くまもと温故知新

県内最古の木造建築 城泉寺阿弥陀堂ライトアップ      2017年9月20日

湯前町の古刹、城泉寺でライトアップのイベントがありました。

県内では最も古い木造建築とされる城泉寺(じょうせんじ)阿弥陀堂の周囲には町の保育園児が描いた300個のランタンが灯された。茅葺のお堂の寄棟造りの壁には、プロジェクションマッピングでもみじなどが映し出されました。見物客や参拝客でにぎわった

城泉寺は鎌倉時代の初め、上球磨地方を支配していた豪族・久米氏によって創建され、 堂内に安置されている木造阿弥陀三尊像には「寛喜元年」(1229年)の銘があります。 境内の七重、九重の石塔には寛喜2年(1230年)の銘があり、この4件が国の重要文化財に指定されています。

寺の名前は創建者の沙弥浄心(久米三郎真家)にちなみ、長年浄心寺(じょうしんじ)と呼ばれていましたが、1915年(大正4年)の仏像国宝指定の際に誤記され、それ以来城泉寺と呼ばれるようになりました。阿弥陀堂は1958年(昭和33年)に解体修復され、春秋の彼岸にあわせて開帳されています。

女性灯籠師が再現した木山神宮を大宮神社に奉納      2017年8月16日

170816kiyamatouB.jpgyamagatou3_R.jpg和紙とのりだけで大小数千のパーツを手作りして精巧に組み立てられた益城町の木山神宮本殿の灯籠が、山鹿市で開かれた山鹿灯籠まつりの最終盤に大宮神社に奉納されました。

木山神社の灯籠は、女性灯籠師の田中久美子さんが、大宮神社に灯籠を奉納する女性だけの団体「山鹿燈心会」から依頼を受けて再現したものです。出来上がった灯籠は一般公開された後、神輿に乗せられて市の繁華街を練り歩き、大宮神社に向かいました。

kiyamatou1_R.jpg田中さんが益城町を訪れて倒壊した木山神宮を見学したり、インターネットで画像を集めたりして、細かく社殿の構造を調べたところ、想像以上に精巧に作られた神社だったことがわかりました。

「すごいんですよ。まさかこんなに精巧につくられた神社だとは思わなかった。ちっちゃな神社なんですけどすごい作りで改めて大変だと思いました」という田中さん。出来栄えには満足しており、「多くの人に見てもらいたい」と話していました。

菊池一族の遺徳しのび墓前祭 墳墓も公開           2017年6月17日

170617kikutiA.jpgkikutituika_R.jpg平安時代から室町時代後半まで菊池地域を中心に栄えた豪族、菊池一族をしのぶ墓前祭が玉名市小島(おしま)地区で行われ、第十代当主・菊池武房の墓をはじめ、一族の墳墓が初めて市民に公開されました。

この日は菊池一族の子孫で歴史研究家の渋谷龍さんが「菊池一族の始まりと終わり」と題して講演を行いました。この後、地元の住民など約200人が参列して墓前祭が行われました。

これまで所在不明とされ、小島地区で見つかった武房など菊池家当主の墓では、住民らが遺徳をしのびました。菊池一族は刀鍛冶集団ともつながりが深かったとされ、古武道小笠原流源清会による試演武も披露されました。

菊池武房は鎌倉時代中期の武将で、蒙古襲来では一族をあげて戦い、活躍の姿は「蒙古襲来絵詞」にも描かれています。文永の役、弘安弘安の役でも活躍して武功を挙げましたが幕府からの行賞がなく、菊池一族は反幕府に傾いていくことになります。

江戸時代の熊本の名勝 御用絵師が描いた風景展        2017年6月12日

meisyouA.jpg熊本市中央区の肥後の里山ギャラリーで風景展「御用絵師、肥後の山水を描く。」が始まりました。

県内各地の名勝を描いた13点が展示されています。これらの作品は江戸時代後期に熊本藩主だった細川斉茲の命を受け、熊本藩に仕えた絵師たちが、菊池や阿蘇に自ら足を運んで描いたものです。

会場には現在の風景を写した写真も展示されていて、江戸時代に忠実に描かれた当時の熊本の風景と比較して鑑賞することができます。御船町の七滝を写した「七滝瀑布図」には、滝を見物する細川家の人々も描かれています。

バラモン凧や土人形 天草の伝統工芸体験講座作品展    2017年5月20日

amakusaA.jpg伝統工芸体験講座に参加した受講生の作品展が、天草市船之尾町の天草文化交流館で始まりました。

作品展には、2017年3月までの1年間に体験講座に参加した受講生127人の作品528点が展示されています。県の伝統工芸品に指定をされている「天草バラモン凧(写真左下)」や、300年前から作り始められたとされている「天草土(どろ)人形(写真右下)」、金糸と銀糸で仕上げる色鮮やかなてまりなど、手の込んだ作品に、訪れた人は見入っていました。

子宝祈願の奇岩 子安河原観音で例大祭            2017年5月8日

170508koyasu.jpg子を授かる神として信仰されている阿蘇市乙姫の子安河原観音で例大祭が開かれ、祈願して子どもを授かった女性などがお礼参りに訪れました。

ご神体は乙姫川の川底にある長さ約2メートル、幅約70センチの自然石。あお向けに横たわる、胸と腹の辺りが膨らんだ女性の体のようにみえます。ご神体近くの黒い石を持ち帰れば男の子、赤い石なら女の子を授かると言い伝わり、子を授かりたい女性などがご利益を求めて大勢参拝しています。

全国地質調査業協会連合会が昨年12月、「日本の奇岩百景」に選んだこともあって、最近ではパワースポットとして海外からの観光客にも人気となっています。 川が大雨で増水するとご神体は土砂で埋まってしまいますが、その都度、氏子たちが掘り返しています。熊本地震では付設されている神殿の屋根瓦が落ちるなどしましたが、ご神体に被害はありませんでした。
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玉名市の商家に江戸時代の五月人形          2017年5月5日放送

1705055gatuA.jpg玉名市高瀬の荒木直平商店築300年の店内に、今年も先祖伝来の五月人形33点が飾られ、訪れる人の目を楽しませています。

荒木直平商店は1869年(明治2年)から150年近く続くお酢の専門店です。この店では26年前から毎年この時期に人形を展示していて、なかには江戸時代や明治時代の鎧兜や武者人形、真っ赤な金太郎などが飾られています。荒木直平商店の荒木雍子さんによると、男の子が生まれた時に代々残されてきたもので、明治の初め頃は女の子ばかり生まれていたので五月人形はないということです。

荒木さんは「お好きな方は毎年おいでになります。たまにさぼるとお客様から催促されます」と話しています。五月人形は6月中旬まで飾られています。

市内文化財はいま 熊本市現代美術館で展示会       2017年5月4日 

170504hisaitiA無題.jpg被災地追加_R.jpg熊本地震で被災した熊本市内の文化財の現状を伝える「熊本市被災文化財のいま」が熊本市中央区の熊本市現代美術館で始まりました。

会場には県内最古の洋館「ジェーンズ邸」など、13の文化財の被災前後の写真パネルや、倒壊した建物から回収された史料が展示され(写真左はジェーンズ邸の部材)、復旧の見通しが説明されています。

VR(バーチャルリアリティー)技術を使って、専用のゴーグルをつけると、今の熊本城の立入禁止区域からの眺めを360度見ることができるコーナーもあります。中央区新町の城下町の歴史的街並みを残す町屋など、未指定文化財の被害の現状も説明しています。

熊本現代美術館の佐々木玄太郎学芸員は「なかにはここまで復旧しましたというものもあれば、まだまだたくさん課題があって、」これからどうにかしていかないといけませんというものもあるので、現状を知って関心を向けていただければ」と話しています。

