ハンセン病 差別と偏見との戦い

病気はほぼ根絶されたが

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ハンセン病はらい菌の感染によって、菌の抵抗力のない人にごくまれに発病する感染性疾患です。ノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセン(1841~1912)がらい菌を発見したことからこう呼ばれています。通常生活でうつることはなく、今は薬で完全に治ります。しかし、かつてはハンセン病は「うつると不治の病」という誤った知識が広がり、誤解が患者や元患者、その家族らに対する偏見や差別を助長してきました。

その原因にもなったのが、100年以上前に始まった国の強制隔離政策です。らい予防法の始まりは1907年(明治40年)、「癩(らい)予防ニ関スル件」が制定され、各地を放浪し、神社や寺、公園などに寝泊まりしている患者の取り締まりが行われました。1931年(昭和6年)に「癩予防法」に改められた後は、強制隔離の対象が家で療養している患者にも広がりました。

1947年(昭和22年)には治療薬「プロミン」が日本でも使われるようになり、ハンセン病は治る病気になりました。にもかかわらず、1953年(昭和28年)に制定された新たな「らい予防法」では、患者の労働や外出禁止が追加されていました。

151515.jpg間違いだった国の隔離政策

mukashi.png患者の隔離政策に基づいて、1909年(明治42年)4月には、全国に開設されたハンセン病の公立療養所の一つとして、九州七県連合立「九州癩(らい)療養所」が開設されました。現在の「菊池恵楓園(けいふうえん)」です。

恵楓園はかつてはハンセン病患者の救護あるいは隔離・収容の役目を担い、全国最大の収容施設として、病床が2200床もあった時期もありました。

1931年(昭和6年)の癩予防法の制定以降、国はハンセン病患者を国立施設などに隔離する政策を強化しました。患者は強制的な隔離によって家族から引き離され、塀の中だけで暮らす生活を強いられたのです。

恵楓園でも監禁室に閉じ込められて罰を受けたり、弁護士のいない「特別法廷」で裁かれたりといった行為があったといいます。戦後には治療薬プロミンによる治療も始まったのですが、1953年(昭和28年)に制定された「らい予防法」でも、患者を排除し隔離する政策の基本は変わりませんでした。

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1996年(平成8年)にらい予防法はようやく廃止され、2001年(平成13年)には熊本地裁が「1960年(昭和35年)以降、ハンセン病は治療可能な病気になっていた」として、らい予防法による隔離政策に違憲判決を出し、この判決が確定しました。

特別法廷についても、最高裁判所が設置が正しかったのかどうかについて再検証を進めています。

151515.jpg差別や偏見がなくなる日まで

現在の恵楓園入所者は全員、完治しています。身体障害の後遺症があり、高齢に伴う病気のため入院生活をしている方もいますが、介護を受けて通常と変わりない生活を送っています。現在の恵楓園は入所を続けている方の医療・福祉、生活支援の場となっており、園内には野球場や医療施設、郵便局、コンビニエンスストア、商店などがあります。また、園内にある社会交流会館(歴史資料館)は、ハンセン病を取り巻く歴史や病気に対する正しい理解、偏見のない共生を考える拠点としても重要な役割を担っています。

ハンセン病への理解も昔より進み、園内で行われる盆踊り大会やゲートボール大会、カラオケ大会や文化祭などには地域の人たちも多く参加しています。一方で2003年(平成15年)には、南小国町のホテルで恵楓園からの団体客が宿泊拒否される事件が起きました。恵楓園側が抗議する姿が報道されると、自治会には誹謗中傷の手紙や電話が数多く寄せられました。

今、日本ではハンセン病者の発生は年間数名で、ほぼ根絶されたと言えます。しかし、かつて病気であったことを素直に話せない人も、まだいます。病気だけでなく差別と偏見が根絶されるまで、恵楓園の役割は終わりません。

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恵楓園を地元住民がボランティア清掃              2017年6月4日

170604KEIHUUa.jpg合志市の国立療養所菊池恵楓園で、地元住民などおよそ600人が参加したボランティア清掃活動が行なわれました。

高齢化している入所者を支援し、交流を深めようと合志市などが呼びかけて行なわれました。伸びた雑草を刈り取ったり、落ち葉などを拾い集めたりして園内をきれいにしました。草むしりを手伝う子供たちの姿も見られました。

