蛍丸を復元せよ!

行方知れず 幻の宝刀を再び

「蛍丸」は鎌倉時代の1297年(永仁5年)、名工とうたわれた山城国の来国俊(らいくにとし)の作とされる刃渡り101.35センチの大太刀です。

hotarue.jpg1336年(建武3年)、南朝方の菊池氏・阿蘇氏らと足利尊氏が戦った多々良浜(福岡市東区)の戦いで、阿蘇惟澄(これずみ)はこの刀で奮戦しました。南朝方はこの戦いに敗れ、hotarutakuhon_R.jpg惟澄の刀もガタガタに刃こぼれしてしまいましたが、惟澄が無数の蛍が集まって刀身に止まる夢を見た翌朝、刃が元通りになっていたという言い伝えがあり、この伝説から刀は蛍丸と呼ばれるようになりました。

15.jpg阿蘇神社大宮司家が600年引き継ぐ

蛍丸はその後、阿蘇神社大宮司の阿蘇家に代々引き継がれました。合戦などにも使われたらしく、江戸時代はじめの記録ではかなりの刃こぼれがあったようです。

元禄年間(1688~1704)には肥後熊本藩3代藩主の細川綱利が召し上げようとしましたが、大宮司家は頑として拒否したとも伝わっています。仕方なく細川家は一時借り上げる形で藩主の佩刀(はいとう)としたそうです。

寛政年間(1789~1801)に老中・松平定信らが編纂を始めた古美術の木版図録集「集古十種(しゅうこじっしゅ)」には、「螢丸 肥後國阿蘇大宮司藏」が兄弟刀ととhotaru-SYUUKO.jpgもに模写されています。それには、「惣長四尺五寸 元幅一寸三歩 先幅七歩半」という記録もあります。写真右上のような蛍丸のものとされる押形(拓本)は複数存在します。

時代の荒波にもまれつつ、刀は600年以上も阿蘇家が大切に引き継いできました。1933年(昭和8年)には旧国宝に指定され、戦前に撮影された写真も残っています。

15.jpg海底に眠る?アメリカにある?

しかし、終戦直後の1945年(昭和20年)に連合国軍総司令部(GHQ)が行った「刀狩り」によって接収されてしまいます。蛍丸は「長光」の大刀、「牡丹造(ぼたんづくり)」の腰刀などの名刀とともに地元の警察署に提出され、熊本進駐軍の倉庫に運び込まれた後、行方が分からなくなってしまいました、

「接収を指揮したGHQのビーターセンがアメリカへ持ち帰った」という説や、「他の刀とともに三角港内の海に沈められた」といった説がある一方で、「進駐軍の倉庫から持ち出され、今も熊本県内のどこかに隠されている」という説も根強く残っています。

hotarucyara_R.jpg台湾から復員した阿蘇神社の宮司、阿蘇惟友さん(故人)は、生涯かけて蛍丸を探し続けました。高松塚古墳を発見し、文化勲章を受けた考古学者・末永雅雄さん(故人)も蛍丸の行方を気にして、広く情報提供を呼びかけていたそうです。最近では文化庁が2013~14年にかけて行方を探しましたが、依然として見つかっていません。蛍丸は所在不明のまま国の重要文化財に指定されている、文字通り「幻の宝刀」なのです。

蛍丸が再び注目されるようになったきっかけは、2015年に登場したオンラインゲーム「刀剣乱舞」でした。蛍丸などの名刀を擬人化したゲームは人気を集め、そのキャラクターのもとになったのはどんな刀なのかについても関心が高まりました。「刀剣女子」と呼ばれる若いファンや、「歴女」が増えていることも、こうした動きに拍車をかけているようです。

「刀剣女子」を分析したヨミウリ・オンラインの記事は yubiyubi.png こちら

阿蘇神社の池浦秀隆学芸員は「私たち職員もみんな戦後生まれで、姿を見たことがない。歴史的にも意義がある太刀なので、今回の復元でその姿を見ることは非常に楽しみだ」 と話しています。

15.jpg挑戦するのは2人の若き刀鍛冶

kajihutari_R.jpgこうしたなか、岐阜県と大分県の2人の刀鍛冶が蛍丸を復元し、阿蘇神社に奉納するというプロジェクトを始めました。

復元に取り組むのは岐阜県関市の福留房幸さん(写真右)と、大分県竹田市の興梠房興(こうろきふさおき)さん(写真左)です。2015年11月にインターネット上で資金を募るクラウドファンディングという手法で資金を募ったところ、当初の目標だった550万円をわずか5時間で達成し、最終的には刀剣ファンなど3193人の支援者から4512万円もの資金が集まりました。復元に取り組む2人に復元を決めた経緯や蛍丸の魅力を聞きました。