菊池川流域の米作文化 日本遺産に認定          2017年4月28日

日本遺産1_R.jpg文化庁は全国17地域を新たに「日本遺産」に認定し、県内では菊池市など菊池川の流域で古代から行われる米作り文化が新たに認定されました。県内の日本遺産の認定は人吉球磨地域に続いて2か所目です。

県内で認定されたのは、山鹿市、玉名市、菊池市、和水町の「米作り2000年にわたる大地の記憶 菊池川流域今昔水稲物語」です。日本遺産は、歴史的建造物や祭り遺跡など、一つの地域にある複数の文化財にテーマを持たせて国の内外に PR しようと認定するものです。

菊池川流域は、菊池渓谷を水源とする豊富な水に恵まれた地域で弥生時代から米作りが始まり、江戸時代には山間部に用水路が整理され棚田での米作りが広がりました。また、明治時代には玉名地域の海辺に当時国内最大級の干拓施設が築かれるなど古代から現代までの米作りの文化を知ることができる点が評価されました。

0428日本遺産A.jpg山鹿市の中島憲正市長は「菊池市流域の資産が全国的に評価されたことに大変な誇りと喜びを感じている。今回の登録を熊本県全体の活性化にもつなげていきたい」と話しました。今後4つの市と町は、県や観光・農業団体と一緒に日本遺産の保存活用する協議会を作りPR することにしています。

円山応挙特別展 八代で地震乗り越え1年越し開催      2017年4月21日

0415maruyama.jpg近世を代表する絵師、円山応挙の展覧会「円山応挙―京都相国寺と金閣・銀閣の名宝展ふたたび―」が、八代市立博物館未来の森ミュージアムで始まりました。当初は2016年4月15日から開かれる予定でしたが、熊本地震のために中止になり、1年越しで実現しました。

九州で触れる機会が少ない応挙の作品とあって、初日から多くの観客が訪れました。

特別展覧会には、深みのある色彩と立体感のある円山応挙の代表作で国の重要文化財の「牡丹孔雀図」をはじめ。優しい筆使いで子犬の姿を描いた「豆狗子図」や、女性の柔らかさを巧みに表現した「遊君図」など26点が展示されています。熊本地震で開催中止となった際、作品が傷つくことなく返却されたことを喜んだ所有者の京都の寺や美術館が協力して、開催にこぎつけたということです。

臨済宗相国寺派の有馬頼底管長は「(地震で)一点も損傷しなかった。全部傷ひとつなく返ってきて、ああよかったと。文化財というものがいかに重要かを皆さんに認識してほしい」と話しました。八代市立博物館の島津亮二学芸係長は「去年できなかったことが1年後にできたというのはとても嬉しいこと。復興に立ち上がる励み、契機になればいいと思います」と話しています。展示会は6月4日まで開かれます。

「島原大変肥後迷惑」 過去の災害を知る展示会         2017年3月4日

shimabara3.jpg「島原大変肥後迷惑」の言葉で知られる熊本を襲った大津波など、玉名地域の災害の歴史をたどる展示会「玉名の災害展~江戸から昭和~」が玉名市立歴史博物館こころピアで開かれました。

会場には古文書や写真パネルなど52点が展示されました。このうち津波を示す絵図は、江戸時代後期の1792年(寛政4年)の普賢岳の火山活動で、眉山の山体の一部が有明海に崩れ落ち、対岸の熊本県を襲った大津波の被害を描いています。

shimabaraA.jpgこの年、群発地震が発生していた長崎県の島原地域では、5月21日の夜に2度の強い地震が起き、眉山の南側部分が大きく崩れ、3億4000万立方メートルに上る大量の土砂が有明海に一気に流れ込んだとされています。眉山崩壊の原因が、眉山の噴火によるものか、火山性地震によるものかは、はっきりしていません。

崩れた土砂がなだれ込んだ衝撃で、有明海には津波が発生し、対岸の肥後にも高さ4〜5メートルの津波が襲来したとされています。津波による死者は島原で約1万人、対岸の熊本では現在の玉名地域だけで2221人、県全体では約5000人にのぼったとされています。津波が起こりにくいといわれる内海の有明海で起きたこの大津波は「島原大変肥後迷惑」の言葉で言い伝えられています。

このほか、大正3年に干拓地を襲った高潮被害の写真(左下)なども展示されています。こころピアの佐藤夕香学芸員は「熊本地震も機会に、過去に玉名地域がどんな災害に見舞われたか、今どんな風に対応すればいいのかを考える機会にしてほしい」と話しています。

宇土の雨乞い大太鼓が県内初の重要有形民俗文化財に   2017年3月3日

amagoi_R.jpg宇土の雨乞い大太鼓と関連資料が、国指定重要有形民俗文化財に指定されることが国の文化審議会で決まりました。雨乞い大太鼓が重要有形民俗文化財に指定されるのは全国で初めてで、県内の文化財としても初の指定となります。

amagoi4_R.jpg雨乞い大太鼓はケヤキの大木をくりぬいて作ります。たたく面の直径が1メートルを超えるものもあり、木星(きぼし)と呼ばれる飾りでふちどられているのが特徴です。

宇土市では雨乞い祈願や農耕儀礼に用いるため江戸から明治時代につくられた29基を修復・保存してきました。台車に載せたり棒で担いだりして横から叩く「長胴太鼓」が26基、台車に吊り下げ上から叩く「ドラ太鼓」3基のほか、太鼓の胴に掛ける油単(ゆたん)やバチなどの関連資料も宇土市大太鼓収蔵館に収蔵しています。文化審議会では、全国で唯一、太鼓がまとまって残っていることが評価されました。

amagoiA.jpg宇土市の元松茂樹市長は「指定は本当にありがたい。いろんな場面にこの太鼓を持ち出して、一般の人に触れて、たたいていただく。これを積み重ねて、もっと宇土の太鼓、江戸の文化を後世に伝えるよう頑張っていかなければならないと思う」と話しました。

宇土市では夏の干ばつ時の雨乞いだけでなく、田植え後のサナブリや八朔の豊年祭りなどで大太鼓を叩き、降雨や豊作を祈願する行事が伝承されてきました。県内では宇土市以外でも大太鼓を使う雨乞いなどの儀式がありましたが、戦後にほとんど廃絶しています。

人吉の老舗に150年前のひな飾り              2017年3月3日放送

170303hinaA.jpg町ぐるみでひな祭りのイベント「人吉球磨は、ひなまつり」を開催中の人吉市で、150年以上前の江戸時代に作られたひな飾りが公開されています。

歴史のあるひな飾りを公開しているのは人吉市鍛冶屋町の製茶業、立山商店です。立山商店では代々受け継がれている優雅なひな人形を展示していて、最も古いのは文久元年(1861)生まれの女の子に贈られたもの(写真中)です。このほかにも歴代のお嫁さんが嫁入り道具として持ってきた明治や大正時代のひな人形も飾られています。

立山商店の立山まき子さんは「人吉球磨地方のひな祭りは今年で20年目を迎えますが、これからもずっとひな祭りを続けて、店に人形を飾ってお客様に喜んでいただきたいと思います」と話しています。

明治の旧商家で復興への思い込めひなまつり       2017年3月2日放送

170302hinaA.jpg熊本の熊本市中央区西唐人町にある清永本店では、清永泰弘さんがひなまつりの準備に追われていました。

12年前から新町・古町地区で行われているひな祭り。清永本店も毎年展示を行ってきましたが、今年はいつもとは違う特別な思いで準備をしました。清永さんは「地震後もあって、何とかしたいという思いでやっています」と話します。