菊池恵楓園の「希望の鐘」復元 佐賀県が寄贈         2017年3月27日

170327KIBOUNOKANE.jpg国立療養所菊池恵楓園(合志市)の「希望の鐘」を佐賀県が復元し、園内で除幕式が行われました。

鐘の復元は、佐賀県の山口祥義知事の呼びかけで実現しました。佐賀県出身の入所者に招かれて2016年に菊池恵楓園を訪れた山口知事が鐘の存在を知り、復元を申し出たものです。かつては歴史資料館前の高さ約20メートルの「希望の塔」に取り付けられ、社会復帰を目指して園を出る入所者を見送るために鳴らされていましたが、老朽化に伴い1970年(昭和45年)ごろに撤去されました。寄贈した新しい鐘は直径、高さともに約50センチで、約3メートルの支柱に取り付けられています。

除幕式には入所者のほか、寄付金を贈った佐賀県の小中学生71人らあわせて130人が参加しました。入所者に続いて鐘を鳴らした山口知事は「未来とか将来とか、夢とか希望というものを、まったく考えられなかった皆さん方の鐘の音に託す思いが、いかにあったのかと痛感しました」と話しました。入所者の長州次郎さんは鐘の音色について「当時の鐘の音とよく似ています」と話していました。菊池恵楓園は、この鐘を通してハンセン病問題への理解を深めてほしいとしています。

「恵楓園で学ぶ旅」に県内の教員など150人が参加         2016年8月19日

160819keihuutabi_R.jpg学校の先生などがハンセン病についての理解を深める「菊池恵楓園で学ぶ旅」が開かれ、隔離政策の歴史を学びました。

この取り組みは、ハンセン病元患者の宿泊拒否事件が起きた翌年の2004年から、県が毎年開いています。今年は県内の教職員や自治体の職員など、およそ150人が参加しました。参加者たちは、かつて規則に違反した入所者が入れられた旧監禁室や、隔離政策の象徴となっていたコンクリートの塀の跡などを見学した後、入所者自治会の志村康会長に話を聞きました。

苓北町の支援学校職員は「人としての生活を奪われたんだな、本当にあってはならないことが起きていたんだなと感じた」と感想を話しました。また水俣市の小学校教諭は「子どもたちに人権の話をする機会があればハンセン病も人権問題の一つとしてあるんだよということを伝えていきたい」と話していました。

恒例の夏祭りにぎやかに 地域住民と入所者が盆踊りの輪     2016年8月4日

160804keihuuA.jpg合志市の国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園の夏祭りが4日夜開かれました。ハンセン病の元患者は、長年強制的に社会から隔離されていましたが、元患者たちの取り組みが少しずつ実を結んで、菊池恵楓園は、今では多くの人が交流する場になっています。

祭りでは入所者自治会の志村康会長が「大勢の子どもの皆さんも参加いただいて本当にありがとう」とあいさつしました。園内にある保育園「かえでの森こども園」の子どもたちも参加して、くまモンと一緒に元気な踊りを披露。祭りのハイライトでは、入所者と地域の人たちが輪になって盆踊りを楽しみました。最後は花火が打ち上げられ、これまでに亡くなった入所者を追悼しました。

九弁連「特別法廷」検証のため恵楓園を訪問        2016年6月23日                    

ハンセン病患者を隔離施設の中で裁いた「特160623KEIHUUEN.jpg別法廷」を検証するため、九州弁護士連合会が23日、合志市の菊池恵楓園を視察しました。

特別法廷をめぐっては最高裁が4月「裁判所法に違反していたが、憲法違反ではない」との調査結果を公表しています。今回の訪問は、事実上の非公開で行なわれていた特別法廷が裁判の公開を保障した憲法に違反していないかどうか、九弁連として検証するのが目的です。この日はメンバー14人が、特別法廷が行われていた医療刑務所跡などを訪れ、ガイドによる説明を受けました。その後、特別法廷を目撃したという入所者から当時の話を聞くなどしました。

九弁連人権擁護委員長の北澤匡大弁護士は「周囲から本当に隔絶されていて、実質的には公開には程遠いのではないかという印象を持った」と語りました。九弁連は、今回の視察結果も踏まえ、9月をめどに検証結果をまとめる方針です。

