹底する。

避難所運営を担う専門家の育成、登録等を行うために必要な仕組みを作る。

5.物資輸送

(1)支援物資の輸送システム

【プッシュ型物資輸送】160419oonishi-2_R.jpg

jmaru_R.jpg被災直後の支援物資の輸送では、被災地からの要請を待って行う「プル(引っ張る)型」ではなく、必要と見込まれる物資を国から被災地に送り込む「プッシュ(押し込む)型」を大規模に行った。これにより発災直後の自治体の負担を軽くしながら、水、食料といった主要物資の不足感がなくなり、被災者に安心感を与えることができた。

jmaru_R.jpgプッシュ型輸送は一度に大量の物資を調達する必要があり、関東地方や中部地方からも食料等を輸送した。被災地には自衛隊の高遊原分屯地(熊本飛行場)があり、物資の送り出し地としては埼玉県の入間航空基地や愛知県の小牧航空基地があったため、自衛隊の航空輸送も活用できた。今後、自衛隊の航空輸送のさらなる活用も視野に入れるべき。

プッシュ型の物資輸送は、東日本大震災の反省を受けて、熊本地震で初めて本格的に行われた。今回分かった課題に対処するため、関係マニュアルなどを全般的に見直す。

【ラストワンマイル】

jbatu_R.jpg国が事前に想定していたのは広域物流拠点への搬入までで、そこから先の避難所までの「ラストワンマイル(最後のごく短い距離の輸送)」については具体的な計画がなかった。個々の避難所までは市町村が届けてくれると期待するのは、特に被害の大きかった市町村には難しかった。被災市町村も避難所までの物資輸送のための計画がなかった。このため、被災市町村の物流拠点から先の物資輸送は、運送会社のほかに自衛隊やNPOが担当することになった。

川上から川下まで、自衛隊も含めた国、都道府県、市町村、物流事業者等がその特性を最大限に発揮して協働できるよう、WGで検討した上で、災害時の物資輸送における役割分担を関係マニュアル等の中で明確化する。

【物資拠点】

jbatu_R.jpg最初に広域物流拠点を設けた佐賀県鳥栖では、物流拠点の営業時間が限られていた日があり、時間外に到着したトラックが場外で待機せざるを得なかった。


jsannkaku_R.jpg物流拠点は、自衛隊との連携を考えて、ヘリコプターによる航空輸送もできるよう、大型ヘリが離・発着できる自衛隊基地と隣接する施設や、大型輸送ヘリが離発着できる施設を優先すべき。



jsannkaku_R.jpg物流拠点では、大量に運び込まれる物資の仕分けなどに多くの人員が必要となることに計画段階から頭に入れておくべき。

災害時に常時利用可能な拠点を速やかにリストアップする。耐震性の確保、非常電源の準備など、施設を持つ事業者の負担が必要となるため、事業者の協力が得られる仕組みを整備する。

【支援物資】

jsannkaku_R.jpg被災地で必要とされる物資は刻々と変化していく。被災直後は水・食料がまず必要とされた。特に食料は被災後数日はおにぎりやパンなど直ちに食べられるものが求められ、数日するとニーズが多様化した。避難者は不安が高じて支給された食料をため込む傾向があったため、衛生上の観点からも、日持ちする食料を準備する必要があった。

jsannkaku_R.jpgある程度状況が落ち着き、水・食料が足りてくると、避難者のニーズは生活関連物資に移る。生活関連物資のうち数が少なくてもいいものは、国が一括して受発注するより、きめ細かく現地で調達するのが適当だった。


jbatu_R.jpg要望が移り、時期を外してしまった支援物資は消費されずに無駄になるだけでなく、物資輸送拠点や避難所に積み上げられ、効率的な運営を阻害してしまった。


jsannkaku_R.jpg例えば簡易トイレは被災直後には必要だが、時間が経つにつれいらなくなる。被災初期に必要な物資や大量に必要な物資は各地域で備蓄しておくべき。


jsannkaku_R.jpg全国から善意の支援物資が被災地に届けられたが、必ずしも現地の要望にあわなかったり、目前の災害対応に追われて現地での受け入れが行き届かなかったりした場合も多く、事前に調整するシステムを検討すべき。

支援物資は季節なども考慮した上で、必要な物資のリストや必要な数量の算出方法、物資管理を適切・効率的に行う方法などを関係マニュアルなどに記す。

【備蓄の必要性】

jsannkaku_R.jpg発災後に発注した食料が工場から出荷されるまでには日時がかかり、被災直後に大量の支援物資をすばやく配送することは難しい。災害発生後、少なくとも3日程度は外部からの配送がなくても必要な物資が足らなくならないように、自治体による備蓄状況を常日ごろからチェックするほか、各家庭でも最低限の水・食料、携帯トイレ等を備蓄しておくべき。家庭における備蓄が進むよう、備蓄に適した食品開発の推進が必要。

水・食料等の備蓄の必要性については、防災推進国民会議のネットワークを活用する等、様々な機会を活用して啓発活動を速やかに徹底する。

(2)輸送状況等の把握

【初期の状況把握】

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jbatu_R.jpg被災後一定期間はプッシュ型の物資輸送を行ったが、どのような物資が発注されたか、発送されたのか、今どこまで来ているか、在庫状況はどうかといった発注・輸送状況をつかむ仕組みがなく、物流拠点で無駄な待機時間があるかと思えば、夜間に急に大量の物資が搬入されるといった混乱が生じた。災害が発生してからでは、輸送状況や在庫状況をリアルタイムで知るシステムを作るのは難しく、事前に運送会社と連携した取り組みが欠かせない。

jbatu_R.jpg災害発生当初、国は広域物流拠点に搬入すればいいと考え、発送したかどうかの情報しかつかんでいなかったため、物流が滞った場合に素早い対策がとれなかった面がある。支援物資については官民が連携して、到着時点の情報も管理すべき。