しかし、熊本地震で屋根や壁が壊れ、店は現在もビニールシートで応急処置を施している状態です。明治初期に作られた古い造りのため、修復できる人がなかなか見つからないそうです。清永さんは「今の建て替え話がうまくいかなかった場合は、これで最後(の展示)になるかもしれないという思いもあります」と話します。清永本店だけで、飾るひな人形は数百点展示されるということです。

170302hinaB.jpg地震で被害を受けたのは建物だけではありませんでした。「ひな人形は置き場所が悪かったので、足が折れたりしたものもあります。(人形が)持っていたはずの道具とか鼓がないとか。何か一つ二つ足りないものがあって」と清永さん。壊れてしまったひな人形は接着剤で修理をして飾り付けました。

170302hinaC.jpgたくさんあるひな人形の中には、地震で家を解体する人が提供してくれたものもあるそうです。地震後初めて迎えるひな祭り。復興への想いをのせた色とりどりのひな人形がお店で出迎えます。5日まで、入場無料。

天草市の延慶寺「兜梅」が見ごろ 名前の由来は?     2017年2月8日放送

0208kabutoumeA.jpg天草市浜崎町の延慶寺の境内にある県指定天然記念物の「兜梅(かぶとうめ)」が、今年も見ごろを迎えています。

兜梅は樹齢およそ300年の梅の古木で、高さは3メートルですが、 横に11メートル地をはうように伸びる「臥龍梅」です。例年より1週間ほど早く咲き始め、今は5分咲きです。今週末ごろ満開となり20日ごろまで楽しめそうです。

兜梅の名前は1589年(天正17年)、天草の土豪5人衆と加藤清正・小西行長連合軍が戦った「天正天草合戦」の際、天草方の武将、木山弾正の妻・お京の方が討ち取られた言い伝えに由来しています。猛将として知られた木山弾正は肥後木山(現・益城町)の城主でしたが、城を追われた後は縁戚の天草種元の客将として天正天草合戦に参加。仏木坂の戦いで戦死しました。お京は亡き夫の鎧兜を身につけて弔い合戦に打って出ましたが、梅の木の枝に兜の錣がからんでしまい、黒髪が見えて女性とわかり、あえなく討ち取られたという悲劇が伝わっています。

笠鉾大解剖 八代妙見祭の本町蕪部材を展示        2017年2月3日

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妙見祭がユネスコ無形文化遺産に登録されたことを記念して「笠鉾大解剖」と題した展示会が八代市立博物館未来の森ミュージアムで始まりました。

八代城の城下町だった各町内に江戸時代から受け継がれている笠鉾9基のうち、八代市本町の笠鉾「本町蕪(ほんちょうかぶ)」が解体された状態で展示されました。笠鉾は250~300個の部材で作られており、祭りの前に組み立てられ、祭りが終わると解体されます。ふだんは町内の倉庫で保管され、200年以上も受け継がれてきたということです。

笠鉾は当初は町の名を記した「町印(まちじるし)」という飾りを載せた人が持つ傘状のものでしたが、次第に観客の目を意識して豪華で大型なものに代わっていきました。外見で違いがわかるようになるにつれ、笠鉾から町印は消えていきましたが、本蝶蕪だけは城下町の中心である「本町」という町印にこだわり、「本」、町と音が同じ「蝶」、「蕪」の飾りで笠鉾を飾ってきました。

郷土史家が撮影した昭和初期の熊本 初公開         2017年2月2日

170202ki.jpg熊本の郷土史を研究し、植物学者でもあった上妻博之(こうづま・まさゆき 1897~1967)が、大正・昭和の熊本の風景を撮影した写真の展示会が、県立図書館で始まりました。

上妻(写真右下)は県内の天然記念物を選定するため調査した500本以上の大木・名木のほか、1910~40年代の風俗・風景写真を900枚以上の写真を撮影しました。そのガラス乾板(ネガ)は1945年(昭和20年)の熊本空襲を免れて残っていますが、こうした写真はほとんど公開されていませんでした。

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展示されているのは、上妻が熊本の樹木や風景を集めた写真34点です。なかには昭和初期の1934年(昭和9年)に撮影された「千代の七本松」(津奈木町)など、今はない樹木もありますが、1927年(昭和2年)撮影の「御花畑大楠」(熊本市の花畑公園にある大楠)、1929年(昭和4年)に撮影された南阿蘇村の「一心行の桜」などは、今もその姿を残しています。また、昭和初期に撮影された五家荘地区(八代市)の様子には、当時暮らしていた人たちの姿が数多く写っています。

県立図書館学芸調査課の丸山伸治課長は「今失われてしまった熊本の風景がかつてどんなに美しかったかというのを感じてほしい」と話しています。

熊本市の小楠公園で巨大石碑の復旧工事        2017年1月27日

熊本出身で幕末の思想家、横井小楠(よこい・しょうなん、1809~69)の遺髪が埋葬された熊本市東区の小楠公園で、熊本地震で倒れた高さ5メートル、重さ13トンの石碑を引き起こす復旧作業が行われました。熊本市は2月の墓前祭までに小楠像や遺髪墓の修理を終わらせる考えです。

「おばけの金太」厚賀新八郎さんに県民文化賞         2017年1月4日

170117obake.jpg熊本の伝統工芸玩具「おばけの金太」を手がける厚賀新八郎さんに、2016年度の県民文化賞が贈られることになりました。半世紀以上にわたり「おばけの金太」を制作し、郷土玩具の楽しさを伝えてきたことが評価されました。

「おばけの金太」は、木と紙でできた黒い烏帽子に真っ赤な顔が特徴で、頭の後ろに出ているひもを引くと、白目で舌を出すからくり玩具です。加藤清正に仕えていた冗談好きな 「おどけの金太」という足軽をモデルに、人形師の西陣屋彦七が作ったとされています。彦七は京都から熊本に移り住んだ西陣屋新左衛門から5代目にあたる人形師で、人形は彦七の跡をついで厚賀人形店が制作してきました。1877年(明治10年)に西南戦争の巻き添えで店が焼けたときも、店主はおばけの金太の型を抱えて逃げたといいます。

顔が赤いのは金太が酒飲みだったから、金太が熊本城築城の際に石材運搬の頭として炎天下で働き日焼けしていたからという説のほかに、子どもを疫病から守るため、魔よけの赤を使ったという説もあるそうです。舌を出すのは、歌舞伎などの舞踊のひとつである「舌出し三番叟」に由来するという説や、浄瑠璃の人形をまねたという説もあるようです。

生誕130年記念し堅山南風の作品展           2017年1月4日

NANNPOO (1).jpg大正から昭和にかけて活躍した熊本県出身の日本画家・堅山南風(かたやま・なんぷう、1887~1980)の生誕130年を記念した作品展が、熊本市中央区の肥後銀行本店・肥後の里山ギャラリーで始まりました。ツバキを実物大で描写した代表作「肥後椿」や屏風絵「雪の朝」など18点が展示されています。

油問屋の家に生まれた堅山ですが、幼いころに両親が相次いで亡くなり、苦学しながら絵画を学び、上京して横山大観に師事。再興日本美術院にて次々と作品を発表する。1968年(昭和43年)に文化勲章を受章しました。

蓮華院誕生寺奥之院 大梵鐘のすす払い           2016年12月23日

161223daibonsyou.jpg玉名市の蓮華院誕生寺奥之院では大梵鐘(だいぼんしょう)のすす払いが行われました。

僧侶たちが高さ4.5メートルの鐘にはしごをかけて登り、たまったすすやほこりを取りました。今年の汚れを落とした後、熊本地震からの早期復興を祈願して大梵鐘をつきました。大晦日にはこの大梵鐘で除夜の鐘をつきます。

