日替わりコラム

 絵日記トップページへ

先月の30日から介護老人保健施設で実習中なのだけれど、これまでの実習を通して気付いたことや感じたことを、中間報告として書いてみようと思う。

実習前に不安だったオムツ交換も、トイレ介助も、義歯の洗浄も、入浴介助も、食事介助も、実際にやってみると、大変だけれど、嫌だなぁと思うことはない。
何故だろう?
どうして嫌ではないのだろう?と考えてみて、思い当った。
多分、<MCMS_KKT_NOBUKO2>は“それだけしかしなくていい”からだ。
オムツ交換の際、便で服が汚れていても、シーツが汚れてしまっても、わたしが洗濯する必要はない。洗濯は別の人がしてくれる。
入浴介助でバタバタしながら、さて今日のおかずは何にしようか、と考える必要もない。
食事は担当の人が作ってくれる。
食事介助中、こぼして床がひどく汚れても、心配する必要はない。掃除は他の人がしてくれる。
わたしは“介助”だけをしていればいいのだ。そして、その仕事は夕方5時には終了する。
「お疲れさまでした!」と挨拶したら、それでその日の仕事はおしまいだ。

それが、家庭だったらどうだろう?
オムツ交換も、トイレ介助も、入浴介助も、服の着脱も、入浴も、買い物も、食事の支度も、食事介助も、掃除も、洗濯も、食器洗いも、片付けも、そのほか日々の沢山の雑用も、何もかもしなければならない。そのうえ、その仕事に終了時間はない。
イライラするのは当然だ。疲れるのは当たり前だ。
だからこそ、その限りない仕事の一部分だけでも引き受けてくれる人や施設が必要なのだと痛感した。

実習で認知症の方々と毎日接していても、わたしはイライラすることがない。
何故だろう?
どうして腹がたたないのだろう?と考えてみて、思い当った。
多分、わたしは“その人の昔を知らない”からだ。
家族だったら、その人の昔の姿を知っている。例えば、元気だった頃のお父さん、働き者で頼りになっていたお父さん、立派だったお父さんの姿をよく覚えているからこそ、そうでなくなったお父さんを受け入れることができないんじゃないかしら。
認知症になったお母さんを認められないのは、優しかったお母さん、しっかり者のお母さん、お洒落だったお母さん、何でもしてくれたお母さんの姿が、家族の心に焼き付いているからではないかしら。
でも、仕事として接している人たちは、(わたしを含めて)、その高齢者の“今”だけを見ているから、元気だった頃と比較して情けなくなることも、腹がたつこともない。その人が“今”できていることに目を向けて評価することができる。
そういう人の存在、ってとても大切じゃないかと思う。

家族にしかできないこともあれば、他人だからこそできることもある。
他人の手、って、時に家族よりも力になるのかもしれないな。


…そんなことを考えながら続く実習。
その報告はまた今度。

>>信子かあさんのきょうの絵日記へ戻る