国や都道府県、市町村、メーカー、運送会社が、発注状況や製造、輸送の状況などを共有できるようにマニュアルなどを整備し、それを受けて物流情報管理システムを速やかに作り始め、災害発生時に関係機関がシステムを使いこなせるよう訓練を行う。

【タブレットの導入】

jmaru_R.jpg必要な物資が何かを知り、調達・配送したかどうかをチェックできるタブレットを使ったシステムを導入してからはリアルタイムに避難所ごとに必要なものをつかめるようになり、手間と時間を大幅に減らすことができた。避難所や福祉施設、病院等の電気・ガスなどのインフラ状況の把握にも有効と考える。

jsannkaku_R.jpg一方、新たにタブレットを導入したため、機器配布や利用方法の説明などに約2日かかった。最初からシステムが導入されていればよかった。

通信網が被災した場合の対応も含めて、被災後の迅速な導入・稼働が可能となるよう、今回導入したシステムをもとに、避難所等のニーズ把握のためのアプリやWebシステム等の開発・活用を図る。速やかに自治体が事業者と協定を結び、共同訓練を行うよう支援する。

(3)事業者などとの連携

【事前協定】

jsannkaku_R.jpg支援物資の輸送では、各場面で民間企業の協力が不可欠だった。例えば、避難所までの輸送は自衛隊の協力も得たものの、物流システム全体の運営は運送会社のノウハウ提供などがなければ難しかった。日ごろから運送会社と協定を結んで人や器具の確保について訓練などをしておくべき。

jsannkaku_R.jpg食料メーカーは自社トラックなど自前の輸送力を持っており、そのシステムをそのまま活用する方が食料を避難所に素早く輸送できる場合があった。


jsannkaku_R.jpg市町村がつかんでいない小規模の避難所向けの物資輸送には、NPOが活躍した。こうしたきめ細かい対応は、民間の自発的な活動に支えられるところが大きく、日ごろから連携を強化しておくべき。

日ごろから運送会社やメーカーと協定を結び、必要な人や器具の確保ができるのか確認する訓練を行う。災害時の物資輸送に従事した企業やNPOの協力に報いることができるよう、表彰のあり方について検討する。

【コンビニ等の小売事業者】

jmaru_R.jpg被災地で物資は十分に足りていると感じられたのは、コンビニが早期に営業を再開し、商品の量が十分に確保できたことが大きかった。運搬車両の緊急交通路の指定は行わなかったが、道路の管理者が一般車両の通行ができない区間について、コンビニの運搬車両の通行を認めたことが役立った。

コンビニの運搬車両を一般車両と別扱いにして、できるだけ早期に緊急の通行が認められるように必要な手続きをすみやかに整理する。

(4)物資輸送のための体制160708asohukkou1_R.jpg

【指揮系統】

jbatu_R.jpg非常災害対策本部では物資調達・輸送班(C4班)が物資の調達、輸送を指揮し、現地対策本部には自治体と現地調整を行うチームが設けられていた。しかし、実際の物資の調達では、担当省庁を含めた意思決定ルートが複雑かつ不明確で、たびたび情報が錯綜し、意思決定が遅くなった。

jbatu_R.jpg被災地からの必要物資に関する要請が、被災市町村から現地対策本部に伝えられたり、直接県に伝えられたりしたため、要請が漏れたり重複したりして、しばしば混乱した。


jsannkaku_R.jpg避難所への自衛隊の輸送活動は評価されているが、一方で、現地対策本部と自衛隊との連携が不十分な場合があった。

物資の調達や輸送について、すばやく意思決定ができるよう、自衛隊や関係機関による輸送全般を統括する機能も含め、役割分担をはっきりさせて指示や伝達ルートを簡素にするなどの見直しをすみやかに見直す。避難所、現地対策本部、都道府県が情報を共有できるよう、アプリやWebシステムを活用する。現地対策本部と自衛隊の現地指揮所との間にリエゾン(連絡役)を派遣するなど、密接な情報共有の方法をすみやかに作り上げる。

【費用負担】

jbatu_R.jpg被災地で物資の調達が必要かどうかを判断するのに、調達する物資の費用をだれが負担するかがはっきりせず、自治体が費用がかかることを心配して要請を取り下げたり、自治体が要望してきた物資を国が発注できなかったりするなど、国と自治体双方の判断が遅れた場合があった。

災害救助法の適用や予備費を使用した応急、緊急の支援ができる物資を事前にリスト化してすみやかにみんなが知っておく。災害救助法が適用できるかどうかがはっきりしない物資は、当初から高いレベルですばやく判断できるよう、あるいは緊急に現地で判断できる範囲をあらかじめ決めておくなど、具体的な方法を速やかに示す。

6.その他の気づきなど

(1)被災者生活支援チームについて

熊本地震の初動対応では、現地の対策本部に幹部職員を派遣してすばやい意思決定をすると同時に、東京でも被災者生活支援チームを設け、毎日関係する省庁の局長や課長が集まって対応を調整し、決めていった。

被災者生活支援チームは本震発生翌日の4月17日午後5時に設けられ、その下に連絡調整グループが設置された。18日午前10時に最初の連絡調整グループ会議が開かれたのを皮切りに、途中からは防災担当大臣なども参加し、約1か月にわたってほぼ毎日開かれた。

連絡調整グループ会議では課題と対応状況の確認、次の課題は何か、追加の対応をどうするかの検討・指示などがリアルタイムで行われ、政府としてのすばやい情報の共有と調整、判断に極めて大きな役割を果たした。