県内古墳33件で地震の被害 専門家が内部を視察        2016年12月12日

kohunA.jpg熊本地震で被災した県内の古墳の被害を調べようと大学教授などで作る検討委員会が玉名市永安寺の国指定史跡、永安寺東古墳と西古墳を視察しました。

kohun2_R.jpg永安寺東古墳では委員が古墳の内部に入り、被害状況を確認しました。熊本地震の前と後を比ベてみると、石室の壁の一部が落下しています(写真上丸囲み部分)。調査した熊本大学大学院先端科学研究部の山尾敏孝教授は「地震で中の石が動いているので、割れが発生しています。はく離も生じている状況が見えます。地震の強さの影響が出ていると改めて思いました」と感想を述べました。

古墳時代後期の6世紀後半に造られたとみられる永安寺東古墳は、国内屈指の装飾古墳として知られ、壁画に赤で彩色された円形や三角形の文様が装飾されています。

160817kohun.jpg永安寺東古墳と西古墳については、文化庁も2016年8月17日、文化財古墳壁画対策調査官と奈良文化財研究所の担当者が古墳内に入り、前室と玄室の装飾に石材の損傷や剥離、石材の落下や亀裂があることを確認しています。

県によると、これまでに国指定7件、県指定10件、市町村指定16件の計33件、約40基の古墳で被害が確認され、このうち装飾古墳は16基に大きな被害が出ています。

検討委員会は今後も現地視察を重ね、古墳の修復方針などを示す方針です。

真紅の漆塗り 上代町遺跡群から弥生中期の剣柄         2016年12月1日

161201KATANAa.jpg熊本市は弥生時代の生活の跡が残る熊本市西区の上代町(かみだいまち)遺跡群から、弥生時代中期のものとみられる赤い漆を塗った剣の柄(つか)が出土したと発表しました。国内では奈良県橿原市の坪井・大福遺跡に次いで2例目となります。朝鮮半島のものと似た特徴がみられることから、朝鮮半島との交流を伝える貴重な発見とみられます。

出土した漆塗りの柄は、長さ11.5センチの木製で、赤い漆が塗られています。当時、朝鮮半島で作られたものと特徴が似ていることから、熊本市は朝鮮半島と交流のあった権力者が所有し、祭祀に使用していたのではないかとみています。柄の下部に取り付けられる「盤」も発見されました。

これまで国内で出土した同様の柄は木刀が装着されていたとみられるのに対し、今回出土した柄は受け口の形状から銅の剣に装着されていた可能性が高く、その場合は国内で初めての出土になるということです。この場所に相当な権力者がいたことを示し、一帯に地域の拠点となる大きな集落があったと推定できます。市埋蔵文化財調査室の芥川太朗さんは「全く同じものが国内にない。あの柄が基準となって今後研究が進んでいくと思う」と話しています。

一帯は地下の水位が高く遺構の腐食が進みにくいことから、縄文時代から近世に至るさまざまな遺構が眠っているとみられ、熊本市は浸水対策事業に伴い、一帯を発掘調査していました。今回の発掘では、古墳時代後期のものとみられる馬1頭の骨がほぼ丸ごと出土しています。

肥後手まり2500個、熊本市中心街に登場          2016年11月3日

171104higotemari_R.jpg熊本市中央区の下通アーケードに、熊本の郷土玩具「肥後てまり」約2500個が飾られました。

商店街の青年部が「肥後てまり同好会」の指導を受けて企画したもので、「やぐら」と呼ばれる木製の枠に釣り糸で飾られた色とりどりのてまりが、通行人の目を楽しませていました。

肥後てまりは江戸時代前期に誕生したとされる熊本を代表する玩具で、「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ...」と問答形式で歌う「肥後てまり唄」でも知られています。

熊本市役所花畑町別館の保存を 国際学術組織が要望書      2016年10月24日

1024hanabatabekkan.jpg80年前に建設された熊本市役所花畑町別館が「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選ばれ、選定した団体から熊本市にプレートを贈りました。

選定プレートを贈ったのは、近代建築の保存活動に取り組んでいる国際学術組織の日本支部「DOCOMOMOJAPAN(ドコモモジャパン)」です。花畑町別館は世界的建築家で、日本武道館や京都タワービルんなどを設計した山田守(1894~1966)の設計で、80年前に熊本地方貯金支局として建設されました。熊本市は耐震構造上問題があるとして、今年度中に解体を始めることにしていますが、保存を求める声も多く出されています。

DOCOMOMOJAPANの松隈洋代表は「近代建築として価値のあるこの建物をぜひ保護してほしい」と、選定プレートとともに保存を求める要望書も提出しました。要望を受けた熊本市の田中俊実財務部長は「保存を求める声を関係各所に伝え、検討したい」と答えました。

山鹿灯籠職人が和紙とのりだけで作った「天空の城」       2016年10月12日放送 

jiburiyamagaB.jpg熊本市現代美術館で開催されている「ジブリの立体建造物展」で、山鹿灯籠職人が作った「天空の城」が特別展示されています。

会場の入口に展示されているのは、天空に浮かぶラピュタ城。この作品を作ったのは山鹿市の中村潤弥さん(27)です。中村さんは熊本の伝統工芸、山鹿灯籠の若き職人です。「山鹿灯籠を作り始めたころから、いつかジブリの作品を作りたいというのが夢だった」そうです。熊本の伝統工芸を大切にしたいと今回の展示会に合わせて制作の話が舞い込んで来ました。イラストなどを参考に、自分で設計図を描き起こすところから始めました。山鹿灯籠と同じく、材料は和紙とのりだけです。

161012giburiyamagaA.jpg制作途中で出来栄えを見に来たスタジオジブリの青木貴之さんは「土の汚れのような質感」を求めました。繊細な美しさを求める山鹿灯籠とは違った表現です。山鹿灯籠では絵の具などで色を付けたり、表面を削ったりする手法は使いません。中村さんは細かくちぎった和紙を貼り付け、あえて凹凸をつけることで汚れを表現しました。スタジオジブリ側も「素晴らしい作品を作ってもらって、率直にうれしい」(青木さん)と出来栄えに満足してくれたようです。渾身の作品は山鹿灯籠の魅力と可能性を多くの人に伝えています。

400年の歴史持つ肥後象眼 白木光虎さんの作品展         2016年10月12日

161012higoA.jpg肥後象眼師、白木光虎さんの作品展が熊本市の鶴屋百貨店で始まりました。会場には白木さんが制作した文鎮や宝石箱、アクセサリーなど約150点が展示されています。

肥後象眼は約400年前に始まった刀の鍔(つば)などに施される技です。加藤家に仕えていた林又八という鉄砲鍛冶が、新たに肥後藩主となった細川忠利のもとで銃身に紋を描いた鉄砲や、刀の鍔(つば)を制作したのが始まりといわれています。今は熊本の伝統工芸としてアクセサリーなどが作られています。

被災した文化財保存の方法学ぶ研修会       2016年10月11日

bunkazaiC.jpg被災した建物から運び出された古文書や美術品などの文化財を傷み少なく保存する方法を学ぶ研修会が、宇城市の熊本博物館ネットワークセンターで開かれました。

研修は、今後大規模災害が発生した時に文化財をどう守るか知ってもらうため、県教委などが開きました。汚れてしまった史料をはけで払う実習などが行われました。県内各市町村の職員や博物館の学芸員たちが、防護服に防塵マスク、手袋姿で参加。「なるべく一方向にすっといくよう心がけてください。短くささっとやると、ほこりが残ってしまいます」「この辺は折り目があって、もしかすると2冊になっているかもしれませんが、びりっと破れそうなら基本的に何もしないというのが大原則です」といった指導を受けながら、熱心に取り組んでいました。

人吉市から参加した職員は「古文書は扱っていても、被災した史料はめったにないのに、ましてやそれをどうするかは普通は習いません。その知識や考え方を学べるのは大事です」と話していました。