「司法手続きが差別を助長」最高裁長官 異例の謝罪        2016年5月2日

160502hansen.jpg最高裁の寺田逸郎長官は、3日の憲法記念日に合わせた定例記者会見で、ハンセン病患者が被告の裁判を隔離施設などで行っていた「特別法廷」について、手続きに差別を助長する姿勢がみられたとして謝罪しました。最高裁長官が司法手続きの誤りを認め、謝罪するのは極めて異例のことです。

寺田長官は「憲法的価値の実現に役割を担う機関として、裁判所が期待を裏切る対応をしたのは痛恨の出来事だ。責任者として重大に受け止める」した上で、「元患者や関係者の方々におわびを申し上げたが、加えて社会、国民一般の皆様にも深くおわびを申し上げなければならない」と述べました。

菊池恵楓園 納骨堂被害で供養式      2016年4月26日

160426hansenjisin_R.jpg合志市にある国立ハンセン病療養所、菊池恵楓園では、地震により納骨堂の骨つぼが割れる被害があり、供養式が行われました。
供養式には入所者や関係者などおよそ100人が参列しました。菊池恵楓園では、納骨堂に納められているおよそ1300の骨つぼのうち、2割程度が割れるなどの被害にあったそうです。志村康自治会長は「最後の一人の人が亡くなった後も、社会のみなさんがこういう悲惨な歴史があったことを記憶して頂くため、この納骨堂をお守り頂きたい」と話しました。

菊池恵楓園によると、納骨堂以外は地震による大きな被害はなかったということです。

特別法廷 最高裁異例の謝罪 「違憲性」は否定     2016年4月25日

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ハンセン病患者の裁判がかつて、隔離された「特別法廷」で行われていた問題で、最高裁判所は25日、「人格を傷つけた」などとして極めて異例の謝罪を行いました。
この問題は、1972年までハンセン病患者の裁判95件が、裁判所内の法廷ではなく療養所など隔離施設に設けられた「特別法廷」で行われていたというものです。最高裁が公表した検証結果では、一律に「特別法廷」を認めたのは裁判所法に反する「違法」な手続きで、「患者への差別を助長し、人格を傷つけるものであった」と謝罪しました。その一方、憲法が定める法の下の平等に反するとは断定せず、裁判の公開に反するかどうかについては、開廷を知らせる掲示を療養所の正門などにするよう指示していた点、傍聴が認められた場合もあることなどをあげ、憲法違反とは言えないと結論付けました。
これに対し、有識者委員会は「一律許可は差別的な取り扱いで、憲法違反」とし、国立療養所などこでの裁判自体が法の下の平等に反するとしました。さらに、「掲示によって一般の人に実質的に公開されていたと言うには無理がある。違憲の疑いが拭いきれない」と指摘しています。

検証結果の公表を受けて記者会見した国賠訴訟全国原告団協議会の志村康会長は、「法律違反だが、憲法違反ではないから最高裁は責任を負わない、とは、こんなに理不尽なことはない。これが謝罪と言えるのか。今回の報告書で(ハンセン病の差別問題は)再び日本国憲法が及ばないところに押し戻された」と述べました。

最高裁「特別法廷の運用は誤り」と認める方向     2016年3月31日放送

ハンセン病患者や元患者の刑事被告人を裁判所外の隔離施設で審理した「特別法廷」について検証している最高裁判所が、過去の特別法廷の運用手続きは法律を逸脱し、誤りだったことを認める見通しとなりました。

特別法廷は通常の法廷が使えないときに、例外的に裁判所以外に設置される法廷ですが、本当に通常の法廷で裁判を行うのが難しいのかどうか、最高裁の会議で1件1件慎重に判断することが、裁判所法で定められています。ハンセン病患者・元患者に対する特別法廷は、1948年(昭和23年)~1972年(昭和47年)にかけて、全国の療養所や刑務所など21か所に95件設置されましたが、設置するかどうかの判断は最高裁の事務総局に一任されていました。

2年前に検証を始めた最高裁は、ハンセン病を理由とした特別法廷について、「隔離の必要性などを詳細に検討することなく、一律に特別法廷とする手続きをしていた」として、実質的に裁判所法を逸脱する違法な運用をしていたことを認める方向です。