連絡調整グループ会議は、

・内閣府防災、現地対策本部の人を増やすなど体制整備にかかわるバックアップ

・内閣府防災の総合調整機能の補完(例えば、仮設トイレとトイレットペーパー、手洗い用水タンクなどの確保は経済産業省、バキュームの手配は環境省、現地までトイレを輸送・設置するのは自衛隊あるいは民間なら国土交通省、被災地のどこに、いくつ、いつ、設置するのがベストかの判断は現地対策本部、というそれぞれの役割の総合調整)

・現地対策本部とのホットラインの維持と内閣府防災、関係府省庁への指示連絡(例えば、避難されている方々や避難所となっている学校の混乱を防ぐ観点から、文部科学省から被災自治体・教育委員会あてに、避難所として使われている学校の扱いについて通知を出すようホットラインで要請され、文部科学省に伝え、文科省からすぐ通知が出された、など)

・ツイッター活用など部分的な内閣府防災の仕事の一時的な肩代わり

などを行った。

今後、大災害が発生した時も、災害の状況に応じて、すばやく効果的に初動対応を進めるため、政府全体として、支援策の企画・調整の司令塔を担う体制を東京ですみやかに稼働させる。

(2)災害対応体制の強化

内閣府防災は被災地で現地対策本部を運営しながら、東京でも政府全体の調整などを行った。しかし、指定職クラスの幹部が限られたり、派遣された職員への支援が十分でなかったりして、対応に支障をきたす場合があった。

内閣府防災は、さらに災害対応機能の強化を図る必要がある。

政府の災害対応の要となる内閣府防災の機能を強化し、海外の事例も参考に、防災対応を専門とする人材を養成・派遣する仕組み、国が持つさまざまなものを機動的・効果的に配分する仕組みの導入、民間企業やNPOとの連携について検討する。

(3)インフラの復旧

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電力や通信、ガス、水道などの生活インフラは比較的早く復旧した。被災者支援をスムーズに行う上で、これらのインフラ復旧が果たした役割は大きい。インフラの復旧は、被災者が自宅で暮らせるようになることを通じて、避難所の再編・集約や、支援物資の減少によるスムーズな輸送にも役立つ。橋が落ちたり、電柱が倒えたりすることで物資輸送や復旧工事が妨げられないよう、緊急輸送に使う道路は耐震化し、電柱をなくすなどの対応を順次進め、日ごろからインフラの耐震化を進める。

被災した時は、企業がインフラの復旧見通しを早く示すことが重要。政府・自治体は、インフラを管理する者が事前に公表した見通しを達成できないことも踏まえるなど、企業が復旧の見通しを示しやすいように努めることが重要。市町村は、優先的にインフラを復旧すべき避難所、病院、福祉施設などについて事前にリストを作っておくべき。

通信インフラは災害に対応するには不可欠。熊本地震では通信インフラが甚大な被害を受けなかったため、初動対応をすばやくスムーズに行うことができた。しかし、通信インフラがいつも被災を避けられるわけではなく、利用できなくなる場合も考えた対応を準備しておくべき。

道路には施設管理用のカメラが設置されている場合が多い。これらの画像は災害時には、被害状況をつかむための貴重な情報になる。熊本地震では一部の管理用カメラや通信インフラが被災して利用できなくなった。カメラ設備の一部が被災して使えなくなっても、情報を補うことができるよう、複数のカメラから情報を得られるようにしておくことが望ましい。

優先的にインフラを復旧すべき施設のリストを作り、すみやかに関係者の間で共有する。通信インフラが利用できない場合に備え、防災担当部局は衛星電話を持つようにする。管理カメラから得られる情報を災害対応にいかすため、防災担当部局は施設管理者との連携をすみやかに強化する。

姜尚中さん講演 「漱石の死生観」              2016年5月14日

SOUSEKINEN_R.jpg熊本地震が発生してから1か月が経過した5月14日、明治の文豪・夏目漱石の生誕150年などを祝う「漱石記念年」のオープニング式典が熊本市で行われました。今年度は漱石の生誕150年、没後100年にあたり、全国の漱石ゆかりの地でさまざまな催しが予定されています。今年は漱石が熊本の旧制第五高等学校に赴任してから120年にあたることから、記念年のオープニング式典は熊本で行われました。

熊本地震で会場に予定していた施設が被災し、開催が危ぶまれましたが、式典は会場を熊本市内のホテルに変更して行われました。全国から大勢の漱石ファンが集まり、熊本地震後に開かれた初の全国的な式典は大いに盛り上がりました。

式典では評論家で県立劇場の館長でもある姜尚中・東京大学名誉教授が、「漱石の死生観」と題して講演を行いました。熊本は1889年(明治22年)7月28日にも大きな地震に見舞われていますが、漱石が来熊したのはその7年後で、漱石自身は熊本で震災は体験していません。しかし、姜氏は地震と県民はどう付き合うべきかを、漱石の死生観から説き起こし、哲学や文明論にも話を拡げて、今回の地震を熊本県民はどう受け止めて、どう生きていくべきかを語りかけました。

会場が変更になったことで入場者が限られてしまいましたが、熊本県民に寄り添い、地震後にどう生きていくべきかの示唆に富んだ姜氏の講演内容を多くの人に伝えたいと考え、主催者側の許諾を得て、以下5回にわたって講演録の形で紹介します。

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◆「因果」は被災した熊本への救い

どうもみなさん、本当にこんなにたくさんおいでになって、ありがとうございます。

皆さんがこの式典においでになったこと自体に大きな意味があると思いますし、この会を開催されるにあたっていろんな方々がご尽力されたことと思います。きょうは、最初は漱石が描く女と男、美の世界などという非常に悠長な題を最初は考えておりましたが、未曾有の事態が起きました。やや大袈裟ですが、死生観という話をさせていただきたい。