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熊本地震では文化庁の被災文化財救援事業により、県内の住宅や寺など、約二十棟から古文書など2000点以上の文化財が運び出されました。被災した住宅や寺などから救出された文化財は必ずしもいい状態で見つかるわけではありません。地震の後の大雨で濡れてしまったものや、カビが生えたもの、がれきに埋まって汚れてしまったものもあります。

阿蘇の「草泊まり」作りを地元小学生が体験         2016年10月6日

1006kusaA.jpg阿蘇市の一の宮小学校の4年生が、草原学習の一環として「草泊まり」作りを体験しました。

草泊まりは、牛馬の飼料となるススキなどを刈り取る作業をする際、農家の人が草原にススキや竹で作り、寝泊まりしていた円錐状の小屋です。トラックなどが普及する昭和30年代頃まで、阿蘇の草原で作られていました。

この日は児童たちが小学校の敷地内で、地元の農家の人たちから指導を受けながら、直径2.5メートル、高さ2.5メートルほどの円錐形のやぐらを作りました。

八代のショッピングセンターに古刹の十一面観音      2016年9月20日放送

16092011menA.jpgのサムネイル画像1200年以上前に創建されたとされる古刹に伝わる仏像が、八代市のショッピングセンターで公開されました。

展示されているのは江戸時代の作とされる「十一面観音菩薩立像」です。八代市泉町「釈迦院」が所蔵しており、八代市の観光PRなどを行っている「DMOやつしろ」が多くの人に見てもらいたいと、寺の協力を得て八代市のイオン八代ショッピングセンターに展示・公開しました。
立像はヒノキ材1本を削りだして作られ、台座から頭の上の輪まで59センチあり、前面に金箔が貼られています。 観音菩薩の顔の上には小さな顔が10並んでいて、あわせて11の顔があらゆる方向を見て、人々を救済すると言われています。

釈迦院は799年(延暦18年)、桓武天皇の勅願で創建されたと伝わり、大行寺山(釈迦岳)の頂上近くにあります。信仰すると長患いすることがないといわれ「ぽっくり寺」とも呼ばれています。かつては僧坊、末寺が建ち並び、西の高野山と呼ばれたそうです。キリシタン大名小西行長(1558~1600)の焼き討ちにあいましたが、加藤清正によって再興されました。

災害による消滅を防ぐ文化財レスキュー 浮上した課題とは   2016年9月6日放送

160907RESUKYUA.jpg熊本地震で被災した寺や蔵には、多くの古文書や美術品が収められていました。こうした文化財を地震の被害から救い出す「文化財レスキュー」が進んでいます。

400年以上の歴史がある熊本市中央区の善教寺。今年7月、博物館の学芸員や歴史の研究者などがこの寺に集まりました。寺に残された古文書などを救い出す「文化財レスキュー」を行うためです。寺の本堂は雨漏りがひどく、あちこちにカビやキノコが生えています。本藤の棚は4月の地震の後、手つかずのまま。レスキュー隊員たちは、水に濡れた書籍を丁寧に取り出していきます。この日は古文書や経典、掛け軸など段ボールおよそ50箱分の文化財を救出しました。

国や県の指定文化財は保護の対象ですが、指定を受けていない文化財は災害の時、保護する予算がありません。放っておけば捨てられ、消滅する恐れがあります。

160907inaba_R.jpg地震の後、すぐにレスキュー活動を始めたのは、熊本大学の稲葉継陽教授(写真左)です。熊大には、昔の庄屋の蔵からレスキューした文化財が保管されていました。どれも熊本の庶民の思いを今に伝える貴重な史料です。

稲葉教授は「この庄屋さんが村の人たちから特別税を徴収して藩に収めた。着服や不正があると大きな問題になるので、その関係の書類をわざわざ箱を作って管理したのです」と説明し、「熊本の歴史文化は加藤清正だけが作ったわけではありません。地域の基礎の部分をちゃんと明らかにするのはこういう史料しかない。それが災害で失われてしまったら、もう永遠にわからなくなってしまう」とレスキューの意義を説明します。

宇城市にある県博物館ネットワークセンターには、これまで救い出された500件以上の文化財が保管されています。こうした施設に一定期間保管された後、所有者に返されますが、ある問題が浮上しています。引き取り手がいないのです。

「東日本大震災の時にも膨大な史料レスキューが行われましたが、現在でも100件以上の史料が返されないまま保管されているというふうに聞きます」と稲葉教授。文化財を個人で管理し続ける負担の大きさは震災の前から指摘されていました。「そういった古文書などを公的に保管して、管理して、活用する機関、組織、そういうものが熊本でも作られなきゃいけない。(文化財レスキューが)そのひとつのきっかけになればいいなと思っています」

地震の後には大雨や台風もありました。建物のなかから文化財を救出するのは時間との戦いでもあります。人々の暮らしの歴史を今に伝える文化財。地域の宝をいかに保管し残していくか。稲葉教授はその手始めとして、学生たちと目録を作り、古文書などを読み解く活動を始める予定です。

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元熊本市長・星子敏雄さんが子どもにも語らなかった過去とは   2016年8月15日放送

HOSIKOb.jpg熊本市長を4期務めた星子敏雄さん(ほしこ・としお、1905~1995)の激動の生涯を記した本が、このほど出版されました。副題は「満州国の最期を背負った男」(弦書房、2000円、写真右下)。著者は元新聞記者の荒牧邦三さんです。

星子さんは1905年(明治38年)に鹿本町(現在の山鹿市)に生まれ、1970年(昭和45年)から4期16年間にわたって熊本市長を務めました。荒牧さんが星子さんのことを調べ始めたのは、熊本姿勢を担当し、星子さんの経歴を調べたことがきっかけでした。荒牧さんは「これだけの経歴を持った人が、一切しゃべっていない。記録にも残していない。4期16年も熊本市長をやった力の源泉は何なのか。そこをきちんと描き出すのは面白そう、という新聞記者特有の本能で取り組み始めた」といいます。

160815hosiko1_R.jpg星子さんは東京帝国大学を卒業後、すぐに中国の旧満州にわたり、「満州国」の建国に立ち会います。「アジアの平和に貢献したい」という強い思いを持ち、39歳の若さで警察組織のトップに上り詰めるなど、満州国の治安維持に尽力しました。しかし、日本は敗戦。満州に攻め込んできた旧ソ連に、治安組織のトップとしての責任を問われ逮捕され、シベリアの収容所に連行されました。

マイナス30度にもなる極寒のシベリアでの厳しい抑留生活。「ある日、だれか気でも狂ったのだろうか。断末魔のようなギャーッという声を聞いた。自分だってその寸前だった」

星子さんは荒牧さんに手を見せて、つまんで見せたといいます。「つまむと皮膚が浮き上がる。これが元に戻らない、という。それぐらいやせ細ったと」。5万人以上が死んだといわれる過酷なシベリアでの抑留生活。辛くも生き延びた日本人の多くは4年以内に帰国の途に就きましたが、星子さんの抑留生活は11年に及び、ようやく帰国できたのは1956年(昭和31年)のことでした。

160815hoshiko5_R.jpg1995年(平成7年)、89歳で生涯を終えた星子さんは、最後まで満州やシベリアでの経験を家族にも話すことはありませんでした。息子の昭宇さん(74)は「自分が満州国建国という理想に燃えていて、思うような国ができず、途中で挫折したというのはあったと思う」と考えています。シベリア拘留中に届いた家族への葉書にも、家族への謝罪と健康を気遣う言葉ばかりでした。