【プロジェクトの裏に不思議な縁(えにし)】

――なぜ蛍丸を復元しようと考えたのですか。

hotaruhukutomekao_R.jpg福留さん 一緒に修行していた弟弟子(おとうとでし)の興梠さんが修行を終え、大分県で刀鍛冶を始めることになったため、前から「2人で記念に何か合作しよう」と話し合っていました。「合作なら1人で作るのは難しい大太刀に挑戦しよう」と、資料などを見て試作もしていました。

――最初から蛍丸をやろうと決めていたわけではないのですね。

福留さん 興梠さんの仕事場を見に行った時、「近くに阿蘇神社がある」と聞いて「蛍丸があったところだ。ぜひお参りしよう」とお参りに行ったんです。その時にたまたま宮司さんにお会いできて、話をした時に「蛍丸の写しを作って(=復元して)奉納するのはどうですか」と伺ったところ、「それはとてもいいことで、応援します」と言ってくれました。「では何とか実現できないか考えてみましょう」と関市に戻ったところ、市から「クラウドファンディングを始めます。何か企画はないですか」という話が来たんです。とんとん拍子に話が進んで、何か蛍丸との縁(えにし)みたいなものを感じます。

――あっという間にたくさんの資金が集まりましたね。

興梠さん 募集期間内にぎりぎり目標額に届けばいいかな、と思っていたので、たった5時間で目標額に達するとは思いませんでした。ゲーム(「刀剣乱舞」)に登場する蛍丸が人気になっていることも知りませんでしたし。後からネットで知って「なるほど、そうだったのか」と。お金の額には関係なく一生懸命やるだけですが、やはり注目度が高いとやりがいがありますね。
福留さん 開始時は出資1人ごとにメールが来る仕組みにしていたので、1日で2500通ものメールが来て、すごいことになって非常に驚きました。最近は落ち着きましたが。


【600年前の姿を再現】

――蛍丸の魅力とは何ですか。

福留さん 作者の来国俊(らいくにとし)は非常に有名な鎌倉末期の刀鍛冶ですが、大太刀よりも短刀の名人というイメージが強いんです。しかも蛍丸のような大太刀が流行するのは南北朝時代になってからで、鎌倉末期にはそれほど作られていません。その時期に短刀の名人に作らせたというのは、よほど特別な注文だったと思います。文化庁に残っている作風の詳しいデータを見ても、蛍丸はかなり入念に作られた刀です。刀身に彫刻があったのも、特注だった証でしょう。来国俊としても思い入れのある作品だったのだろうと思います。
興梠さん 刀そのものの魅力に加えて、蛍丸にはミステリアスな経緯があります。国内、国外、海中のどこにあるのかという伝説にも惹かれます。
――制作で難しいところは。

福留さん 刀というのは、研げば減るし、戦に使われれば刃が欠けて、次第に細く、短くなっていきます。復元は70年前ではなく、600年前はだいたいこんな形だったと推察し、作成時の形をイメージして作ります。大太刀ですから長さも厚さもあり、当然重くなります。材料も大きいものを用意しないといけない。その分、作るのは難しくなります。大きいと材料自体にアラやムラが出やすくなり、焼き入れムラもできやすくなりますから。

興梠さん 伝統文化を継承するため、作り続けていくことが大事です。刀だけで食べていくのは難しいことですが、今は追い風なので、知らない人に刀鍛冶の仕事を知っていただけるのも仕事のうちと思っています。korokikao_R.jpg

【復元を発見につなげたい】

――苦労して復元した後で、もし本物が見つかったら?

福留さんそれは本当にうれしい。実は今回のプロジェクトは、行方不明の蛍丸の発見も狙いなんです。阿蘇氏の家宝として600年強も同じ場所で保存され、大切にされてきたのに、わずか70年前に失われて行方が分からないというのは非常に悲しいことです。復元が話題になれば、多くの人が「蛍丸とはどんな刀だったのか」と興味を持ってくれます。復元すれば形がはっきりわかるようになるので、「こういう刀を見たことがある」という人が出てきて、見つかる可能性も高くなります。復元した蛍丸を撮影して実寸大のポスターを作るので、ポスターを利用した探索活動が簡単になるでしょう。