夏目漱石の名作『三四郎』*1には竜田山が出てきます。私は熊本に生まれ、小さいころから市内を見下ろす、さほど標高のない、しかし丘というほどでも低くもない竜田山のふもとで過ごしました。西には金峰山が見え、その向こうには名作『草枕』*2の舞台になっている小天(おあま)温泉があります。東を見れば『三四郎』があり、西を見れば『草枕』がある、私はそういう環境で育ちました。

その熊本で、4月14日に大変な事態が起きたわけですが、私はたまさか14日の日は熊本におりました。ある新聞の企画で震災を取り上げようということになり、それは5年前の東日本大震災、福島第一原発の事故などについてでしたが、4月12日は阪神・淡路大震災の取材にも出かけておりました。阪神淡路大震災とは、21年前に起きた未曾有の大震災です。震源地は淡路島でした。大変な数の方々が亡くなられました。いまはメモリアルパークのような、亡くなられた方々一人ひとりの名前が刻まれている場所がございます。そして私は4月14日に熊本に入り、午後に県庁で蒲島県知事ともお会いし、いろいろな抱負を語りあい、午後9時26分、震度7の地震があったわけです。

漱石について語るとき、どうしても省けないことのひとつは「因果」もしくは「因縁」という仏教的な言葉でしょう。漱石の小説を読みますと、初期の『倫敦塔』*3や『趣味の遺伝』*4に始まって、いろいろなところで「因果」という言葉が出てきます。私も何の因果でか、14日に、しかも震災を取材して、自分が被災するとは夢にも思いませんでした。

akacyankyuusyutu.jpg漱石は、因果が尽きない、人間というのは因果が尽きない、その中でしか人間は生きられないという、これは達観なのかどうかは分かりませんが、そういうことを考えていたように思えます。日本を代表する山崎正和さんという著名な劇作家が『方丈記』*5を取り上げながら、「積極的無常観」ということを書いています。明日自分たちは死に絶えるかもしれない。だから今日はどうでもいいかというと、逆だと。だからこそ今日1日を一生懸命生きようというのを彼は「積極的無常観」と述べています。漱石のなかにもどこかそれに近いものがあったのではないか。それは今、この熊本の地に生きる人にとっては、何か救いの言葉のような気がするわけです。

初めての朝日新聞の連載小説となった『虞美人草』*6の中で、主人公のひとりがつけている日記の中に「生死因縁無了期 色相世界現狂癡(しょうしいんねん りょうきなし しきそうせかい きょうちをげんず)」という漢詩が出てきます。この漢詩は漱石が熊本からロンドンに出かけるときに、確か彼も日記のどこかに記していたと思います。人間の生と死の因果はつきない、(先のことは)わからない。にもかかわらず私たちの世界はどんちゃん騒ぎをしている。でも自分は一生懸命生きるぞ、と、そういう覚悟が漢詩の中に込められているわけです。そして、その背後には人間の因果はつきない、なぜ自分はこの世に生まれてきたのかという感情もあるように思えます。

◆人の生死は謎 だから貴い

夏目漱石は慶応3年(1867)に生まれました。しかも親たちから必ずしも歓迎されず、不幸な生い立ちと言えば生い立ちだったと思います*7。自分自身に非常に悩みを抱えていた漱石が、19世紀末から20世紀にかけて、あの大英帝国の首都、ロンドンに出かけていく、その前の4年3か月を熊本で過ごしたわけです。漱石は絶えざる矛盾の中に生きた人だと思います。明治維新が始まって西南戦争があり、そして日清、日露、第一次世界大戦があり、第一次世界大戦のさなかに、彼は50歳にもならずして他界するという非常に短い人生でした。

その中で彼が常に思っていたことは「因果」という言葉です。

私たちは学問をする時に、原因があれば結果がある、原因と結果の間にはある一定の法則性がある、したがってその法則性を導き出せば必ず将来を予測できる、将来を予測できるなら我々は必ずそれを制御できるはず、と考えます。地震も予測できる、大地の揺れを予測できるなら、それを我々は何らかの形でコントロールできるはず、と考えがちです。しかし、実はそうはいかないのです。いつ地震が起きるかわからない。つまり、因果という言葉は、我々がもっている近代科学の一つの万能性というものに対する無力感というものを示しているわけです。


160502gisen.jpg福島第一原発の問題も、東日本大震災も、あるいは阪神淡路大震災も、多くの方々に話を聞くと、「まさか」(こんなことが起きるとは思わなかった)と異口同音に言います。熊本地震もそうだと思います。「熊本は日本で一番安全な場所、いちばんよかとこたい」と、誰もがそう思い、この水と緑と火の国を誰もが愛し、そして日本中で一番いいところだと、皆さんが誇りに思っていたと思います。私のように県外に出た人間も、熊本は唯一、自分たちにとって誇れる場所でした。しかし、そういう場所がこのような形になってしまいました。先ほどの知事の言葉を使えば意地悪な地震、私もまさしくそう思います。14日午後9時26分に震度7の地震が起き、とにかく助かってよかったと思う間もなく、何度も何度も執拗に繰り返される揺れは、今も続いているわけです。

そう考えると私は、「因果」という言葉に関して非常に感銘深いものを感じてなりません。果たして「無常観」と言えるかどうかわかりませんが、人間の生と死は分からない。にもかかわらず人間は日々、喜劇的な生活を送っている。でも自分は生きていくぞ、という漱石の覚悟のほどがその言葉に出ているわけです。人間は生も死も分からない、謎であるというのが漱石の一つの実感ではなかったかと思うわけです。

『虞美人草』に、主人公のひとり、甲野青年の日記が出てきます。その中に、こんな言葉が出てきます。

「宇宙は謎である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく感ずる自分さえも謎である。この世に生まれる者は、解け得ぬ謎を押し付けられて白桃に儃佪し、中夜に煩悶するために生まれるのである」