160815hoshiko6_R.jpg取材をした荒牧さん(写真左)も「(星子さんは)満州生活13年5か月、シベリア抑留生活11年。これをそう簡単に一口では語れない、あるいはわかってもらえないだろうと(言っていた)」と振り返ります。そんな星子さんを説得し、25時間に及ぶインタビューでその経験を聞くことができた荒牧さん。星子さんのほかに20人以上の証言、200冊以上の資料を集め、まとめたのが「満州国の最期を背負った男」です。30年も前から取材をしていましたが、昨年になって星子さんの話を裏付ける旧ソ連の調書(写真右)をロシア政府から入手できたことが、出版の大きなきっかけになりました。

荒牧さんは「星子さんを通じて私は日本の歴史の一端を見ました。本当の歴史とは別のひとりの国民の歴史だと思っています」と言います。

「私たちは星子さんの生き方を見ながら戦争に対して何をしなければならないのかを学ばなきゃいけない。歴史の中で何度も戦争を見てきていますけど、絶対にあってはならない。してはならない。許してはならない」

被爆の実態伝えるパネル展 県庁ロビーで始まる         2016年8月3日

160803kencyougenbakuA.jpg広島と長崎に原爆が投下されて今年で71年。被爆の実態を伝えようと、3日から県庁でパネル写真展が始まりました。

熊本県内の被爆者団体が開いたもので、会場には原爆の被害を伝える写真や核兵器についての資料など、写真パネル30点が並んでいます。中にはアメリカ海兵隊のカメラマンが長崎で撮影した、亡くなった幼い弟を火葬する場所に連れてきた少年の写真もあります。

主催した団体は「被爆の実相を知るために足を運んでもらい、核兵器や戦争は絶対ダメだという思いを感じてほしい」と話しています。この展示は県庁新館1階ロビーで、8月10日まで開かれています。

山中の橋のたもとから海岸に流れた柱 再び山中の橋のたもとに   2016年8月1日

160801hyoucyuu_R.jpg南阿蘇村の山中の橋のたもとに立っていた場所の説明などが書かれた標柱が50キロ離れた荒尾市の海岸で見つかり、1日、南阿蘇村に送り届けられました。

標柱は長さ2.1メートル、重さ20キロで、南阿蘇村が有形文化財に指定している床瀬川橋のたもとに立っていましたが、熊本地震と大雨の影響で流されてしまいました。その標柱が7月26日、直線距離で約50キロも離れた荒尾市の蔵満(くらみつ)海岸に流れ着いているのが見つかり、荒尾市は「復旧復興の手助けになれば」と、1日に標柱を南阿蘇村に送り届けました。

流された標柱について、荒尾市の職員は「南阿蘇の山から川でつながって海に流れ着くとは驚いた」と振り返ります。一方、南阿蘇村の藤岡孝輔教育長は「はるばる(戻って)来たので縁を感じる。地元の人も息子が帰ってきたような感じがするのでは」と話します。

標柱は5月下旬に地元の人が撮影した写真には写っており、南阿蘇村では流されたことも知らなかったということで、荒尾市から連絡を受けて大変驚いたそうです。村では標柱を元の場所に戻すことにしており、その際には荒尾市から戻ってきた経緯などを書いた看板も設置したいとしています。

キリスト禁教期の崎津の歴史を紹介する資料館オープン    2016年8月1日

160801sakituA.jpg世界文化遺産登録を目指す天草市河浦町崎津地区に、集落の歴史と文化を紹介する「崎津資料館みなと屋」がオープンしました。1日のオープニング式典では、中村五木市長などがテープカットをしたあと、中村市長と河浦高校の生徒が看板をかけました。

この資料館は、天草市が1936年(昭和11年)に建てられた旅館の寄贈を受け、約9200万円をかけて改築したものです。木造2階建てで191平方メートルの広さに展示室や休憩室、展望室を備えています。展示室では、禁教期の漁村特有のキリスト教信仰を紹介していて、崎津教会が所蔵する白蝶貝で作られたロザリオなどが展示されています。集落の歴史を解説するジオラマなども設置されていて、キリスト教禁教期のこの地区の歴史や文化・習俗がわかるようになっています。

資料館は入場無料で、年末年始の12月30日~1月1日を除き、毎日午前9時から午後5時まで開館しています。

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崎津集落 再び世界文化遺産候補に選ばれる            2016年7月25日

160725sakitu_R.jpg文化庁の審議会は2016年7月25日、2018年の世界文化遺産登録を目指す推薦候補に、天草市の﨑津(さきつ)集落を含む「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を選びました。

推薦候補に選ばれたのは、天草市の﨑津集落や長崎市の大浦天主堂など、12か所で構成する「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」です。16世紀にキリスト教が日本に伝来して長崎で広まって、江戸時代に弾圧を受けながらも明治時代に復活したという歴史を物語る遺産です。

おととしにも国の推薦を受け、今年の世界文化遺産登録を目指していましたが、ユネスコの諮問機関から「キリスト教の禁教の時代に焦点を当てるべき」との指摘を受け、政府は今年2月、いったん推薦を取り下げていました。その後、関連自治体などでつくる推進会議は、キリスト教の弾圧と関連性の薄い資産を外すなど、構成内容を見直して再び推薦を勝ち取りました。

170119sakituA (1).jpg「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は2017年1月19日開かれた政府の関係省庁会議(写真右)でユネスコへの推薦が正式に決まり、20日の閣議で了解されました。蒲島知事は「関係自治体との連携のもと万全の態勢で臨み、世界文化遺産登録の実現に向けて県内の気分を一層盛り上げたい」とするコメントを発表しました。

山鹿市の吉岡家住宅など6件、国の登録有形文化財に 文化審答申   2016年7月18日

YOSHIOKAKE.jpg明治時代に建てられた山鹿市の吉岡家住宅の主屋など、あわせて6件を国の登録有形文化財に指定するよう、国の文化審議会が文部科学大臣に答申しました。

国の登録有形文化財に答申されたのは、山鹿市鹿本町来民にある江戸時代から続く農家、「吉岡家」の住宅の主屋や蔵など6つの建物です。このうち「主屋」(写真左、中)は1885年(明治18年)ごろに建てられた瓦ぶき木造一部2階建ての建物で、一般的な屋根より一段高く設けた超屋根を備え、明治時代の景観を今に伝えています。吉岡家は明治期に興った地元の養蚕業者として知られ、屋根の上にさらに小さな屋根が取り付けられ、天井には、2階部分の床を天井とする「根太(ねだ)天井」と、さおを並べて天井板を置く「竿縁(さおぶち)天井」が採用されています。また「江戸蔵」(写真右)は、明治8年ごろに熊本市京町から移築したとされる2階建ての土蔵造りです。

今回指定されれば、県内にある国の登録有形文化財は161件になります。

熊本は元気です!伝える県外公演を再開 山都町の清和文楽   2016年7月10日

160712bunraku_R.jpg熊本地震の影響で来場者が激減している山都町の人形浄瑠璃「清和文楽」がいつもの劇場、清和文楽館を飛び出し、10日、地震後初めての県外講演を佐賀県のショッピングセンターで行いました。

清和文楽は江戸時代から山都町で受け継がれてきました。今年の4月には十数年ぶりに若い担い手が初公演を披露しましたが、その直後に熊本地震が起きました。劇場に大きな被害はなく、地震後も通常営業していて毎週日曜日には公演も行っています。しかしお客さんがほとんど訪れない状態が続いています。

清和文楽館の佐藤義和さんは「文楽館は大丈夫といろんなところにPRしても、熊本は怖いといわれた。ならうちがいろんなところに行って公演しようということになった」と話します。来場者が減って苦しんでいることを知った佐賀県のフレスポ鳥栖が出前公演を依頼してくれたのです。支援を呼びかけたのは山都町出身の藤原育子さん。「長年引き継いできたものが(地震で)なくなるのではないかと心配になって、何とか力になれないかと思った」と話します。