一方、最高裁が検証に関して有識者の意見を聞くために設置した委員会は3月29日、「特別法廷の設置手続きは差別的で、法の下の平等と裁判の公開原則を定めた憲法に違反する可能性が高い」などとする意見書の原案をまとめています。最高裁は有識者委員会の意見も踏まえて4月にも最終報告書をまとめる方針ですが、この中で特別法廷の設置が憲法にも違反していたかどうかについてどう総括するか注目されます。

ハンセン病家族訴訟 2次提訴500人超     2016年3月29日

160329-2jiteiso_R.jpgハンセン病の元患者の家族が国の誤った隔離政策で差別被害を受けたとして国に謝罪と損害賠償を求めた裁判で、500人を超える原告が追加で提訴しました。

29日提訴したのはハンセン病の元患者の子どもやきょうだいらで、熊本をはじめ全国各地に住む23歳から96歳の男女509人です。裁判で家族らは、国の誤った隔離政策で作り出された偏見によって、患者の家族も地域や学校などで差別され、一家離散といった被害を受けたなどとして、国に対し謝罪と一人当たり500万円の損害賠償を求めています。

原告で姉が元患者の井土一徳さん(80)は「何の悪いこともしておりません。なのにどうして差別されるのか、その元はどこにあるのか」と訴え、やはり原告で両親が元患者の奥平光子さん(58)は「ハンセン病の子どもみたいな感じでいじめられた経験があります。すごくきつかったです」と話しました。

この裁判では2月15日、すでに59人の原告が提訴していて、これで原告の数は568人となりました。

恵楓園の絵画 後世に残す      2016年3月22日放送  

菊池恵楓園には入所者たちが描いた400点を超える絵画があります。それらの絵画を後世に残そうと活動する女性の取り組みを取材しました。

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「わー、これも初めて見た。きれいか、かわいか桜ですね」

菊池恵楓園の入所者たちが描いた400点を超える絵画のタイトルや寸法を調べているのは、藏座(ぞうざ)江美さん(45)=写真左=とボランティアのスタッフです。藏座さんたちは絵画を後世に残すため、全容を把握する活動を始めました。

2015年まで熊本市現代美術館の学芸員だった藏座さんは、現代美術館で菊池恵楓園の絵画クラブ「金陽会」の絵の展覧会を担当してきました。その当時から藏座さんは「全国に13か所ある療養所でこれだけの絵が残っているというのは本当に素晴らしいこと。絵のバックストーリーというかそういうものを同時に伝えていかないといけないなと、年々思いが強くなっている」と話していました。

藏座さんは2015年、金陽会のメンバーの中でただひとり活動を続けている吉山安彦さんの個展を企画しました。吉山さんは17歳の時に国の強制隔離政策によって菊池恵楓園に入所させられました。吉山さんが生きることに希望を持つために始めたのが、絵を描くことでした。吉山さんが絵に込めてきた故郷への思いや、誰もが見向きもしないものにも向けてきた眼差し。その絵は人々に力を与えてきました。

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金陽会では多い時は10人以上の入所者たちが活動していましたが、ほとんどのメンバーは亡くなり、作品だけが恵楓園に残されています。故郷への思い、強制隔離という理不尽な仕打ちに対する怒りや悲しみ、様々な思いを入所者たちがぶつけてきた絵画は、引き取り手もおらず、故郷に帰ることもありません。

吉山さんは「(仲間たちの作品は)園内の宝物と思っている。毎日のように見学に来てくださる人に、ちょっと見てもらえたらいいなと思う」とずっと考えていました。

絵画は適切な保存をしなければ劣化してしまいます。入所者たちの生きた証を後世に残したい。その思いで絵を調べ直す活動を始めた藏座さんたちは、入所者たちの絵画をユネスコの世界記憶遺産に申請することや、絵画を展示する場所をつくることなどを検討しています。

藏座さんは「絵を見て感じていただくことで、教科書で勉強するような差別の問題とか、ハンセン病の今までの歴史だったりということよりも、1枚の絵が饒舌に語ってくれる、そこから感じてもらったことの方がより深く残る、というのが私自身が経験していること。それを本当に皆さんにお伝えしたい」と話しています。

特別法廷検証の有識者 恵楓園を訪問     2016年2月29日 

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ハンセン病患者を隔離施設の中で裁いた「特別法廷」を検証する最高裁判所の有識者委員会のメンバー5人と最高裁の調査委員会などが、合志市の菊池恵楓園を初めて訪れました。