160511siro.jpgのサムネイル画像人間は何のために生まれてきているのか、それは煩悶するために生まれてきた、と、この日記は語っているわけです。これは多分、漱石の死生観ではなかったかと思います。幸せを求める、あるいは楽にありたい、単に長生きをしたいということではなくて、人間はどういうわけか生まれながらにして、謎を解くように押し付けられてこの世に生まれている、というようなことを漱石は考えていたのではないかと思うわけです。

そういう漱石が今から120年前、熊本にいました。もし、今漱石が蘇ってこの地震を体験したなら、たぶん同じことを述懐するのではないかと思います。漱石は「人間はそういう存在として生まれているからこそ貴い、因果がわからない中でこそ生きるに値するし、また生きなければいけない」ということを生涯いろんなところで語っています。

◆人は互いを「あはれ」と思える

さらに漱石について非常に感銘深いことは、「憐れ(あはれ)」の感情です。憐憫の憐、あわれ、これはただ単に上から下への目線ではありません。今回の震災で見ず知らずの方々が肩を寄せ合い、支え合いました。みんなが人を憐れと思ったと思います、自分自身を憐れと思うと同時に、だからこそ見ず知らずの人も憐れと思えるのです。

maeda-tuna.jpgmayazaki-touten.jpg『草枕』の中で主人公の画工は、憐れを催しているヒロインの那美さんの顔を見て、「それだ」と。「それが自分が求めていた美の究極だ」と悟ります。那美さんという人物のモデルはご存知の通り、前田卓(つな)*8という人で、妹が宮崎滔天*9のつれあいになっています。宮崎滔天と言えば中国革命の父である孫文を生涯サポートした人で有名です。

私の高校にも孫文が揮毫したものがございますし、熊本はそういう点では非常にまあ、女傑と言っていいような方が生まれてくる土地柄でもあります。

那美さんの中にある憐れの表情、この言葉は今、この熊本の地で生きている人にとってどれほど大切な言葉でしょうか。我々は憐れを通じて人への共感を持ちますが、世の中には憐れというものを知らない人々がいます。そういう人々に対する漱石の満身の怒りは『二百十日』*10の中によく表れております。あるいは『坑夫』*11の中にも表れております。

今の世の中は格差が拡がり、そして私たちの想像を絶するような富をかっさらう人々もいます。他人がどうなろうと、自分と富さえ集められればいいという人もたくさんいると思います。漱石は憐れを感じない人に対する強い強い嫌悪に近い気持ちを持っていたと思います。それは『虞美人草』のなかにも表れています。憐れを知らないヒロイン・藤尾について、漱石はある弟子に対して「この人物は死んでもらわなければいけない」という言葉を激烈に吐いております。憐れというものが人間の最後の人間らしさである。憐れを知っているかどうか、そのことが知性や富や、あるいは美貌にかかわりなく、人間が人間たる最後の拠り所であるということです。

そのことを、多分、震災を通じて多くの方々が実感したのではないかと思います。東日本大震災でも「震災ユートピア」という言葉が聞かれました。被災地の住民の方々は、隣国や世界の人が驚くほど整然とし、そして律義で、一人ひとりが助け合おうとしました。その光景を見て世界中の多くの人々が感動をもらったと言われています。震災を通じて、すべての人々が不幸であるがゆえに憐れを催す時、人は初めて、他人の幸福が自らの不幸であり、自分の幸福が他人の不幸であるというすれっからしとしか言いようがない、ぱさぱさと乾いた社会とは違う感情を共有し合える一瞬を持ったのではないかと思います。

この1か月、今でもテント暮らしや、あるいは仮設住宅にも入れない方々がいらっしゃることは皆さんも知っての通りです。甚大な不幸です。人命も失われました。しかし、もしかしたら、それを通じて私たちは憐れというものを感じたのではないか。そして今ここにいらっしゃる方々も、憐れという感情を持つがゆえにここにお集まりになったのではないかというふうに、私自身は感じております。

日本経済の破たんに近い状態が1997年にありました。今から20数年前です。山一、拓銀、長期信用銀行で大変な事態*12が起きました。そして21年前には阪神・淡路大震災も起きました。この約20年で、日本の社会は大きく変わっていきました。格差が拡がり、貧しい人やあるいは憐れな人々に憐れだと感じない、そういう空気が一方で醸成されてきたことも否めない事実だと思います。しかし、そういう空気があっても、この震災という未曾有の不幸の中で、多くの人々がやはり憐れだと思い、だからこそわずかなものであれ、ささやかなものであれ、その人たちに手を差し伸べたいと感じています。人間は欲得ずくで生きると同時に、他者に対する憐れの感情を持っているのです。

フランスの思想家ルソー*13は、「ピティエ(憐憫)」というものは最後の人間の拠り所である」と述べています。恐らく漱石は、『草枕』の画工を通じて、塵芥にまみれた世間とは違う桃源郷(を見たが)、最後は人情の世界に落ち着かざるを得なかった。それ(を表現するには)那美さんという不幸を背負った人物に対する限りない共感として、憐れという言葉が最もふさわしかったのだと思います。漱石の死生観の中に憐れという言葉があるということを『草枕』を通じて、なにとぞ皆さんに理解していただきたいですし、そのような憐れの感情には多分、流産まで追い詰められ、そしてさまざまな障害を持たざるを得なかった妻・鏡子に対する漱石の夫婦愛、小さき者に対する漱石の本当に繊細な心遣いというものが底流にあったのではないかと考えています。

◆熊本は生まれ変われる

今日漱石を読み返すときに非常に胸に沁みるのは、『虞美人草』のなかで取り上げた最後の言葉、「悲劇は喜劇より偉大なり」です。これは私たちにとって、大きな大きな慰めでもあります。東日本大震災の後、私は何度も何度も福島に通いました、福島第一原発のさまざまな付近も歩いてみました。今年に入り、福島第一原発の中にも入りました。村々の周辺の人々にもいろいろな形でインタビューしました。そこで感じたことは「悲劇は喜劇より偉大である」ということです。