――刀鍛冶とは、だれでもできる仕事なのですか。

福留さん 文化庁長官から刀を作ることを許可されないと、刀鍛冶にはなれません。5年以上の修業を積んで、文化庁の研修会(美術刀剣刀匠技術保存研修会)を受け、事実上の試験(8日間で小さな脇差を作る)に合格して修了証書を持つことが必要です。現在は全国に250人程度の刀鍛冶がいます。

――ともに二十五代藤原兼房師匠のもとで修業した兄弟弟子と聞きましたが、そもそも、なぜ刀鍛冶の仕事を選んだのですか。

福留さん母親が茶道の先生だったこともあり、小学生のころから日本の伝統文化に関心がありました。地元(福岡)の陶芸教室に通って、中学を卒業したら陶芸家になろうと思っていたのですが、親に「高校くらいは出てくれ」と言われまして。高校で写真部に入って、博多包丁の鍛冶工場を訪れた時に、鍛冶の仕事って面白そうだなと思って、高校卒業後にすぐ修業先を探し、入門しました。


興梠さん子供のころから刀に興味があったわけではありません。大分の高校を卒業してから大阪に出てフリーターをしていたんですが、24歳のころにこれからどうしようと考えて、スポーツ選手のように現役の期間が短い仕事より、手に職をつけて老いても現役を続けられれる仕事に就きたいと思って刀鍛冶を志しました。刀鍛冶を志したのが遅かったので、福留さんは兄弟子ですが、弟弟子の私の方が年齢は上なんです。

15.jpgものづくりの伝統技術を結集

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復元プロジェクトはどのように進むのか、制作にあたる福留房幸さんに教えてもらいました。

刀身の制作は、刀鍛冶の仕事です。砂鉄と炭から作った玉鋼(たまはがね)で塊をつくり、たたいて伸ばして切って曲げ、という工程を繰り返して鍛錬していきます。固さが違う鉄を組み合わせて棒状に伸ばし、刀の形にしていきます〈上の図の工程①〉。

2人は岐阜の福留さんの工房と大分の興梠さんの工房で、最低6本の刀身を作ります。この後、研師(とぎし)が粗いやすりで刃の形をつけます〈工程②〉。6本がおおまかに大太刀の形になるまでに半年ほどかかり、この時点で出来のいい3本を決めます。最も出来のいい刀が阿蘇神社に奉納され、2番目は岐阜県関市の鍛冶伝承館、3番目は復元プロジェクトに270万円を出した最高額出資者にそれぞれ贈呈されます。

刀鍛冶が刀身に彫刻を彫り〈工程③〉、刀身と鞘を固定する鎺(はばき)と呼ばれる金具を作ります〈工程④〉。今は白銀師(しろがねし)が担当しますが、蛍丸では大半の制作は刀鍛冶が担います。鞘師(さやし)が朴(ほお)の木を削って刀をおさめる白木の鞘(さや)〈工程⑤〉と柄(つか)を作ります〈工程⑥〉。さらにもう一度研師が仕上げ研ぎをして〈工程⑦〉、柄の内部におさまる刀身部分の茎(なかご)に銘を入れて〈工程⑧〉奉納される白鞘の蛍丸は完成し、2017年6月17日、阿蘇神社に奉納されました。

しかし、プロジェクトはこれで終わりではありません。白鞘の刀の制作の途中から、同時並行で「拵え(こしらえ)」の制作が始まります。拵えとは柄や鞘などにさまざまな装飾を施すことです。白鞘の刀が普段着なら、拵えは外出着。復元され奉納された蛍丸は、阿蘇神社で"着替え"の完成を待つことになります。

拵えのうち、鍔(つば)など刀につける金具は白銀師が作り〈工程⑨〉、塗師(ぬし)が白鞘とは別に漆塗りの鞘を作ります〈工程⑩〉。巻師(つかまきし)がきれいに柄を巻き〈工程⑪〉、刀を身に着けるための下緒(さげお)は組紐職人〈工程⑫〉が担当します。全国にいる職人がそれぞれ作業するため、拵えの工程は必ずしも順番通りに進むわけではありません。

拵え一式が完成するのは、白鞘の刀の奉納後、さらに半年~1年かかる見通しです。一式は阿蘇神社に追加で納められ、ようやく復元プロジェクトはすべて完了します。

2人の刀鍛冶が作るのは図中赤線で囲んだ工程①③④⑧で、多くの部分は研師、鞘師をはじめ、白銀師、塗師、柄巻師など、さまざまな専門職人が担当します。蛍丸の復元は全国の職人が携わる、ものづくりの伝統技術を結集したプロジェクトでもあるのです。

復元プロジェクトのサイトは yubiyubi.png こちら

福留さんのサイトは yubiyubi.png こちら 

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