演目は「日高川入相桜王(いだかがわいりあいざくら)」。見せ場は主人公の清姫が恨みと嫉妬に燃える場面です。出前公演は会場の制約などから使う人形の数も少なく、物語のさわりを披露する「ミニ公演」ですが、ふだんの専用の劇場での公演と違って、この日の会場は大型店のイベントスペース。長机に布をかけて足跡の舞台を作ります。

三味線と大夫は修業を終えたばかりの若い2人。新人太夫の渡辺奈津子さん(27)は「(会場が)広いのでマイクもついて声の調整が難しいけど、がんばります」と入念に準備。集まった多くの買い物客の前で「恋の呵責に砕かれて...」と熱の入った語りを披露しました。

公演を見た人は「地震の時は大変だったでしょうが、いいものに触れさせてもらって幸せでした」「人形が人間みたいにいきいきしていて、復興のエネルギーが人形にうつっているように感じました」と感想を話していました。

渡辺さんは「熊本の人は元気にやっていますよとお客様に伝えられたのでよかったと思います。(今回観てくれた人が)文楽館に来てもらえるまで、また練習したい」と話していました。県外公演は福岡県や長野県でも予定されています。

県内の文化財2割以上に地震の被害 国の補助拡大を要望    2016年6月27日 

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県文化財保護審議会は27日、熊本地震以降初めて会合を開き、文化財の復旧に向けた緊急提言をまとめました。県内では一連の地震で、国と県の指定文化財、それに国の登録文化財あわせて685件のうち、2割を超える150件で被害が確認されたといいます。

その上で緊急提言では、文化財の早急な復旧を図るため、市町村や個人所有者などの負担が軽減されるよう国の補助率を引き上げることなどが盛り込まれました。

審議会では緊急提言を国にアピールし、1日も早い文化財の復旧や保存につなげたいとしています。

震災を超えて戦争の教訓を伝える 遺跡を回り保存活動     2016年6月7日放送

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戦争を知る一つの手がかりとなるのが「戦争遺跡」です。今も県内に多く残されていますが、熊本地震ではその遺跡も被害を受けており、中には姿を消そうとしているものもあります。調査保存活動を続けている玉名市の高谷和生さん(61)は、被災した戦争遺跡の被害状況を調べ続けています。

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熊本市南区城南町にある戦争遺跡のひとつ、「油倉庫」。この倉庫が残る城南町一帯には、旧陸軍の隈庄(くまのしょう)飛行場がありました。開設されたのは1941年(昭和16年)。1945年(昭和20年)4月には戦況が悪化し、ここから多くの若者が沖縄特攻に出撃し、命を落としました。世界的な俳優、三船敏郎さんもこの隈庄飛行場で終戦を迎えたといわれていて、舞台の祭りで演劇を披露した時の写真(右)も残っています。

油倉庫はここに隈庄飛行場があったことを示す貴重な遺跡。投じは飛行場のエンジンオイルなどが保管されていたとみられています。今回の地震でコンクリート製の壁が崩れ、大きな被害を受けました。高谷さんは「文化財の指定に相当するようなものだと思っていたので、状態が良かっただけに残念としか言いようがないですね」と顔を曇らせます。戦争遺跡は軍の建物など、戦争を今に伝えるいわば「無言の証人」です。終戦から70年以上が経ち、戦争を体験した人が少なくなっている今、戦争遺跡は貴重な存在なのです。

高谷さんはこれまで50か所以上の戦争遺跡を確認した高谷さん。そのうち30か所近くで倒壊や亀裂などの被害が確認されました。しかし、確認したのはまだ一部だけ。調査が進むにつれ、被害はさらに増えるとみられます。

「いろんな開発行為から逃れ、地元の方々の熱意で残ってきた戦争遺跡が倒壊していまうのは非常に悲しい」と高谷さん。しかし、戦争遺跡の多くは文化財などの指定を受けておらず、復元費用への公的援助が見込めないため、すべてを元通りに復元することは難しいのが実情です。実物が残さなければせめて図面に残そうと、高谷さんは油倉庫の測量をしています。「先の戦争のような悲惨な戦争をしてはいけない。そのために次の世代の私たちができることは客観的なデータをもとに戦争に様子を伝えていくこと。そのための資料作りです」。震災を超えて戦争の教訓を後世に伝えようと、高谷さんはきょうも頑張っています。

「永青文庫展」 領内名勝図巻など24点              2016年4月11日 

160411eisei1_R.jpg細川家の貴重な史料や美術品を見ることができる展示会が、熊本市肥後銀行本店ビルの「肥後の里山ギャラリー」で始まりました。

熊本藩8代藩主、細川斉茲(なりしげ、1755~1835)の命によって制作され、小国町の滝などが描かれた「領内名勝図巻(めいしょうずかん)」や、永青文庫を設立した細川護立に贈られた日本画家の横山大観の絵画など24点が展示されています。

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肥後の里山ギャラリーのホームページは yubiyubi.png こちら

熊本工の生徒が菅原神社の絵馬を復元          2016年4月8日放送

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長い年月を経て色落ちした神社の絵馬の復元に、熊本工業高校生が取り組みました。

上の写真は今年1月、古い絵を参考に色を塗り進めるインテリア科3年生たちの作業風景です。絵馬は熊本市北区大鳥居町にある菅原神社に飾られていましたが、奉納からおよそ130年が経ち、元の絵がわからないほど色あせてしまっていました。

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大鳥居自治会は「今まで先祖が守ってきた地元遺産を残していこう」(穴澤秀樹会長)と考えましたが、復元を業者に頼むと100万円以上かかってしまいます。そこでデザインなどを学んでいる熊本工業インテリア科に復元を依頼し、熊工も「日本的な文化に触れられる良い機会」(インテリア科の高森聖樹先生)と、3年生8人の卒業課題として絵馬の復元を引き受けました。

生徒たちの元に絵が届けられたのは2015年5月。復元とはいえ、元の絵馬の劣化は激しく、作業は新しい板を作るところから始まりました。元の絵を専用の紙を使って写し取り、出来上がった板に転写。6月からは絵具を定着させるための下塗りが始まりました。

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月日の経過で元の色が消えてしまったところは、絵馬を近くからよく見て「何色っぽいか」を想像したり、絵馬の題材となっている絵をネットなどで探して集めた中から一番雰囲気があう色にしたりして決めていきます。

「酒呑童子は大酒呑みで常に酔っぱらっていたと思うので、(顔の色は赤味のあるオレンジにしました」「綺麗に塗れた時は楽しいです」「何年も飾られるという重大な役目なので失敗しないように、喜ばれるように」。生徒たちは力を合わせて作業を進めました。

作業開始から9か月。完成した絵馬が菅原神社に帰り、素晴らしい出来栄えに穴澤さんは大喜びでした。菅原神社にはあと3枚古い絵馬が残っていて、新3年生も絵馬の復元を行う予定です。

「現代版永青文庫」 熊本大が設置     2016年4月5日

160405kumadai-2_R.jpg熊本大学の原田信志学長(写真右)は記者懇談会で、県内外の歴史的な価値ある文書を収集し、なくなってしまわないようにしっかり保存する「文書館」を4月1日付けで学内に設置したことを明らかにしました。

熊本大学は肥後熊本藩主だった細川家が長年収集してきた永青文庫の史料の研究で知られていますが、文書館は学内の研究成果や水俣病の関連資料など、後世に残すべき史料を集めて伝える「現代版の永青文庫」となるものです。

文書館は公文書の管理・保管について定めた公文書管理法に基づいて設置され、当初は学内の史資料を収集しますが、今後、県政関係の史料、熊本の歴史や地域の資料なども、公文書、私文書の区別なく集める方針です。収集した史料は将来、データベース化して一般に公開する計画です。熊本大学では、貴重な史資料の散逸を防ぐため、個人からの文書の寄託も呼びかけています。