有識者委員会は、ハンセン病患者を隔離施設で事実上非公開で裁いた特別法廷が適法だったかどうかを検証するため、2015年に設けられました。

入所者自治会の志村康会長から「じっくり見ていただいて肌で感じてほしい」と挨拶を受けた後、委員らは約1300の遺骨が今も引き取られずに眠る納骨堂に参拝しました(写真)。隔離政策の象徴ともいえる脱走防止用のコンクリート塀では、入所者自治会の太田明副会長から「物理的だけでなく精神的にも(隔離が)刻まれている」と説明を受けました。特別法廷が行われていた隣接施設の医療刑務支所や旧監禁室の独房の中も視察し、入所者からの聞き取り調査も行いました。

有識者委員会は3月1日には5回目の会合を熊本地裁で開き、前日の視察も踏まえた意見交換を行いました。特別法廷開催の告示が誰でも見える場所にあったのか、誰でも参加できる形で行われていたのかなどについて意見を交わしました。

委員会は3月末にも意見を取りまとめる予定で、最高裁は委員会の意見も踏まえて特別法廷についての最終報告書を出すことにしています。

元患者の家族59人が提訴     2016年2月15日  

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ハンセン病の元患者の家族が、国の誤った隔離政策で深刻な差別被害を受けたとして、国に謝罪や賠償を求める裁判を熊本地裁に起こしました。家族の被害をめぐる集団訴訟は初めてとなります。

訴えを起こしたのは、熊本や東北などに住むハンセン病元患者の子どもや配偶者ら県内外に住む37歳から92歳の男女59人です。訴状では、国はらい予防法が廃止される1996年(平成8年)まで隔離政策を続け、患者だけでなく家族への差別・偏見を助長。治療薬の普及などで遅くとも1960年以降は隔離の必要がなくなったのに、差別・偏見を解消する措置を講じなかった、と指摘しています。

この結果、家族は地域社会や学校で差別され、婚約の破談や離婚、一家離散や転職を余儀なくされたり、結婚や就職などでも家族であることを隠して生きることを余儀なくされたということです。原告は国に対して謝罪と総額3億5000万円あまりの損害賠償を求めています。

提訴後に記者会見した林力原告団長(91)は「訴訟を通じてハンセン病についての歴史や課題から明らかにしてもらいたい」と話しました。

ハンセン病をめぐっては2001年(平成13年)、熊本地裁が1960年以降の隔離政策を違憲とする判断を示しましたが、家族への被害については対象外とし、国の和解一時金(補償金)も支払われていません。しかし2015年9月、鳥取地裁は元患者の家族の訴えに対し、時効などを理由に請求自体は棄却したものの、家族の被害についても国に賠償責任があるという判断を示していました。

弁護団は3月29日に第2陣の提訴を予定していて、原告数は100人を超える見通しだということです。 

ハンセン病家族訴訟 原告の思い     2016年2月15日放送 

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第1陣の提訴をしたハンセン病元患者の家族たち。原告団の一人が2016年1月、KKTのインタビューに応じ、自らの苦難の歩みを話してくれました。

話をしてくれたのは、父親が元ハンセン病患者で岡山県在住の原田信子さん(72)です。父親の金次郎さんは、原田さんが小学校2年生だった1951年(昭和26年)7月、青森県の国立ハンセン病療養所、松丘保養園に強制隔離されました。

「部屋が真っ白に雪が積もったくらいに消毒されたんです。寝ていた布団はみんな持っていかれて山の方で燃やされた」と原田さんは語ります。残された原田さんと母・コノさんには、地獄のような生活が始まりました。

「母が働いていた加工場をすぐにクビになったみたいです。生活していけないから、母は本当に何回ももう死のう死のうと言いました」

噂は瞬く間に広がり、近所の人や親族からも無視されたり、誹謗中傷を受けたりしました。差別や偏見は娘の原田さんにまで及びました。

「(学校では)もういじめられっぱなし。何をするにも『うつるからそばに来るな』『汚いから来るな』と、もうすごかったね、それは」

親しくしてきた友人にまで裏切られてきた原田さん。父との面会のため、松丘保養園にいる時だけが、偏見にさらされることなく安らげたといいます。しかし、原田さんは「(父親には)甘えたこともないし、触られたこともないです。大きくなってから、父は(病気が)うつっては困ると思ったんじゃないかと感じました」と振り返ります。