KUSAsetuwomamoru.jpg苦しみ、悲しみ、死、病気、様々な災難、しかしこれを通じて人間は粛然とし、日々の喜劇的な生活から脱却して真面目になるのです。あの名作『こゝろ』*14のなかで、「先生」は「私」、学生に対して「あなたは真面目ですか」という言葉を連呼します。真面目、これは漱石の生き方そのものだったと思います。漱石は真面目でした。恐らく、当時のどの作家と比べても漱石は真面目な人だったと思います。言葉の真の意味で真面目な人でした。皆さんも知っての通り、漱石は熊本でたくさんの俳句を残しておりますが、私もとても好きな俳句の一つ「木瓜咲くや 漱石拙を守るべく」という句を、明治30年(1897年)に、この熊本で残しています、

私も木瓜の花がとても好きです。木瓜は本当に小さいけれど、まっすぐと、しかしどこかぎこちなく、決してスマートではない。しかし、この木瓜の中には、漱石の生き方というのが込められています。それは真面目であり、真顔であるということだと思います。

私は熊本から上京して数十年になります。東京はいい、東京は明るい、東京は光に満ちている。不夜城のような東京にあこがれて、『三四郎』ではありませんが、東京に上京して、もう数十年が経ちます。しかし、あの東日本大震災を通じて、初めて私自身は「光あるところには影がある」、まさしく『草枕』のなかで言われている通り、「楽しければ楽しいほどまた憂いも深い」、そういうことを言葉の真の意味で学びました。その意味において、今回の震災は確かに大変な悲劇だと思います。しかし、私はそこから熊本の県民は必ず何かを学ぶと思います。東日本大震災でもそうでした。阪神・淡路大震災でもそうでした。人間は必ず喜劇的などんちゃん騒ぎと祝祭に酔いしれているだけではなく、悲劇を通じて人間の本性というものに目覚める――。漱石は多分そう考えた人だと思います。

kan7.jpgのサムネイル画像我々は苦痛を避け、そして闇を避け、ただひたすら快楽と楽しみと光を求めてきました。戦後70年はとにもかくにも驚異的、奇跡的な経済成長を遂げました。しかしそのために失ったものはあまりに大きいのかも知れません。光あるところには必ず影がある、ということを、さまざまな人間の悲劇を通じて、我々はきっと学ぶことができる――。漱石はそういうふうに考えたのだと思います。

非常に重要なことは、我々は生まれ変われる、「輪廻転生」ということです。今から71年前の8月15日、日本の国民は生まれ変わろうとしたのだと思います。それは見事に、世界の人々が瞠目するほどに成功いたしました。いや、むしろ成功しすぎると思えるくらいに成功したと思います。それはちょうど日露戦争の後に、漱石が『三四郎』を書いた日本に非常に似通っています。司馬遼太郎さんの言葉を使えば、「極東のこの小さきこの国」が世界の列強に加わり、世界の国々が驚きました。しかしそこから日本の国はどういう方向に向かっていったのかということを、漱石はすでに、日露戦争の後、『三四郎』やさまざまな小説を通じて書いていると思います。明治維新から150年近くが経とうとする今、漱石の「生まれ変わる」という言葉の意味を、今、被災地のこの熊本で、我々はもう一度かみしめる必要があるのではないかと思います。

漱石は伊豆・修善寺の大患で、大量の吐血をし、担架というよりは戸板みたいなところに乗せられて東京まで運ばれました。漱石は『思い出す事など』*15のなかで、「二度の葬式をあげたようなもんだ」と述懐しております。これは明らかに「二度生まれ」ということだと思います。漱石はアメリカのプラグマティストの祖であるウイリアム・ジェームズ*16に最も私淑し、ウイリアム・ジェームズの心理学については(著書の)翻訳もしていると思います。彼の著作に、岩波文庫にも訳されている「宗教的経験の諸相」があります。その中で彼は「宗教的経験とは何か。それは生まれ変わりだ」と書いています。twice born、人間は生まれ変われる。その生まれ変わる体験というものが宗教的体験だというのです。

160429boranisihara2.jpgもちろん漱石は、特定の宗派、宗門に帰依していたわけではありません。しかし彼は二度の葬式と言った時、明らかに「二度生まれ」を頭の中に描いていたと思います。東日本大震災があった時も、多くの方々が「これで生まれ変わらなければいけない」とおっしゃっていました。また、福島の飯館村や浪江町やいろんなところでも、私が非常に感銘を受けたある神社の神主さんも、「生まれ変わろう」という言葉を何度も何度もおっしゃっていました。

熊本は生まれ変わると思います。「二度生まれ」の経験を今回の震災で多分、経験することになると思います。そういう点で漱石は本当に我々にとって奥の深い言葉を、熊本の今を生きている人々にとって、とてもとても大切な言葉を残している、と私はあえて解釈したいと思います。

漱石は病が最後の段階に来たときに、さまざまなお見舞い状に、「病気は継続中です。戦争も継続中です」と(書いています)。第一次世界大戦は継続中でした。同時に自分の病気も継続中でした。熊本の震災も決して終わっておりません。今も継続中です。これからまた、どのような揺れや地震が起きるか、多くの熊本県民はしびれるような不安の中で、これからも復興に向けて歩んでいかなければなりません。

漱石の「病気は継続中である」という言葉は、私はとてもとても深い意味があると思います。自分の人生もいま、継続中だということです。自分が最後の息がこときれるその瞬間まで、人間は生きていかなければいけない。人生は継続中、病気も継続中である。

「継続中」という言葉の中に漱石は、結局、答えのない途上を生きることが人生なんだという意味を込めています。私はそれを「青春の文学」と言いたいと思います。途上を生きるということは答えがない。我々には行けども行けども答えがない。なぜこの世の中に生まれ、何故にこのような風体で、こういう国で、こんな風にして、こんな職業で生きているのか。これは答えがありません。しかし人生は継続中なのです。