水前寺成趣園で子ども古今伝授     2016年3月26日  

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熊本市中央区の水前寺成趣園(じょうじゅえん)とその周辺で「水前寺まつり」が行われ、無料開放された成趣園には花見客や観光客でにぎわいました。

県の重要文化財に指定されている古今伝授の間では、古今和歌集の読み方や解釈を秘伝として師から弟子に口伝えする様子を子供が再現する「子ども古今伝授」が行われました。古今伝授の間はもともと京都に建てられた八条宮智仁親王の学問所で、戦国時代に細川幽斎(藤孝、1534~1610)が智仁親王に古今伝授した建物です。1912年(大正元年)に今の場所に移築されました。

子ども古今伝授は当時の衣装を着た子ども2人が秘伝を再現し、多くの人が解説を聞きながら日本古来の伝統文化に触れていました。

160326suizennji-3_R.jpg成趣園ではこのほか、能楽殿で阿蘇中江神楽(かぐら)などが披露されたほか、社務所では夏目漱石来熊120年を記念した高校生の俳句会もありました。園内の桜は見ごろを迎え、多くの人が繰り出していました。

孫文生誕150年企画展     2016年3月17日放送

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「中国革命の父」である孫文が生まれて今年で150年です。荒尾市の宮崎兄弟資料館では、孫文の功績を紹介する企画展が開かれています。

孫文(1866~1925)は中国・広東省の生まれで、1911年(明治44年)から始まる辛亥革命で、260年余り続いた清王朝を倒して中華民国を建国し、今でも「国父」として慕われています。宮崎滔天(本名・宮崎寅蔵、1871~1922)は欧米列強からアジアを解放する大志を抱いてアジアや中国で活動。1897年(明治30年)に横浜で孫文

と初対面して彼の思想に心酔し、兄弟で孫文を支えました。孫文は亡命中と辛亥革命を成し遂げた後、2回にわたって荒尾の宮崎家を訪れています。

宮崎家はその後荒尾市が買い取り、敷地内の資料館とともに一般公開しています。孫文が滔天と一緒に写った写真などが展示され、孫文と宮崎兄弟の交流について紹介しています。企画展は27日までです。

宮崎兄弟と資料館の情報は yubiyubi.png こちら

世界のミフネ デビュー前の写真     2016年3月15日放送 

MIHUNE-KAO.jpg世界的な俳優、三船敏郎さん(1920~1997)をデビュー前に熊本で撮影しとみられる写真が公開されました。当時熊本にあった旧陸軍の飛行場で終戦直前に撮影された可能性が高いとみられます。

熊本市南区城南町の一帯には、かつて旧陸軍の「隈庄(くまのしょう)飛行場」がありました。三船さんの貴重な写真は終戦直前の1945年(昭和20年)7月にこの地で撮影されたとみられています。帽子に眼帯、口元にはひげのメイクが施されており、隈庄飛行場で年に1回行われていた部隊の祭りで演劇を披露したときのものとみられています。当時三船さんは25歳で、役者としてデビューする前でした。

戦争遺跡の保存活動を行っている高谷和生さんは「三船敏郎が隈庄で演劇をやっていた事実が写真という形で残っていたことが驚き」と話します。もともと写真は三船さんのプロダクションが所有していましたが、撮影場所や時期がわからず公表されていませんでした。高谷さんが調査したところ、元隊員から「白いつなぎのエンカン服、作業服ですが、これを着て仮設の楽団の前でタクトを振りながら演じる三船の姿を見た」という証言が得られたそうです。

三船さんは生前、「終戦は隈庄飛行場で迎えた」と話していることなどから、高谷さんは熊本で撮影された可能性が高いと見ています。

「三船の俳優業の原点になる写真ではないかと思います」と高木さん。写真は今月22日まで熊本市南区城南町の市立城南図書館に展示されていて、無料で見学できます。三船さんは戦後に2回熊本を訪れていて、その時の写真もあわせて見ることができます。

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旧御船区裁判所 登録有形文化財へ     2016年3月11日 

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国の文化審議会は、御船町にある「旧御船区裁判所」を国の登録有形文化財とするよう文部科学大臣に答申しました。約2か月で正式に登録される見通しです。

旧御船区裁判所は1895年(明治28年)に建てられ、1971年(昭和46年)まで簡易裁判所として利用され、現在は地域の公民館として使われています。裁判所庁舎としては県内で最も古く、法廷や判事室などがそのまま残っていて、当時の裁判所の様子を知ることができることなどが評価されました。

県内の登録有形文化財は155件目の登録となります。

細川家御用釜 茶器の展覧会     2016年2月12日  

江戸時代、肥後熊本藩の御用釜だった八代焼の展覧会が、八代市立博物館未来の森ミュージアムで始まりました。

八代焼は高田焼(こうだやき)ともいわれ、400年の歴史があります。朝鮮出兵から」帰国した加藤清正とともに来日した上野喜蔵高国(尊楷)が、利休七哲の一人、細川忠興(三斎、1563~1645)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めました。1633年(寛永10年)に忠興が八代城に入ると上野家も八代郡高田郷に移り、細川家御用釜としてすぐれた茶器や日用の器を焼き続けました。朝鮮iの影160219yatsusiroyaki_R.jpg響を受けたとみられる白土の象嵌が特徴です。

会場には江戸時代に焼かれた茶碗など50点が展示され、八代焼の魅力を楽しむことができます。展示会は3月27日までです。

大迫力 田中城の合戦再現     2016年2月14日

nagomi2_R.JPG和水町の多目的広場で「戦国肥後国衆まつり」が開かれ、甲冑(かっちゅう)などを身にまとった武者が迫力ある合戦を再現しました。
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再現されたのは1587年(天正15年)、豊臣秀吉軍と和仁親実らの一族が戦った田中城の戦いです。勇壮な合戦絵巻は両軍の大将の名乗りの後、鉄砲隊の攻撃で始まり、白煙が漂う中、和仁軍の大将が討ち取られるまで続きました。

田中城の戦いは肥後国人一揆での最後の激戦として知られます。和仁一族の軍勢1000は秀吉が派遣した安国寺恵瓊(あんこくじえけい)ら1万の大軍に城を包囲されましたが、10倍の兵力とよく戦い、攻防は約100日におよんだといいます。和水町和仁にある田中城跡は建物跡・井戸跡などが良く保存されており、国の史跡になっています。

山鹿・日輪寺で赤穂浪士をしのぶ     2016年2月4日  

GISHIMATSURI.jpg赤穂四十七士が吉良上野介邸に討ち入りした「赤穂事件(忠臣蔵)」にちなみ、大石内蔵助ら17人の遺髪が塔に納められている山鹿市の日輪寺で、「義士まつり」がありました。

1703年(元禄16年)の赤穂事件で吉良邸に討ち入った赤穂浪士のうち、17人は当時東京都港区高輪にあった細川藩下屋敷に預けられた後に切腹しましたが、屋敷で赤穂浪士の世話をした堀内伝右衛門が遺髪を持ち帰り、日輪寺に納めた塔があります。

まつりは山鹿温泉観光協会が内蔵助の命日にあわせて毎年行っています。今年は兵庫県赤穂市の明石元秀市長も参列し、内蔵助が手植えし0204gisimatsurihon_R.jpgたとされる赤穂八幡宮のハゼの実から育った若木を境内に植えました。ハゼの木は山鹿青年会議所が内蔵助と伝右衛門の交流を描いた漫画「十七士と伝右衛門の五十日」を赤穂市の小学校などに贈った返礼ということです。参列者は塔の前で焼香した後、恒例の「討ち入りそば」を味わいました。

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