父親の強制隔離から50年たった2001年(平成13年)に、熊本地裁はハンセン病国賠訴訟で、らい予防法に基づく強制隔離政策を違憲とする判決を出しました。国は控訴も検討しましたが、世論の反発も強まり断念。この判決によって全国の元患者たちは国から謝罪と賠償金を勝ち取りました。しかし、同じ期間苦しみを味わってきた家族たちへの救済は一切ありませんでした。

「本当はあきらめていました。もうこのままで終わるんだなと」。しかし、今回初めてチャンスが生まれました。

「国には親を連れて行かれた子供たちの苦しさを訴えたいと思います。聞かなかったらわからないじゃないですか。(家族は)みんな隠れて出てこないのでね。心の悩みは患者さん以上だと思うんですよ」。「みんなとだったら怖くない」との思いで、原田さんは裁判に向かいます。

74年ぶりによみがえるピアノの音色     2015年11月19日  

after151119_R.jpg明治から昭和初期にかけてハンセン病患者の救済に尽力したイギリス人宣教師のリデル、ライト両女史が愛用していた100年前のピアノが、回春病院の創設から120周年の記念に修復され、コンサートが開かれました。

151119hansen2josi_R.jpgハンナ・リデル(1855~1932、写真左)とその姪エダ・ライト(1870~1950、同右)は明治時代中期、イギリスからキリスト教の宣教師として熊本に派遣され、不治の病と恐れられていたハンセン病の患者を救うため、回春病院を創設して、生涯をハンセン病患者の救済に捧げました。

病院は1941年(昭和16年)に閉鎖され、ピアノは太平洋戦争中、菊池恵楓園に疎開していました。その間恵楓園の楽団で使われ、入所者たちに楽しみや癒しを与えてきました。

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ピアノが修理工場に運ばれて来た時には、色もはげ、形はひずみ、音もまともに出ない状態でした(写真右)。復元作業は甲佐町にあるピアノ修理工場で行われ、調律師の雜賀大治郎さんが担当しました。雜賀さんは2人が弾いていた音に近づけるため、できる限りもとの部品を残すなど、半年以上かけて丁寧にピアノを修復。11月14日、ピアノの音が74年ぶりに蘇りました。

演奏したのは岡山在住のシンガーソングライター、沢知恵さん。沢さんは曾祖父がライト女史と親交があり、自身も岡山県のハンセン病療養所、大島青松園で慰問コンサートを開いています。

「澄んだ音、澄み切った音になっていた」

「なんさま懐かしかったよ」

「よかったね。いい響きだったね」

2人の女史の思いを今後も繋いでいこうという多くの人の願いが、見事にピアノをよみがえらせました。

入所者の思い 伝え続ける月刊誌     2015年10月22日   

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菊池の国立ハンセン病療養所、菊池恵楓園の月刊機関誌「菊池野」は、創刊から64年続くこの機関誌は、国の政策で強制隔離された入所者たちの思いを発信してきました。

菊池野には、ハンセン病問題の最新の動きについて報告された記事や、入所者の日々の思いをつづったエッセイ、短歌や俳句などの作品が載せられています。編集に50年以上携わってきた杉野桂子さん(74)は、27年前から編集長を務め,今も自らレコーダーを片手に恵楓園に暮らす人たちを取材もしています。

「題字も入所者、表紙絵も入所者が書いて、印刷も全部入所者でして、本当に入所者手作りの雑誌でした。これをなくしたら私たちの訴えるところは何もないから。絶やしてはいけないという思いでした」と杉野さんは振り返ります。151022hanseninsatsuhuukei_R.jpg

1979年(昭和54年)、活版印刷で菊地野を印刷していた頃の映像を見ると、当時は多くの入所者が作業にあたっていたことがわかります。しかし今、菊池野の編集にあたっている入所者は、杉野さん1人です。それでも「1号でも多く発行したい」と話す杉野さん。理由は、恵楓園で暮らす人たちのことを伝えたいという使命感です。

杉野さんは、「ここの中で亡くなっていく人も多いわけだからね。その人たちが生きてきたことを 何かの形で残していけたらいいんじゃないかなと思うんです。こんなことがあったんだって思ってくださればね」と、菊池野を発行し続ける意義を語ってくれました。