今回の熊本の地震は継続中です。しかし、人々は生きています。人生もまた継続中であるということは我々が途上にあるということであり,途上にあるということは最終的に達観できる答えはないということであり、したがってこれを言葉の真の意味で私は「青春の文学」と言いたいと思います。漱石の文学は大人の文学ですが、大人の文学にして青春の文学であるのは恐らくは漱石以外にないのではないかと思います。

◆身の丈にあった「普通」の大切さ

sousekikao-2.jpg漱石は『倫敦塔』のなかで「生まれてきた以上は生き迷わねばならぬ。あえて死を恐れるとは言わず、ただ生きねばならぬ。すべての人は生きねばならぬ」というように述べております。生まれてきた以上生きよう、という、このあまりにも単純な言葉を、この大作家が『倫敦塔』という初期の本格的な作品の中に残しているのです。

漱石は最後の随筆『硝子戸の中』*17で、ある女性、これもまた何の因果か、熊本の御船町出身の吉永秀という女性なのですが、漱石は4度か5度「死にたい」というこの女性の人生相談に応じております。漱石は『硝子戸の中』でこのように述べています。

「私は彼女に向かって、全てを癒す時の流れに従って下れと云った」。どんなに悲しいこと、どんなに苦しいことがあっても時が癒すというのは、ある意味言い古された言葉かもしれません。でも、もっと大切なことは「時の流れに従って下れ」ということです。決して時の流れに抗うな。時の流れに従って下れ、と。これを「下山の思想」*18というかどうかは別としても、時の流れに従って「下る」のです。

我々の世代の青春期、西暦でいえば1960年代から70年代初頭の日本の毎年の名目成長率は、だいたい10%を超えていました。中国以上の高度経済成長を日本は達成したわけです。これは世界のミラクル(奇跡)といっても過言ではありません。日本は豊かな国になりました。多くの人々が中流になりました。先ほど蒲島県知事は何が大切かといえば、普通の生活であるとおっしゃいましたが、まさしく普通の生活を多くの国民ができるようになったといえます。中流であるということ、日本人としてこの日本列島の中に生き、そしてみんなが中流の生活ができる。日本は世界の国々にとって、垂涎の的のような国になったということです。

『坂の上の雲』*19を目指して、最終的にはあの昭和20年を迎えたとすると、日本の国は戦後70年、(再び)坂の上の雲をめざし、世界の経済大国になりました。そして押しも押されぬ成熟した社会へと向かっていこうとするその矢先に、5年前、そして21年前に大きな震災に出くわしたわけです。先ほど蒲島県知事は「普通の生活の尊さというものをしみじみとわかるようになった」とおっしゃいました。その通りだと思います。普通の生活、漱石は身の丈で生きることを多分、最も望んだ人だろうと思います。

buleseat-kuusatu_R.jpgどんなにドーピングをして走るようなことをやったとしても、名目成長率2%いくかどうかというのが今の日本の国の実態だと思います。それでも日本の国は、成熟した社会へと移り変わっていくことはきっとできると思います。

ぎらぎらとぎらついて、もう一度、富国強兵ならぬ富国強国を目指すよりは、身の丈にふさわしい、そして人々が普通であることにしみじみと幸せを見出すようなそういう社会、それがアジアの国々のどこの国ひとつとして達成できなかった未来の日本の社会の姿かも知れません。漱石が目指した国の姿はそこにあると思います。漱石は最後にその女性にこう言いました。「死なずに生きてらっしゃい」と。これは今の熊本県民にとっては大きな大きな慰めだと思います。

私はあえて「がんばろう」という言葉は言いません。漱石だったら「生きてらっしゃい」「生きていきましょう」というふうに、きっと言うと思います。それは、普通の生活こそが我々にとってはとても、とても大切なことであるということです。

最後ですけども、日本とそして周りの国を取り巻く環境は、必ずしもいいとは言えません。しかし、漱石に私淑したのは、まさしくアジアの国々の人々であったということも、みなさんにぜひともお伝えしたいと思います。文学における孫文といってもいいような魯迅*20は、まさしく漱石に私淑して文学者になったといっても過言ではありません。『狂人日記』や『阿Q正伝』を読めば、どんなに漱石の小説を読み込み、漱石の手法を使って、中国が抱えている問題を見事にえぐり出しました。中国の文学のいわば父とも言ってもいい魯迅は、まさしくある意味において漱石の弟子と言っても過言ではないと思います。千駄木の漱石が住んでいた家に、魯迅も一時期住んだ経験があります。また、韓国を代表する著名な作家に李光洙(イ・グァンス)*21という人がいます。残念なことに朝鮮戦争で亡くなりましたが、間違いなくこの人物は韓国近代文学の祖と言っても過言ではありません。李光洙が最も私淑していた人も、漱石と言って過言ではありません。

漱石は間違いなく日本の宝であり、アジアの宝であり、奇跡だと思います。韓国は今やっと、漱石文学全集を韓国語版で出すようになりました。私は今、最後の巻の『明暗』*22のあとがきを書いている最中ですが、全集を持つ国は日本以外に、隣の国になりました。きっと私は中国で漱石の全集は必ずや訳される日が来ると思います。また、インドネシアで、ベトナムで、アジアの中で、近代を迎えた国々は、必ず漱石的なテーマに突き当たることと思います。

その意味においてこの120年の来熊、120年にこういう形で漱石をめぐるオープニングができるということは、これは必ずやまた、熊本や日本だけではなく、近隣のアジアの国々にとっても大きな大きな僥倖だと思いますし、これを出発点として私たちは漱石が目指したものを、我々の一人ひとりの生活の場で実現していければいいのではないかと思います。

私のつたない話ですけれども、ご清聴ありがとうございました。

*1 『三四郎(さんしろう)』 1908年(明治41年)、朝日新聞に連載された長編小説。『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ。九州から上京した小川三四郎が、都会の様々な人との交流から得るさまざまな経験、恋愛模様を描く。

*2 『草枕(くさまくら)』 1906年(明治39年)に『新小説』に発表。玉名市小天温泉を舞台に、画工と逗留先の女性の交流を通じて「非人情」の世界を描いた作品。「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という冒頭部分が有名。

*3 『倫敦塔(ろんどんとう)』 1905年(明治38年)『帝国文学』に発表された短編。漱石がイギリス留学中に見物したロンドン塔の感想をもとにした。

*4 『趣味の遺伝(しゅみのいでん)』 1906年(明治39年)、『帝国文学』1月号所収の短編。日露戦争の出征兵士を題材に、戦争のむなしさを描く。

*5『方丈記(ほうじょうき)』 鴨長明(かものちょうめい、1155~1216)による鎌倉時代の随筆。この世の無常を記した「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の書き出しで有名。

*6『虞美人草(ぐびじんそう)』 1907年(明治40年)朝日新聞に連載された職業作家・漱石の初の小説。許婚(いいなづけ)関係の二組の若い男女とその親族の駆け引きを、上野で開催された東京勧業博覧会などを絡めて描いた。題名は漱石が縁日でたまたま見た鉢植えから取ったといわれている。

*7 不幸な生い立ち 漱石(金之助)は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出され、短期間で連れ戻された後も1歳で内藤新宿の名主・塩原昌之助の養子となった。塩原夫婦が離婚し、夏目家に戻ったのは9歳の時だった。

*8 前田卓(まえだ つな) 熊本藩細川家に仕え、明治維新後は自由民権運動の中心人物となった前田案山子の次女。孫文ら中国の革命家が日本で作った「中国革命同盟会」を支援した。案山子は温泉付きの別邸を旅館とし、卓が仕切っていた。熊本時代の漱石は同僚と何度かこの旅館を訪れて卓と交流し、『草枕』のモデルとした。写真は玉名市草枕交流館提供。

*9 宮崎滔天(みやざき とうてん) 孫文を支援し、日本から辛亥革命を支えた革命家。浪曲師としての顔も持つ。写真は国立国会図書館蔵。妻の槌は前田卓の妹で、「白蓮事件」を起こした宮崎龍介の母。

*10 『二百十日(にひゃくとおか)』1906年(明治39年)、雑誌『中央公論』に発表された中編。同僚との阿蘇登山の実体験をベースに、華族や金持ちに対する慷慨が語られる。

*11 『坑夫(こうふ)』1908年(明治41年)から朝日新聞掲載された。裕福な家を飛び出した青年が自暴自棄になって坑夫として働くことを決意する過程をルポルタージュ的に描く。

*12 1997年の大変な事態 1997年(平成8年)11月から翌年暮れにかけて、北海道拓殖銀行、山一証券、日本長期信用銀行などの大手金融機関が相次いで破たんした事態。日本の金融機関全体の信用不安に発展し、97年金融危機と呼ばれる。

*13 ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)フランスで活躍した哲学者。『人間不平等起源論』では、自然状態では人間に憐れみの情(憐憫)が備わっており、これが各人の自己愛を抑制すると説いた。

*14 『こゝろ』 1914年(大正3年)に朝日新聞に連載された長編小説。「先生」と「私」の交流を通じて人間のエゴイズムと倫理観を問う作品。

*15 『思い出す事など』 1911年(明治44年)に書かれた随筆。前年1910年に療養先の修善寺で大吐血をして人事不省に陥ったことを詳しく書いている。

*16 ウイリアム・ジェームズ(1842〜191)アメリカの哲学者、心理学者。物事の真理は実際の経験のみで判断でき、効果のあるものは真理であるとする、プラグマティズム(実用主義)を確立した。

*17 『硝子戸の中』 1915年(大正4年)に朝日新聞に掲載された漱石最後の随筆。硝子戸で世間と仕切られた書斎で起きた身辺の人々のことや若き日の思い出をつづっている。

*18 下山の思想』 2011年に発売された五木寛之の著作。日本の経済・社会は登頂を終え、21世紀から下山の時期に入ったという認識のもと、成長一辺倒からの決別を説く。

*19 『坂の上の雲』 司馬遼太郎の代表的な長編歴史小説。1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)にかけて産経新聞に連載。明治前期の日本が日清・日露戦争に勝利し、列強の仲間入りをした時代を、坂の上の雲を目指す姿と重ね、明治の楽観主義の世相を描く。

*20 魯迅(ろじん、1881〜1936)中国の小説家、翻訳家、思想家。礼節を説く「儒教」が裏では生命の抑圧者として「人を食」ってきたことを指摘した。

*21 李光洙(イ・グァンス、1892〜1950)は朝鮮の文学者、思想家。民族主義的な立場から儒教を批判する小説を著し、朝鮮民族の実力養成を説いた。号は「春園」(チュンウォン)。

*22『明暗(めいあん)』朝日新聞に1916年(大正5年)に連載された長編小説。漱石の死によって188回で未完のまま終了した。ある夫婦の関係を通して人間の利己主義を描いている。

*夏目漱石の写真は国立国会図書館蔵

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姜 尚中氏 (カン・サンジュン) 1950年、熊本県熊本市に生まれる。国際基督教大学準教授、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授、聖学院大学学長などを経て、現在東京大学名誉教授。2016年1月より熊本県立劇場館長兼理事長に就任。

専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍。主な著書に『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『ナショナリズム』など。小説『母-オモニ-』、『心』を刊行。最新刊は『漱石のことば』『姜尚中と読む 夏目漱石』。

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