151022kuradaituki.jpg「菊池野」に毎月欠かさず俳句を投稿しているのは、桜木安夫さん(86、写真左)です。

桜木さんは12歳で鹿児島県のハンセン病療養所に入所し、26歳で菊池恵楓園に移りました。 病気の後遺症で49歳の時に視力を失い、子どもの頃に詠んでいた俳句を再び始めたのは60歳の時でした。今はカセットテープに俳句を録音して「菊池野」に投稿しています。

荒尾梨 風雨に耐へて 実りけり

秋晴れや おおぞら高く 白き雲

季節を詠んだ明るい俳句が多い桜木さんには、こんな句もあります。

亡き母の 夢見て覚むる 夜長かな

26歳で会ったのが最後だったという母。 この秋、夢に出てきた母のことを詠んだ句です。桜木さんは「私たちをやかましくしつけながら働いていたが、本当は優しい母だったと思う。背中洗いながら、こんなに女みたいなきれいな肌しているのにな、とつぶやいたことがあります。 多分そのときは涙を流していたんじゃないかと思う」と話してくれました。

特別法廷の再検証始まる     2015年8月28日放送

hansen-s-houtei_R.jpg今から62年前に1人のハンセン病患者が菊池恵楓園のいわゆる「特別法廷」で行われた裁判で死刑判決を受けました。事実上の非公開で行われたこれらの裁判は正しかったのかどうか、最高裁が検証を進めています。

この元死刑囚(当時40歳)は1950年(昭和25年)、ハンセン病を患っているとして菊池恵楓園への入所勧告を受けました。その2年後、自分の病気を密告した村の職員を殺害したとして逮捕されます。 元死刑囚は無実を訴え続けましたが、1962年(昭和37年)に死刑が執行されました。

執行の前日に最後に面会した菊池恵楓園入所者自治会の志村康会長は「死刑の宣告をやるのに弁護士がいない。そういうなかで死刑の判決を下した。そんなことが許されますか。ハンセン病患者を人間扱いしていない」と証言しています。

特別法廷は通常、 裁判所が災害などで使用できない場合などに最高裁が設置を許可するものです。特別法廷は1977年(昭和52年)までに113件設置されましたが、そのうち95件はハンセン病を理由とするものでした。国はハンセン病患者の隔離政策を行い、強制隔離施設では事実上非公開となる特別法廷を行ったのです。

ハンセン病が治った今も菊池恵楓園に入所している元患者の杉野芳武さんは、特別法廷を実際に見た経験があります。

「まともな扱いはされていなかった。本来ならこの中で裁判が開かれること自体(おかしい)。 入所者に対しても公開されるわけでもないし、こういうのがあってますというお知らせがあるわけでもない。案内があるわけでもない」と杉野さんは話します。150828kokubai-3_R.jpg

ハンセン病国家賠償訴訟での熊本地裁(写真右は法廷の風景)の判決が、1960年(昭和35年)以降も続いた国の隔離政策を違憲としたことで、ハンセン病を理由に行われた95件の特別法廷の裁判のうち、少なくとも1960年以降の27件について正当性に疑問が出てきました。2014年(平成26年)、菊池恵楓園など全国のハンセン病療養所の入所者などで作る協議会は、「1960年以降の特別法廷は差別的な手続きだった」として、最高裁に検証を求める要望書を出し、最高裁は特別法廷を検証する調査委員会を設置しました。

 

旧監禁室、保存に向け調査      2015年7月17日 

hansensisatsu2_R.jpg厚生労働省は全国のハンセン病療養所内の史跡のうち、合志市の菊池恵楓園の旧監禁室を補修することを決め、厚労省の担当者らが菊池恵楓園を訪れて旧監察室の保存状態を調査を始めました。

旧監禁室は療養所の規則に反した入所者を一時的に収容した建物で、1917年(大正6年)に建設され、その後恵楓園に移築されています。

この日は厚労省健康局の担当者らが旧監禁室を調査し、「木材が腐り、傷みがはげしい。見学者の人数の制限が必要なほか、白アリの被害も見られ、追加調査で床下や天井裏の状態を調べる必要がある」などと述べました。

菊池恵楓園入所者自治会の志村康会長は、「ささいな違反で監禁され、入所者が受けたハンセン病の偏見や差別があったこと伝える貴重な施設として保存してほしい。新しい歴史資料館建設も是非造ってほしい」と述べました

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